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  犬よ笑うな「そんなもの」を

 「――ハシムニカ?」
  いつの間にか傍に寄って来て肩を揺すった妻の声で吾に返ったのです。
「足を蹴ったのにも気付かないなんて! どうかしましたの? 貴方」「大丈夫、だ」
  言いながら、私は右足に蹴られた感覚を取り戻していました。
  妻は促す時、私の足を軽く蹴る癖があるのです、それは旧い傷跡の残る左足の方ではなく必ず右足に決まっているのですが。
「何でもない」。そう言った後、活動を停止していた肺に蘇生を促すかのように私は大きな吐息を洩らしました。
「冷めてしまわないうちに戴きましょう」
  妻に促されてスープを口に運び込みながら、つい今し方、私の心肺のみならず思考の活動までを停止させてしまったような事件、いや、事件と言うには大げさでしょうか、目撃した情景を再び頭で反芻していたのでした。
  妻と二人暮らしのつましい生活の中で久しぶりにソウルの街に出て来ました。ささやかな買い物を済ませて入った飯店、そこで目にした出来事です。
  妻の斜め後ろのテーブルに老夫婦と孫でしょうか或いはひ孫でしょうか、小学生くらいと思われる男の子が三人で和やかに食事をしていたのです。
  私達の過去にも同じ様にありながら封じ込めてしまった情景、それを羨ましく思ったところで何になりましょう。歴史に「たら」や「れば」は無いと言われるのと同様、私という個人の過去の足跡も決してやり直しのきかないものだと、今は諦念にも近い境地になっているのですから。
   話を老夫婦のテーブルでの出来事に戻しましょう。和やかな食事の進行、その空気が一瞬固まったように思えたのです。   
  少年が食べ残しをしたに違いありません、老人が少年に勧める言葉が私の耳に届きました。
「最後まで食べなさい。お米が食べられなくて昔はヒモジイ暮らしをしていたんだヨ」と。
  そしたら即座に少年は反したのでした「お米が無かったの? なら、ラーメン食べれば良かったじゃないか」
  後ろ向きの老人の表情は私から観る事はできません。でも想像に難くありません、きっと私と同じ表情になっていたことでしょう、凍り付いた顔。瞬間、私の思考も停止したのでした。

   その夜。私は焼酎を取り出して自室に運びました。酒は持病の腰の痛みに響く事もあってたまにしか口にする事はありません。焼酎を飲む時に決まって流す音楽は日本の旧い演歌です。今の日本では『懐メロ』と言うのだそうですがそれを流す事もせず、ぼんやりと夜景を眼にしてマッカリを口に運んでいた時、妻が入ってきました。演歌の音楽が無いことに一瞬怪訝な顔を見せましたがそのことには触れず、手にしてきたズボンを差し出しました。膝の処に穴の開いた私のズボン、それを繕い屋さんに出してまだ使うかそれとも廃棄しますかとの相談でした。
 「貴方の判断にまかせるよ」との私の言葉に肯き、静かに妻は出ていきました。 
控えめで優しい妻です。結婚して六十年以上になりますが、大きな諍いもなく、平凡な暮らしを続けてきました。一度だけを除けば。
妻と知り合ったのは戦後、ああ、戦後というのは日本人が太平洋戦争とよぶ戦争が終わって間もなくの事です。
   戦時中の劣悪過酷な労働環境から肺病を患い治療中だった私は、小さな病院で看護婦をしていた彼女と知り合い、つきあうようになったのです。
   彼女の支えと励ましのおかげで病気は快癒し、それから教師の資格を取り、やがて教育者として身を立てることができるようになったのでした。小学校しか出ていない私に勉学の苦労は並大抵のものではありませんでしたが、戦前戦中の艱難辛苦に比べれば如何ほどのことがありましょう、何糞と耐えてこられたのです。
   再び祖国が動乱の憂き目に遭った時、それは六・二五事変、日本では朝鮮戦争と呼ばれる動乱ですが、それが始まり、唯一の弟と生死不明の別離という悲運に苛まれた時も彼女の存在が大きな支えとなり、間もなく結婚したのでした。
   結婚の際、彼女に唯一誓って貰ったことがあります、家に生涯ミシンを置かないというものでした。妻はその約束を守ってくれ、三度目の喧しい日〈註1〉を迎えるのも遠くない現在に至ったという訳です。
  まんじりともせず夜をあかした私に翌日、嬉しい贈り物が日本から届きました。友人が送ってくれた小包には私が所望していた二冊の本が入っていました。司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」と飯尾憲士の「開聞岳」というものです。 
   前者は豊臣の朝鮮侵略時に薩摩の地に連行された陶工の末裔を描いたもの、後者は先の大戦中に鹿児島の特攻基地知覧から出撃していった航空兵達の話です。特攻兵士の中に我が同胞がいた事が書かれていると知り、是非読みたいと思っていた本でした。
   要望を引き受け、探して送ってくれた友人は旧くて新しいカセットも数本同封して呉れていました。旧くて新しい、と言う日本語はおかしいでしょうね、旧い演歌の入った新品のカセットという意味です。小学生の時に殴られながら憶えた、つまり文字通りに叩き込まれて教えられた日本語です。今でも読み書きも話すことも出来るのですが、何分にも七十年以上も経つのですから言葉遣いに誤りが出てくるのは致し方ありません。
   私は贈られてきたカセットの封を切るとデッキに入れ、そして「開聞岳」の頁を捲りました。
   流れ始めた曲は東海林太郎の「国境の町」です。
     ♪故郷離れてはるばる千里  なんで想いが届こうぞ        遠きあの空つくづく眺め  男泣きする宵もある
   妻が静かにドアを開け、様子を窺って再び立ち去る気配がしました。
  しかし、今の私の心中を誰が解ってくれましょうか、永年連れ添った妻ですらーーー。

