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愛しのジュリエットに                

    
 ソチ五輪の銀盤上を、羽生選手が曲に合わせて軽やかに舞うのを観ている。傍でジュリエットは微かに胸を上下させ、眼を閉じたままだ。
 麻薬のテープを幾つも貼られた体,大量の麻薬を飲まされ、紅も消えた唇、肉の削げ落ちた白い頬。生気の薄い痩せた姿に囁く「魔は消えたよ」。 
 繰り返す度に、自らが魔を壊滅させられない無力感と焦燥に苛まれていく。胸を掻き毟って止む事が無いのは、自分との出会いこそがジュリエットをこの姿にしてしまったという思いだ。無力な言葉を呑み込み、うねりながら時が刻む。
 魔に襲われるや、ジュリエットは顔を歪め、喘ぎを発するのだ。来たっ、怖い。
 闘いは何時からだったろうか、半年前? それよりずっと前だった、か。
 半年前。絶え間無い嬌声の渦の中にいた自分だ。春を待ちかねた鳥どもの喧騒にも似た男女高校生の喚声群、性フェロモンの満ち溢れたそこにいた。枯渇したフェロモンを自覚して挑むかのように大量の加齢臭を発散していた教師、それが自分だった。  
退職時にキャンピングカーを手に入れ、妻とキャンパーになる予定が、非常勤の講師となり四年目を迎えていた。合わない入れ歯で滑舌悪く、難聴に加えて視力も衰え、髪の老化を染めて隠している職場一の高齢教師だった。だが、ニックネームで呼びかけてくる生徒に手を振って応え、運転中にも同じ様に応え、手振りに限るならテンノウ並みの職務をこなして一番人気だと自負していた。
勤めるようになったのには、唯一理由がある。妻の母校だったからだ。

   
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 およそ四十年前。教壇に立った時、彼女は高校三年生だった。独身教師というだけで女子生徒には人気があったかと思うが特定の生徒に格別の好意を寄せてはならないとの分別はあったし、組合活動の方が若い女とつきあうより面白かった。酒好きだったので卒業生達と飲みに行くのを好み、中の一人に彼女がいた。銀行に勤めていた彼女は預金勧誘の為か母校に頻繁に顔を出していたので、ノルマがあるのだろうと年二回の賞与の時は協力した。貯金高つまり財産総額が大した額でない事も彼女に把握されていた訳だ。
 もとより貯金など好きでは無かった。本、酒、山登りにと給料は消えて行き、電話を止められた事もしばしば、給料日にスナックのママが職場に集金に来た事もあった。マルクス・エンゲルス等に充てる本代の割合を、エンゲル係数で例えれば三割に近かった。財産といえば本しかなかったから施錠の習慣も持たず、客は勝手に上り込んでいた。 
 彼女が初めて友達に連れられて不在のウチを訪ねた時のこと、あまりの乱雑さに「先生の嫁さんになる人がこの部屋を見たら、どうなるだろうね」と友達と笑いこけたそうだ。二十に満たない小娘は特別の恋愛感情など持ってなかったらしい。
そんな彼女にプロポーズらしきものをしたのは数年後のエイプリルフールの夜。先の友人と三人連れ立った飲み屋で言ってみた
「嫁さんになってくれる気はないかい?」。
 寸時を置かず、「いいわよ」との明るい返事が帰って来た。即座にして明快だったのは、エイプリルフールの日に、二人きりでも無い酔っぱらいの告白なんか本気にしなかったという訳だ。彼女は二十三で、十歳年上の自分も本気さには欠けていた。気に入っていたコだったのだが、十歳の差には弟の嫁になってくれたらと思っていた程だ。無頼派もどきの身上として自分の没後に独り身を何年も送らせるのは忍びない、そう考えていた。
 だがしかし。弟に譲る予定を改める羽目となる。教師につきものの転勤が近づいてきたからだ。教師らしい結婚つまり、伴侶には教え子をと望む気があった。転勤先で新たな教え子をともなれば、年の差は一層広がる事となる。本気で彼女に求婚した。尤も「愛してる」とか「好きだ」とか歯の浮くようなセリフは口にしなかったし、流行り歌みたいに、僕のカワイイ みよちゃんは、なんて男が鼻で歌うものじゃないさ、と思っていた。
 それでも、本人からもし聞かれた場合に二つの答えは準備していた。「トラクターを運転できる事」と、もう一つは「メシ食いに行こうか」と誘うと「お食事?」と美化語で応える事だったが、問いに実際答えた事は無い。
農家の長男だった自分がトラクター運転の逞しさに惹かれたのは相性というべきなのだろうが、好きなタイプは逆に「か弱くて守ってあげたくなるような女」だったのだ。だが、七十年挫折経験を引きずる自分がトオの昔に冷めたことごとくに、彼女は驚きと感動を一つの虚飾も交えずに表現していた。それはトオの年の差から発せられるものでなく個性なのだと認識してから、タイプとは異なる光、彼女の放つ鮮烈な光に吸い込まれて行ったのだ。
 口説き落としたというより、懇願を受け入れるようにして結婚を承諾した事に、彼女の友人達は皆驚いたらしい。