  翌朝、私は決心した事を妻に伝えました。自身の戦前戦中の記録を書くことにした、と。 
  アパートの狭い自室をアトリエにして美術教師の私がデッサンをしたりするのは妻にとっては見慣れた光景だったのでしょうが、机に向かって執筆するのはついぞ見た事はなかったでしょう。なにしろ私にとっても執筆などとは初めての事なのですから。
   私が送られてきた本に没頭しているのを知っていた妻は、その影響だと思ったようです。どちらも日本に強制連行或いは徴用された同胞の話ですから、そこから私が刺激を受けたと思ったとしても無理からぬ事でしょう。
   当たらずとも遠からずと言って良いかも知れません。しかし本当の原因は数日前に遭遇した出来事にありました。
「ご飯が食べられなかったのなら、ラーメンを食べれば良かったじゃないか」と無邪気に言い放った少年の言葉です。

 「昔の時代、つまり飢餓の暮らしや艱難の生活があった事を今の子供達に書き残したい、と思うようになったのだよ」
「一老人の青春自伝みたいになるかも知れないが」と、胸中の熱いものを抑えて控えめに語った私に
「そんなものーー」と小さく言ったきり、妻は口を噤みました。
「そんなものを、書かれる気になられたなんてーー」と言おうとして妻が止めたのではないように私には思えたのでした。
「そんなもの書いて何になるというの?」「そんなものを誰が読むというの?」
  閉じられた口が言おうとしたもの、それはきっと後のどちらかだったに違いありません。
  私は黙って部屋に戻り、机に向かいました、既に決心したことです。
   唯一度を除き、妻に見せた事のなかった険しい顔。今から書こうとしているあの旧い時代にいつも私がそうしていただろう阿修羅のような顔。その顔で私はペンを原稿用紙に叩き付けたのでした。


   柳乗煕(リュウジョンヒ)が産まれたのは一九二五年七月一七日である。   

  最初の一行を書いて、西暦の下に挿入をしました、(大正十四年)と。何時の日か日本人の目に留まる機会がもしもあったらとの想いがよぎったからです、「そんなもの」が。

 

  生まれる六年前の日帝支配下の一九一九年、三・一独立運動「並川事件」で十六歳にして逮捕後獄中殺され、後に「韓国のジャンヌダルク」と呼ばれた独立運動家少女、柳寛順〈ユンガンスン〉は同姓同族の親戚筋になる。
日本の芥川賞作家柳美里も同じ門中である。

   柳寛順の想像に絶する酷い殺され方の内容も最初は書きました。それと柳美里の行は書き付ける意味があるかと消したり再び書き加えたり何度も迷いました。寛順の拷問内容の事実は消し、美里の方は残しておく事にしました、「本貫」を強調する意味からです。
文を書くとは難しいものです。


   乗煕の生地は朝鮮半島南部、全羅南道長城郡邑鈴泉里という所で、家の横に長城駅があり、京城・木浦間の湖南線列車が走っていた。近くにはパン屋があり、焼きたてのパンが毎日の主食となるほどの裕福な家に生まれた、七才迄は。
少し離れた所には三宅商店という日本人の営む雑貨店があり、生活道具や文房具それに煎餅などのお菓子などが所狭しとばかり陳列されていたが、乗煕は中でも飴玉がお気に入りで小遣いを貰うたびに弟と店に駆け込んだものだ。


 ノックの音がして妻が入ってきました。机に置いたカップから私の好きな芳しいコーヒーの薫りがたち上ってきます。
「『過去を語ると犬が笑う』という言葉くらい知っていない訳じゃないのだがね」
 少しばかりの笑みを作って言うと妻も同じような笑みを湛えて言いました
「お体に障らないほどにお進めになって下さいね」
 思いこんだら一途になる私の性格を知っている妻のわだかまりの無い笑顔に安堵し、再び私は筆を握りました。
「過去を語ると犬が笑う」というのは韓国の旧い諺です。
 どうしてこういう言葉が言い伝えられるに至ったか、市井の一老人にしかすぎない私には解りません。過去の栄光を自慢するなと言う事でしょうか? それは無いでしょう、私達民族の歴史に輝ける時代があったでしょうか? 侵略されこそすれ一度たりと他国を侵略したことの無い我が民族の過去には不遇不幸の時代は数多くありました。そんな惨めな過去を振り返るな、諺は私にそう言い聞かせているように思えるのです。
 日本にもそんな言葉がありますか? ありますね、「来年の事を語ると鬼が笑う」と言うのが。
 回り道をよしましょう。筆を進める事に致します。


 父は事業家で印刷所を経営し、日本統治下の郡庁や官公署を主な相手先としていた。郷土や祖国を深く愛していた父は、後生の為にと国家百年の大計から資産を費やして、川辺や野辺の空き地に将来性ある樹木を植え続けていた。しかしそれらの行為が日本人役人に目障りだったのだろう、乗煕が七才になった時である、近くに日本人による印刷所が作られ、仕事は横取りされて一夕にして廃業に追い込まれてしまう。持病を抱えていた父は無念の思いから間もなく四十を超えずしてこの世を去った。
 山にある共同墓地に父を葬ったのは灼熱の日だった。青い空に雲が流れ、赤蜻蛉が飛び、母のアイゴーアイゴーの絶叫につられるように自分も泣いた記憶がある。
 父親無き後、山や田畑は日本人名義に書き換えられていき、日本人高利貸しによって家資産道具の全てが没収された。丸裸同然となって生家から四キロほど北の長城邑聖山里の廃屋に母と二人の兄弟は移住する。そしてその日から、絞り切った手拭いのように何もないスッカラカンの飢餓生活が始まったのだった。
 一日二食しか摂れず、それも粟や唐黍に豆滓の混じった食だった。味噌汁には南瓜の葉や蓬とかの野草が入った。薪は弟と二人で裏の山に取りに行くのだが幼い二人では充分に集める事は叶わず、冷たいオンドル生活が常だった。母は針仕事でアメリカ製の旧いミシンを、シンガーミシンとか言う名だったとの記憶があるが確かではない、それを夜明け近く迄ガッチンガッチンと水車のように回して頼まれた着物を縫い、食を賄っていた。 
 藁葺き屋根の半分は腐れており、軒からの雨滴は醤油のように黒く、地に落ちると水泡になる。その水玉が三宅商店に陳列されていた飴玉のように見えては唾を飲み込んだものだ。雨の日には厭な思い出しかない。
 『この世で本当に怖いのは虎でも閻魔大王でもなく、米櫃の底を掻く音だ』との言葉が真実そうだと心底から思える極貧生活だった。
 「土地調査」という日帝の詐術により村の田畑は殆ど日本人の手に奪われ、朝鮮人は小作人になるしかなかった。
 小作料は七分三分で取り分が三分である。生産された殆どの米が全羅北道の郡山という港から日本に送られるのだときいた。朝鮮全土、全民衆からの食料強奪であったといえる。 
 いったい、農民達にとって季節の変化は体感するものである。
 昔つまり日帝支配以前、春は「季節の女王」であり「蘇生の春」と呼ばれて待ちこがれるものであった。それが支配下に置かれてからは、「春窮期」或いは「春の峠」と呼ばれるようになった。その時期、貧農は山に入り草木の根や木の皮を食べて過ごすのである。実りの秋でさえ、自らの口にできない稲作を「目の豊年」と呼ぶようになっていたのである。
 こんな逸話がある。
 嫁いでいった娘の家に父親が訪ねて行く話である。