 仲人さんを頼んで彼女の家を訪ねた時、嫁には差し上げられませんと断られる。待機していた車内で自分は返事を聞かされて再度の懇請を仲人に依頼し、そこまで望まれるならと承諾が貰えたのだった。最初は断る、それが習わし、と彼女に漠然とは訊かされていた。が、月下氷人役を引き受けてくれた先輩教師は独特のしきたりに、月下に戸惑いを隠せないでいた。 
 仲人夫妻を始め先輩教師達は親切で、独身時代の自分をよく食事に招いてくれたものだ。十人程の先輩宅をローテーションで訪れていた為に自分の家で夕食を摂る事等無かったが、酒食に与りながら教育論も教えて貰っていた。
 人前結婚式、披露宴にはそれら諸先輩に列席を願った。子供は何人欲しい? との司会者の質問に「三人。名前は上から順に哲、真、愛と決めています」と放言する。男が二人希望だったのは、息子が山男になった時、遭難事故のホケンのつもりだった。
 式から新婚旅行迄、全ての費用管理を新妻が担当する。独身時から資産管理をやってくれていたのだから当然で、春近い旅を秋田から大阪へ下った。大学山学部時代に通った富山の宇奈月温泉にも立ち寄ったが、その時知った植村直己の遭難ニュースには心が痛んだ。彼の母校明大山岳部を憧憬した青春の一時期もあったのだから。
 キョウインとは強く飲むに由る、との先輩の教えを信条とする自分を最初に妻には知らしむべし、と行動した。新婚旅行の七日で七本の酒を飲み干す、の宣言を完遂してみせたのだ。目を丸くした新妻が、同じような目を次にしたのが初めて給料袋を渡した時で、「これだけ?」と訊いた後に「私の方が多かったかも」と加えた。
 旅行中に二十四になっていた彼女だ。

    
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 『結婚が歴史に登場したのは、(略)先史時代にはかつて見られなかった両性間の抗争の布告としてあらわれたのである』エンゲルス「家族、私有財産および国家の起源」