 再会した娘が言う「お父さんと逢えるのは嬉しいけれど、お父さんの口を見るのが怖い」
 解るだろうか? 貧しいが故に父に充分な接待が出来ないので辛いという意味である。


 「解るだろうか?」から「意味である」との行を書いて私はため息を洩らしました。くどい解説ではないかと。
 「解るように」「解りやすいように」など、しつこい性分は永年の教職経験から身に付いた一種の職業病みたいなものかも知れません。迷ったところで筆を置いたのでした。

 「論語先生、ご精勤ですね。お元気そうで何よりです」
 教え子から声をかけられたのは公営図書館です。
 『論語先生』とは私の在職中のニックネームです。私は美術教師の立場から、自分の過去や歴史を生徒達に語る事はありませんでした。ですが口を酸っぱくして繰り返し言った言葉があります。それは『賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ』というものでした。
そして生徒達が知識を深める手がかりとして読書を勧めてきました。その時にいつも話してきた笑話があります。韓国の昔話でこんな話です。
 二人の兄弟がいた。
 兄は読書好きで仕事はそっちのけでいつも『論語』を読んでいた。畑仕事に精を出していた弟はそんな兄貴に不満を持っていた。ある日、弟が兄貴に言った「立場を替わろうじゃないか、兄さん」と。
 替わったものの、論語の本を読み進める事が苦痛で苦痛で、弟は身に染みるほどに懲りてしまった。ある時、動きの悪い牛に癇癪を起こして思わず弟は叫んでいた「この野郎、仕事が厭なら、いっそ論語を読ませるぞ」と。
 仕事もせずに兄が読み耽るくらい、「論語」は深くて味わいがあるというオチにしたつもりなのですが、何故か私のニックネームになってしまったという訳です。    
改めて申し上げるまでもなく、韓国には儒教の精神が深く根ざしているのです、が、その話は又の機会に述べる事にしましょう。
 図書館は良く訪ねます。今までは美術本を観る目的が多かったのですが、しばらく国史を精読するつもりです。自分史と重ねて正確な記録にしたいと考えたからです。
 
 聖山尋常小学校にはいり、改名をする。家庭では乗煕、学校では武雄と呼ばれる二つの名を持つ身となる。
 創氏改名は強制である。
 氏族の発祥地を示す『本貫』という言葉や、家系の記録を著す『族譜〈チョクボ〉』という言葉があるように、姓を出自の誇りとする朝鮮民族に創氏改名は屈辱的なものであった。改姓で「江原野原」と名乗った人がいたという。日本語で「(後は)野となれ山となれ」の意味である。そういう形で改姓に抵抗した同胞は逮捕され刑務所行きになったという話もきいた。