 二度目の新婚旅行だな、と同僚に冷やかされながら向かった転勤先は、鹿児島本土から四百キロ南下した奄美群島の中の喜界島。周囲四十キロ、人口一万の島。そこの教職員住宅での新婚生活が始まる。
 かつてのオンシをアナタと呼ぶ事ができない、そしてなぜか自分と目を合わせきれないでいるウブでカワイい新妻を全力で思い切りカワイがった事は確かだ。証拠に結婚十か月目に長男、その十四か月後に次男、それから十四か月後に長女を産んでくれたのだから。
 シベリア抑留から父がダモイ(帰国)したのは昭和二十三年七月で、結婚十四か月後に自分は誕生している。十四ヶ月というのは、さて父親譲りか。 
 赴任地喜界島には産科が無かった。一月前には帰省しての出産だった為に三子の出産に立ち会えなかったが、三番目になる娘の出産直後は、妻の嬉し涙は止まらなかったと看護師に聞いた。娘を産むまでは何人でも頑張ってくれと懇願していたから責務を成し終えた思いだったのだろう。
 懇願だけでなく実践面でも自分のテヌキは無かった。朝寝した妻がベッドから「時間が無いから、朝食かお弁当のどっちかにして」と寝ぼけ声で頼んだ事もあったぐらいに。
 妻に家計は全て委ねたが、子供の将来に責任を負うべく自分も浪費をやめた、パチンコからだ。独身時代には専用の家計簿をつけていたくらいにのめり込んでいたが、島内にパチンコ店は幾つも無かった。先生は毎晩打っているという噂でも立った日には遊んでばかりのようで立つ瀬が無い。パチンコの代りに磯足袋を履いて瀬に立つようになった。その磯釣りも一年で、船釣りへと替わる。島ンチュの友人が増えて船の仲間に誘われるようになったからだ。釣りの後、浴びろうか(飲もうか)、という誘いには必ず乗った。
 『土佐の一本釣り』という釣りを、否、男の生き様をテーマとした好きなコミックを集め、同僚に貸していたある日、新妻が真剣な顔で言った事がある。
 「漫画を見た○○夫人に言われたわ、ご主人は実に男っぽい素敵な人ね、って」。「それで?」。目尻を下げた自分に「友達としては最高だけど、夫としたらどうかしらね、とも続けられたのよ」と。それでも。島ンチュに学んだ事がある。友を招く時に酒食の準備は自らやり、妻はお相伴役とする事だった。
 生徒を相伴役とするゲームを妻と思いつきで始めたのは程なく。庭の隅に置いた鉄板で焼きそばを作って帰宅途中の生徒に振る舞い、海辺から拾ってきたゴミを代金代わりとした。男女を問わず寄り集っていたが、中の女子生徒が二十年ほど経て教えてくれた。
「あの頃人気のキョンキョンと似てらしたの、奥さん。で、みんなのアイドルみたいなところがあったのよ」。

 「ホテンって何? 私に隠し事してない?」
 妻が問い詰めてきたのは、嘘の言えない正直者だと彼女を理解した頃だ。妻の枕から、新の文字が取れていた頃。自分の中で妻を左の本格派投手として認識しつつあった。それ迄の自身が考えていたタイプ、弱さを守りたい、からすると、「健康、元気」は「左」のエースに位置した訳だ。  
 組合至上の自分の立つ位置も同様に左だったのだけれど、組合活動を理由とする賃金カット分と昇給延伸の欠損分を組合本部が補填してくれていた。それをヘソクっていたのだ。
「ホテンとかいうヤツの対象は、組合の大将つまり幹部だけなん だってば」と、常春の島で汗だくになり抗弁を繰り返して信じて貰ったが、教職員集合住宅で他の奥方から妻が入れ知恵をされるのは怖い事だった。住宅から早く脱したいとも思ったが人情味溢れる島の居心地は良く、小型船舶の免許も取り、七年住んでしまう。五回は担任もさせて貰ったのだから遊んでばかりいた訳ではない。島ンチュ達とはその後も家族ぐるみの交流が続く。