 「李香蘭(リコウラン)を知らないのかい?」
と驚いて私が妻に問うたのは、最近の上海旅行中の事です。妻と二人では初めての海外旅行で、中国の上海に出かけたのでした。上海そこは私にとって永年の憧れの地でしたから。
 飲茶を楽しむ私達の傍に一人の若い女性歌手がやって来てリクエストがないか?と乞うたのです。お金を与えて私が希望した曲は李薫蘭の「夜来香〈イエライシャン〉」というものでした。眼を閉じて聴き入る私に、胡弓を弾きながら歌う歌手の哀愁感溢れる声は感傷を引き出すには充分でした。閉じた瞼からこぼれ落ちた涙に気付いた妻が「どうしたんです? これは何という歌なのですか?」と聞きました。
 それに答え、妻に問い返したのでした。
 山口淑江だったか淑子だったか歴とした日本名を持って生まれながら、私のように二つの名前を持つに至り、北支満州の地で「李薫蘭」の中国名を名乗るようになった歌手です。
 日帝の「五族協和」の国策スローガンの象徴的存在として時代の流行歌手だった彼女が戦後軍事裁判にかけられた事や後に自民党国会議員として政治的運動をした事は存じています。しかしここで彼女の評価をする事は差し控えます。ただ私は純粋な気持ちから当時日本の地で幾度も聴いた彼女の「夜来香」を好きだった、というそれだけの事です。
 上海旅行での想い出話はいずれ語る事にして筆を進めたいと思います。


 大日本帝国主義の主な朝鮮支配政策を記しておきたい。西暦で記す。
一九二五年。民謡「アリラン」禁唱令
三七年。皇国臣民の誓詞制定。日本語常用禁止。志願兵制度。徴用開始。
三九年。強制連行本格化
四十年。創氏改名。
四一年。思想犯予防と拘禁令公布
四四年。徴兵制度実施。
 皇民化の洗脳教育が叩き込まれる日々となり、学校では毎日の朝会で皇国臣民の誓いというものを一斉宣誓させられるようになった。「吾等は皇国臣民なり。忠誠持って君国に報ぜん」と。
 校庭に建っていた旧い官公署の建物、瓦葺きの立派な建物だったが、それに太い綱をかけ、児童全員で綱を引いて壊した事もある。壊す必要性も解らぬままに教師の号令に合わせて綱を引き、子供心にも惜しいなぁと思った記憶がある。
 慰問袋を作ったり、山に松ヤニを取りに行ったり、出征兵士の見送りなどをさせられた学校生活だった。 
 校内では韓国語の使用は禁止で日本語常用である。母国語が出ようものなら教師に殴られるのは日常茶飯だった。
「チン思うに吾が高祖高祖 国を始むる事コウエンにしてーー」で始まる教育勅語を暗唱させられる。
 教師は日本の地理と歴史の注入に血眼になっていた。スサノオノミコトがイキの島を「島よ、来い来い」と綱で引き寄せた話とか、

 楠木正成などの忠臣話は何度も聞かされたものである。
 同化政策は家庭にも徹底させられた。日本の祝祭日には家の門に日章旗を揚げる事、日章旗の保存については家庭に頑丈な箱を用意して神のごとく保存する事等が指示され、日章旗を汚したりして不敬礼と見なされた時は村落駐在所に呼ばれて殴られるか、二・三日の拘留となった。
 日帝の支配者どもは植民化政策を合理化する詭弁としてこう言ったそうである。
「自分達は遅れた韓国政治を整え、人民に十分な飯を食わせる為にやってきたのだ」と。
 そう嘯く日本人支配者達を「馬鈴薯」と陰で呼ぶ大人達もいた。「上は綺麗な花だが下は悪黒い実をつけている」という意味である。幼い乗煕にはその意味は解らなかった。