 こんな大金をどうしたの? と妻に咎められたのは帰鹿してすぐだ。桜島の爆発ほどには怒りが噴出しなかったのは、吾ながらテクニックが巧かったと言える。七年間で貯めたヘソクリを上手に使い分けたのだから。離島前に妻には大島紬の着物を、本土上陸してすぐに自分は遊漁船を手にした。半分コ、にしたという訳だ。貯め込んだホテンはすっかり消えたのだが、釣り日和で言うなら、心地良い春の陽気の凪の日よ、と考えていた。
 それが読み誤りだった事に気づかされ、春一番の大シケに見舞われたのは二年後、くらいだったか。
 自分専用の冷蔵庫を外にしつらえ、鍋料理をこしらえては市民運動の仲間や若手教員らを招いて宴会をするようになっていた。自慢の料理を地元テレビが取材、オトコの料理として放送してくれた事で天狗化していたのだろう、それを妻に窘められて鼻を圧し折られた気になった。旋毛を曲げ、独り車中で夕食を摂り続けた数日後、目を吊り上げて妻が喚びに来た。今迄にない喧嘩となったのだが、友人を招き接待するのがオレの身上だし、それを自分から取ったら何も残らない、との言い分を理解してくれたか和平は成立したかに見える。接待には妻の協力があったのを忘れ、感謝の気持が薄らいでいた自分に非があった事を気づかされる。最初で最後の大喧嘩だったのだが、以前はもとより、以後も離婚を考えた事などは断じて無い。
 家計管理は全て妻に任せていたので子供達の学資や新築資金など幾らの貯金があったかは無頓着でいた。それでいて結婚十年目、娘の小学校入学を機に家を建てる事に決める。土地購入から新築のローン設定等の一切を妻がやったが資金をどうやって工面したのだろうと驚く程の才覚を見せつけた。家造りを勧めていた義父は炭を焼き、清浄効果だとして大量に床下に撒いてくれ、三つの子ども部屋のある家が完成したのだった。お隣さん達にも恵まれた場所で、後には隣に農地も借りられて、夫婦で農作業ができるようになると共通の楽しみとなる。
 教育ママでは無かったのだが小学校のPTA役員もよく引き受けていた。役員の引き受け手がいないと先生が困るから依頼があったら受ければ、と自分が奨めた事にも由るが、他にも、お人良しと思われるくらいに依頼事を断らなかった。それ以上に、世話好きで面倒見が良く、他人の為に動いて労を惜しまぬところがあった。家に来る電話の九割方は妻へのもので、グチや悩みの相談、依頼等でヒトの為に飛び回っていた。
 飛び跳ねるような走りを見せたのは小学校の運動会。「健康・元気」な左の本格派は家族リレーで快走し、後続を半周離してアンカーの自分にバトンを渡し、出場した二度とも一等賞を齎してくれていた。
 ボランティアにも積極的で、書き損じ葉書を集めて送ったり、福祉作業所への古紙缶瓶の持ち込みや、県内外のホームレス支援団体への米衣服の発送を続けていた。正義感に連なるところがあったのだろう、陳情請願等の署名活動にも取り組んでいたが、中でも駐車場の障がい者枠の確保運動には懸命で、健常者が枠内に止めるのを見ようものなら注意に行くほどだった。
 同様に、ゴミ置き場への不法投棄も憤慨に堪えない様子で、分別のなされていない物や指定曜日外の投棄物を見るや町内会役員に連絡しては中を点検し、持ち主に注意を促していた。出しゃばりはトラブルの元だぞ、と控えるように諭したりもしてみたが効き目は無かった。ズルや卑怯を嫌い、常に誠実でありたい、という面で似た者夫婦だったようだ。 
 小遣いの中から宴会を開いていた自分の食材は値引き品を多くした。値引き差額分を貯めては国内外の平和や人権、環境保護活動へのカンパに充てていた。客用の大量の料理を前に妻が洩らした事がある「私は美味しい物を少し、の方がいいわね」。子ども達の為にと妻が買い求めていたのは安心安全が売り物の生協の食品であったのだから。
 子どもの教育の担い手も妻だった。
 父親を乗り超えてこそ子は一人前、との思いに囚われていた自分は褒める事を余りしなかった。子供達の相談相手は自然と母親になっていく。
家を建てた後、妻は祖母を招いて面倒を看た時期がある。成長していった子供達が両家の祖父母に礼節を失わないのは母親譲りなのだろう。思いやりがあり、正義感が強いところも。そんな母親役をこなしていた妻だが、夫の組合活動や市民運動へ不満を口にした事は無い。管理職は絶対に目指さない、変節しないのは七十年を戦った人間の矜持だから、と結婚前から言い続けてきた事を理解してくれていたように思う。
 理解してくれていた事がもう一つある。若い時分に義兄弟の契りをした兄貴分がいた。独身を貫く兄貴に、老後はウチで一緒に暮らそうと誓っていた。妻に初めて兄貴との契りを話した時の答えは、いいわよ、で、その事を伝えた時に喜んで呉れた兄弟だが今は亡い。
     