 乗煕が五年生になった時である。鹿児島から眉毛の濃い教師が赴任してきて担任になる。
 学級で最も小柄だった乗煕に何かと眼をかけてくれた先生は名を福田と言った。先生の口癖は「バカモン」だったので「バカモン先生」とあだ名がついた。 
 乗煕の特技は絵を描く事で日本の花札を四十八枚描いたりしていた。が、ある日、それを見た先生が朝鮮総督府主催の「火の用心ポスター」に応募しろと勧めた。描いて出した三枚の絵の二枚が一等と二等に選ばれ、南次郎総督名の賞状を全校生徒の前で授与され、朝鮮日報紙に写真入りで紹介されもした。
 この出来事が乗煕に、絵描きになりたいという夢を持たせる事となる。
 上級学校に進学する余裕などなく、昭和十三年、卒業すると乗煕は家の農事などをする身となった。それから間もなくして長城にある郡庁の給仕となる。お茶汲みが主ながら、読み書きが達者という事で代筆や、ガリ版での謄写原紙書きなどの事務的仕事をさせられていた。
 十四歳になっていたある日のこと、日本画家と名乗る一人の男が墨と筆を持って郡庁にやってくる。人々の見守る中、画家は所望されるままに何枚かの墨絵を描くとかなりの金を貰って立ち去って行った。 
 それを観て一気に絵描きになる夢が膨らんだ。だが十円の月給が家計の支えになっている立場上、夢みたいな事を母には言えず、母の今迄の労苦を裏切る形で家出を決行する。胸が掻きむしられるくらいに痛んだ。
 『人間の世界で最も美しいもの』という幼い頃に何度も聞いた話がその時浮かんだ。                 
 こんな韓国民話である。
「天の神様が天使に命じた。人間の世界に行って、美しいと思うものを三つ捜してきなさいと。
 天使が見つけた一つは花。しかしこれは日をおかずして醜く枯れてしまった。次に見つけたのは幼子の微笑だった。でもこれも大人になるにつれて消えてしまった。最後に見つけたのが父母の愛だ。この美しいものは永遠に消える事はなかった」というものである。
家出は自分を慈しみ育ててくれた母を裏切る事に他ならない。だが何時の日か必ず立身出世して恩に報いたい、と身を奮い立たせて決行する。
 京城に向かい、旅館の玄関番の職を得た。
「イラッシャイマセ」との日本語での呼び掛けにも慣れた頃、小さな事件が起きる。


 小さな事件を記述する前に一休みするとします。
 先だっての上海旅行で起こった「小さな事件」をお話しましょう。
 中国国内では、どの地に行っても私は多くの人に「先生」と呼びかけられたのです、それが全く見知らぬ人達なのです。驚きました、どうして私の以前の職業が解ってしまうのか? 永年の職業的雰囲気が自分でも気付かないうちに顔や表情に纏い付いてしまったのかと。
 後に解りました、今でも思い出す度に苦笑を禁じ得ません。
 お客さんに対して売り手さんは「先生」と呼びかけるのが中国では一般的なのだそうです。
 余談です。韓国では日本人のお客さんに対して何と呼びかけるかご存じでしょうか? そうです「社長」さんです。
 では「小さな事件」の続きを記述していく事に致します。