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 平穏な日々を病魔が襲ったのは十六年前。結婚十四年目も過ぎた六月六日。三十六になっていた妻が、初めて聞く震える声で勤務校に電話をしてきた、乳癌発症を報せるもの。
 病院に勤務していた妹の勧めもあって県都にある専門医に行きステージ三と診断され、片道二時間の通院治療が始まる。抗癌剤で叩いてから手術で取り除くという方法で、その間、自分は本を読み漁り知識を貪った。きつかったのは中一を頭とした三人の子育てに加えて、家事全般をしなければならない多忙に突然見舞われた事だ。疲れとストレスから産まれたヘルペスの治療を自身が受けながらの生活となる。 
 兄弟喧嘩に怒鳴っていたある日、小四の娘が浴室で話始めた。
 今日習った、三年峠という話よ。一度転ぶと三年の命と言われていた峠で転んでしまって、後三年かと泣いていた人に誰かが教えたの。二回転べば六年に、三回転べば九年になるって。百回転げられるような峠があったらいいのにね、お母さんと一緒に行けるし、と。
小さく胸の膨らみ始めた娘の話だ。
 二人で対話を重ねる時を増やす中で、妻が自らに出した結論はこうだった。
癌が、今、見つかった意味を受け止める。子どもの為にも希望を失わず、できる事に価値を見つけて、やりたい。自分の命を永らえようと腐心するのでなく人の為に尽くせる事をしていきたい。そんな内容だった。
 切り取られた乳房、既に赤い肉塊に過ぎなくなっていたそれを直視した時、噴き出した感情は愛おしさと言えるだろうか。加えて、子どもを育ててくれた事への感謝の想いも。手術は成功しましたとの執刀医の言葉とともに聞いたのだから。
 半年後。実家近くへ転勤となり、日曜には二人で手伝いに行って妻の作った夕飯を両親と共にして帰るようになる。手早い料理に良くできた嫁だ、と、父は満足気に焼酎を楽しんでいた。
 五年間は注意が必要です、と術後に言われて五年目を終えようとした春、転勤希望を出す。飛行場もあるし、子供達の学資を稼いでくるから、と単身で行った赴任先は奄美本島内の夜間定時制高校だった。様々な生育背景を持つ生徒達の担任となり、教育の原点を教えられる思いで勤めて二年目を過ぎようとしていた矢先、妻がくも膜下出血で倒れたとの連絡を受ける。だが、出血場所は特定できず、手術もないまま、妻は一月後に退院となる。
 二年で離島して、定年まで残り六年の赴任先は車で一時間の場所だった。朝夕の公務員補習等取り組んで通勤に疲労を覚えるようになった四年目、学校近くの漁港の傍に借家して妻と移り住む。子供達は進学や就職で親元を離れていた。妻の実家へ三十分、自分の実家迄一時間のそこから両家に二人でこまめに顔を出すようになったある日、義父が実娘に遠慮がちに、こちらばかりでなく平等に向うの家にも行くのだよ、と言ったのを聞く。
 港町での教師生活最後の三年間は楽しい日々だった。ゴムボートを手に入れて釣りに行き、鮮魚に欠く事はなかった。妻と相乗りの鯵釣りを楽しんだりもした。鯵の他にも鯖に鯛、平目など大量に釣れた時、携帯で連絡すると笑顔の妻が浜に下りて来て手伝ってくれるのだった。突然の山降ろしが吹き始めた時、心配気に待っていた事もある。  
魚 好きの父が美味いと破顔して焼酎を嗜み、自分も相手をした夜道は妻の運転だった。飲まずにたまには自分で運転したらと言った事は無い。良くできた嫁だ、と言うのは父の口癖になっていた。父が霊山に旅立った時、また子供にさせて呉れと書いた自分の横で、実の娘のようにかわいがってくれて有難う、と書いた手紙を棺に入れた妻だ。
 退職したら二人でキャンピングカー旅行を楽しもうと思っていた。それまで家族での旅行は四国と山陰に九州くらいしかなかった。犬、猫を飼っていたからだ。それでも旅好きの妻は自分と韓国二回に中国二回。長男と米国、長女と欧州と、外国は訪ねていた。
 退職の年、これからは国内の二人旅をと決める。春の沖縄を初めに夏には鹿児島から車で富士登山に行き、バイト先の娘の山小屋に一泊してご来光に祈った。元気で快調と思えていた妻だったが、その冬、子宮頸癌を発症する。術後に取り出された子宮に、三人の子を育み役目を終えたオフクロ様かと畏敬を覚えた自分だった。
 紀伊半島を訪ねたのは二年目。コーブの町、太地町で二人とも初めての鯨料理を堪能し、自分は環境授業で伝える。
三年目。二人で協議し本土最南端の地にセカンドハウスを購入する。そこが核廃棄物の最終処分候補地として浮上したからだ。反対運動に加わるべく妻と改修にとりかかった。壁打ちから天井貼り、庭には島バナナを植え、総てが順調に進んでいたその時、好事魔多し、の言葉がナイフとなって胸を抉りに来ようとは思いもしなかった。
 年末、突然に直腸癌を発症し、手術。抗がん剤治療で通院の身となる。  
 替わりが見つからないままに自分は週三日午前中の非常勤講師を引きうけて四年目になっていた。
 癌摘出手術から半年が経過し、蝉の鳴き声も姦しかった初夏の昼過ぎ、治療の病院から帰った妻が、二度目に聞く震えた声で言った。明日ご主人と一緒に来て下さいと言われたわ、転移していたみたい。
 翌日、二人に医師が告げたのは、初めて聞く腹膜播種。その時、肺腑を抉ったのは医師の傍にあったメスだ。
看病に専念しようと一学期末をもって退職を決める。妻の癌については、命の授業ふうに生徒に伝えてはいたが再発については知らせずに去ると決めた。その日から眠れない夜となる。
 職場を去る日、車に縋った女教師が涙を迸らせ、喚きながら責め立てた。奥様がご病気での離職と聞いたわ。貴方はなぜ泣かないの、叫ばないの?と。頭を激しく横に振り続け、壊れてしまって泣き叫ぶ力も残って無いのですよと答えている自分。そこで夢から覚める。
 通院による抗癌剤治療が始まったが病魔が浸潤していく様子には見えなかった。畑で、採れたての西瓜やメロンを手にして誇らしげに見せる妻の顔は太陽の下に輝き、近所に野菜をお裾分けねと言って、帰った顔は満足げで晴れ晴れとしていた。
 結婚当初、妻が言った事がある。
「貴方みたいな女性を妻にする旦那様の顔が見てみたいナと言われたわ」と。
 女性の頭から、素敵なという語を隠した言葉だったが、誇らしさは隠しようも無く体中 に漲っていた。
あの輝きをもう一度妻に取り戻そうと考えた。母さんの健康回復の為に全財産を使う、と大学と院を卒業した子供達に告げた。欲目で見れば三人ともそれなりに父を超えようとしているように思える。功が妻にある事は疑いようもない。感謝は行動で伝えるしかないと、ネットで癌先進医療技術の勉強を始めたその間にも妻の髪は大樹から枯葉が一気に落ちるように抜け、自分の髪は白さを増していった。
 旅用の車は遠方の先進医療病院に妻を寝たまま運ぶのに役立つ車両となる。遠近幾つもの病院に問い合わせの電話を入れ、効くと思えるサプリメントは次々と試してみた。
 数か月前まで勤めていた高校近くを走っていた時の事。車を追いかけてきた卒業生に呼び止められ、先生聞いてくれとソイツは一気に喋った。つい最近、一番のマブダチが自殺した。オレは前夜にテレを貰いながら受け止めてやれなかったんだ、と涙ぐんで吐き出すヤツに、励ましの言葉を僅かにかけた後で加えた。自分は教師を辞めたんだよ、もう教えられない、ゴメンナ。
 過酷な現実を自ら絶てるものなら絶ちたい、その気持は解るよ、と口元まで出かかった言葉を飲み込んだ自分だ。現職時代なら絶対に吐かなかった言葉を。後部座席にいた妻は、その時どんな思いで聞いていたか。
 一方で、諦めない、負けない、を強く言い聞かせなければならないのは自身にもなっていた。自分の命を縮めてその分を妻に与えて下さい、と祈り続けていた自分自身が生きる意味を見失って行った。妻より早く逝きたい? それが楽だ、とも。
 吐き気や幻聴に付きまとわれ、記憶は喪失し、妻の顔が消え失せそうになっては怯えた。遠方の病院に入院させた夜、ホテルの部屋で独り弁当を食っていた時、鏡の中から自分を睨んでいた怖い顔に怯えさせられもした。
 睡眠剤を手放せなくなった一方で服用の記憶すら曖昧になり、変調した夫婦が互いの不確かな記憶からケンカとなったりした後、慚愧と自棄の想いに突き落とされもした。しかし、ひと時でも妻と離れようものなら焦るのだ。こんな事をしている場合ではない、妻の傍にいなければ、と。