 「小さな事件」とはこうだ。
 何を考えたか、旅館の主人が乗煕の寝室を女中さん達と一緒にしたのである。
 紅顔の少年と夜に誰が添い寝をするかで女中さん達が諍いをするのを見聞きするようになる。
 心底イヤになった。絵描きになるという夢をこんな所で潰してなるかと旅館を飛び出した。とにかく西欧画家に憧れていたので渡欧したかった。その為にはと上海に向かおうと決める。当時上海は英仏等の租界地となっており国際都市と言われていたので上海迄行けば何か切っ掛けが掴めると思ったのだ。
 平壌で配達人をして得た金で奉天まで辿り着いた。所持金が尽きたところで、上海に向かおうとしていた独立運動家と知り合う。彼に頼み込むと上海迄連れて行ってくれる事になった。少年と二人連れの方が怪しまれずにすむと彼が考えていたかどうかは知り得ぬまま、小躍りして上海行きの列車に乗り込む。 
 列車の中で青年は周りを注意深く窺いながら話をしてくれた。
「上海には抗日闘争の為の大韓民国臨時政府がある。そこで自分は日帝の侵略と戦い、祖国を守る国民総決起運動を引き起こす闘争に加わる予定だ。君にも参加して欲しいとの思いは山々だが、画家として出世後でも愛国は出来るし、若いのだからその時期を心して勉強しろ」と。
 だが、満州とシナの国境である山海関には厳重な日本官憲の目が光っていた。   
 朝鮮武断支配の象徴、初代警務総監と憲兵司令官を兼務した明石元二郎の有名な言葉がある。『碁布星散』という。即ち「碁盤の上の白黒の石の如く、或いは夜空の星の如く」に、警察と憲兵等の武力を朝鮮に配置したというものである。  
 越境を試みる二人の若僧を見逃すべくもなく、二人は鷲に掴まれた小鳥のように逮捕される。取り調べの後、手錠を掛けられた若い運動家は恐怖で引きつった眼差しを乗煕に向けたまま連れ去られ、二度と会えない離別となる。
 その後の彼の行方は知らない。
 乗煕は天津の警察署留置となる。年少だった為か裁判もないまま、故に前科はつかなかったのだが無断越境罪の未決囚として留置される身となる。
 獄の鉄窓を濡らす小雨を見ては故郷の軒から落ちる雨滴が思い出されて泣いた。独房で淋しい時、口を突いて出るのは幼い時に母が歌って教えてくれた童歌だった
『チュンチュン雀よ 今宵君どこで寝る 竹藪木藪は濡れている 身に染みる時雨だ 私の軒端に来て泊まれ』。
 誰一人面会のない十五才、孤独の越冬であった。
 独房の壁に書いてあった落書きは忘れられない。日本語で『虱今日も添い寝の慈善宿』というものだった。
 三ヶ月の留置後、本国送還となる。昭和十六年二月となっていた。

 三月、京城に出て職業安定所に向かっていたところを平服の日本人から甘言で口説かれる。高い日当だし辞めたくなったらいつでもやめられるからという話だった。
 警察署長が保証し発行した渡航証明書を持たされて、送られたのは北海道北見山脈の一隅にある両竜電力という所だった。名寄から十キロ程離れた所の風蓮という村、その近くに水道のトンネルを掘る坑内作業に従事する身となる。 
 列車が通る程の大きさのトンネルを掘っていくのであるが、最初は小さな穴からである。天井崩れを防ぐ為の太く丸い坑木を担ぎ、腹這いになって小穴をもぐらのように進んでいく。穴が広がると鉄のレールを担ぎ込み、トロッコの走れる軌道を敷いていく。コンクリートを積んだトロッコがそこを走ってトンネルが出来あがっていくのだった。
 バラックの板屋が住まいとなる。そこでは名前など使用される事もなく乗煕は「五番」という番号で扱われる。
 翌一七年、故郷から一通の衝撃的な通知が届く。
 『オモニ トラカショスムニダ(母 死す)』というものだった。
 一七歳の少年は帰る術も見つけられぬまま、苦労をかけた母に孝行もできず最期さえ看取れなかった吾が身の境遇を嘆いた。泣くしかなかった。月に渡り飛ぶ雁の群れを見ては涙を落とした。
 幼い頃、夜中に目覚めるといつも髪をふり乱してミシンを踏んでいたオモニの姿。ミシンの足を休める度に肩を揺らして大きな吐息をついていたオモニ。
 一人で薪取りに出かけた山の夕暮れ、身を案じて麓から声を振り絞り「乗煕」と呼んだオモニの切ない声。 
 悲しい思い出ばかりだった。
 儒教の伝統を重んじる韓国で大事なものと教える諺がある。
 『君師父』というもので、「君を愛し、師を敬い、父母に孝行せよ」という意味である。父母に何の報恩もできなかった自らの境遇に慚愧し、歌う事で自分を慰めた。ラジオから流れていて憶えた歌、歌詞は自分の思いこみで創った部分がある。
 「旅の燕 日暮れにゃ帰る せめて私の古里へ 泣いちゃいけない笑顔を見せて強く生きるの 何時までも」。『サーカスの唄』という歌だった。