 睡眠剤で休んでいた夜。息子二人が寝室に入ってくるなり、狂ったように泣き始めた。最期だったのかと悟った瞬間、大声でワアと悲鳴をあげる。そこで目覚めた。
 夢では坊主頭の幼い息子達だったが、娘ともども成長し交替で二十四時間、妻の看病についてくれ、「優しいお母さんだったのですね」と看護師さんに言われたりした。

 妻の前で不安は見せず、努めて陽気な顔で冗談を連発した。笑いが免疫の活性化に繋がると信じたからだ。
 妻の好きな歌の一つ、土井晩翠作、(丞相 病 あつかりき)の五丈原の歌を病室で聞いていた時、彼女が微かな声で言った。私の人生って何だったと思う? と。即座に答えた。三人の子を産んで育てたよ。母親の気性、負けない強さを持つ子供たちの立派な母親だったよ。母親役だけじゃなく妻としても最高だった。社会人としてもね。偉いし、尊敬しているよ、と。
 咄嗟に出た言葉だったが途中から確信に替わりつつあった。妻はこけ落ちた頬に笑みを作ってそれに答える。
「ワタシ、アナタの理想の女性になっているのね」「ン、何?」「か弱くて守ってあげたい女性が好みだったのよね」。
 病室の窓から煌々とした灯りが見えていた夜半。
 サイモントン療法と足ツボマッサージを加えた後、目を閉じている耳元で囁こうとして、先刻の言葉を思い出す。
「ゴメン。伴侶がもっと気楽な男だったら良かったのにナ。理想ばっかりが高い、気難しい男に嫁いだかりに背伸びさせて苦労させてしまった」。
 その時、妻は笑顔を浮かべたのだが寂しく儚げに見えたのだった。
 静かに眠る妻に口付けして、耳元で囁く。
(なぜ出遭ったのだろう、とか言ってゴメン。なぜジュリエットに生まれたんだとか二度と言わない。来世でも必ず一緒だよ、約束だ)。
 
 五丈原の歌の時に、母さんにこう言ったんだ、と娘に告げたのは間もなく。母親に伴走されるようにして、同じ信仰の道を歩んでいた娘が言った。
「皆、自分の課題を選んでこの世に転生してくるの。お母さんは王道の坂道を駆け上ぼるようにして自分の使命を成し遂げてきたの。勝利の人生なのよ、永遠の、ね。そうして、こんなにゆっくりと向き合える時間を準備してくれたなんてお母さんからの最高のプレゼントだと思わない? お父さん」。
 かつてバスルームで聞いたような声で。しかし、それが最後まで娘の声だったか確かではない。浴槽で目覚めた時、独りだったのだから。
 
 自分に囁いたのは宇宙人だ。
(三組のゲストに選ばれました。おめでとう。我が惑星への招待を希望される場合は指定の日時場所に御夫婦で秘密裏に集合を)。
 そうして。遠い彼方の地から二人で新聞を見ている。記事の写真は乗り捨てたキャンピングカーと傍に宇宙船離着陸を思わせる痕跡。
指差した息子が答えている。
「二人は仲よくどこかの星に旅立ったのでしょう。そこなら高度の技術があり、母の病気も治せる、父ならきっとそう考えたに違いありません」。                                           終 


 

      本稿を闘病中の最愛の妻に奉げる。三十一年目のプロポーズ記念日前日。 2014/3/31   



















 

 

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