 年の暮れ、乗煕は日本人現場監督と諍いを起こす。その夜、宿舎を襲われ、角木や棒を持った日本人七人のリンチに遇い、瀕死の重傷を負わされてしまう。腰をやられて一月の病床に就いた。現場総監督は佐々木という岩手県出身の人だったがその奥さんが同情してくれたのか枕元に果物やおかずを持ってきて呉れた。翌年回復して仕事に復帰したものの腰痛が再発して仕事の出来ない身となる。その時に会社退職の世話をしてくれたのも奥さんだった。
 一年余りを過ごした北海道から離れた乗煕は帰郷旅費を稼ぐ為に千葉県の館山に移り、海岸埋め立ての工事現場で働くこととなる。
寒風に凍えながら太平洋の海を見て過ごす日々だった。人夫仲間に誘われて海岸沿いの掘っ立ての居酒屋に寄った事もある。その時初めて食べたホタテ貝の味は忘れられない。
 現場や飯場にはいつも日本の歌謡曲がラジオから流れており乗煕は歌謡曲好きになっていく。
「あれを御覧と指差す方に利根の流れを流れ月 清い心で旅するからは 何の辛かろ 野末の仮寝」。
この歌も記憶に残っている。正確でない歌詞は当時の自分の心情だろう。


 「どこまで進みましたか?」妻が尋ねました。
 夕食はビビンバ飯でした。日本では焼き肉ビビンバの人気が高いそうですが、年を重ねると肉は胃にもたれてこたえますので、小エビとかタコやイカを小さく切って混ぜる海鮮ビビンバを私は好みます。妻なりに私の体力を気遣ってくれているのでしょう。
 昔、我が子が居た頃は子どもの好きな石焼きビビンバがたびたび食卓に上ったものです。我が子の笑い声が家の外まで響き渡るほどで、外様からみても明るく笑い声の絶えない幸せな家庭でした。
「千葉県で帰郷の為の旅費を稼ぐところ、だよ」と短く答えると「お酒の味を覚えられたところですね」妻が小さく笑いました。
妻には今まで断片的に過去の事を語ってきました
「岩手県に行った話はしたかい?」「岩手県?」
 妻は知りませんでした。語っていなかったようです。千葉を離れて故郷に向かう前に、逆の方向でしたが岩手県に向かったのです。

 佐々木さんの奥さんにお礼を一言述べて帰国したいと考えたからでした。でも会う事は叶いませんでした。
 妻に意識的に語らなかった事が一つあるのです。私の日本人女性との初恋です。それもこの記録に書き留めるつもりです。六十年も経ったのですから今更妻に隠す事もないでしよう。
 ですが、妻がこの記録に眼を通す時が果たしてあるのでしょうか?「そんなもの」に。


 乗煕が故郷の長城に戻り付いたのはおよそ半年後になる
   昭和一八年六月になっていた。
  しかし帰郷も間もなく日本官憲により徴用となる。
「オイ、コラ」と呼び止めて捉まえたのは森屋という巡査部長だった。
   少年の意志など確認する筈もなく、問答無用で巡査部長が送り込んだ先は朝鮮北部白頭山麓の禿魯江発電所の建設工夫だった。飼料みたいな豆滓の食事をあてがわれ、起重機の運転手をする。だが、二ヶ月後の八月、川を渡り脱出し渓谷沿いに逃走した。
   帰郷の途中、京城で十五才の少年に再会した。自分より先に白頭山の発電所を脱走していた年下の工夫仲間だった。彼は漢江で父が徴用拘引されるのに代わって自らが徴用に応じたという親孝行の少年だった。親孝行できなかった自分を感じるものがあり乗煕は少年に帰郷旅費を渡して別れる。
   自分も帰郷して心身の回復に努めた一年後の昭和一九年六月、列車に乗り、京城市内で働くべく黄金町にある職業安定所を訪ねた。が、又しても日本官憲の人間狩りの網にひっかかり徴用連行され、再び海峡を渡り日本内地へ送り返される身となる。
   下関の二流旅館に放り込まれた時、再び逃亡を企てたが予想を超える厳重な警戒の為にできなかった。下関と門司は南方か北支に向かう出征兵士が雲集しており、市街中に厳重な警戒がしかれていたからである。後に知った事だが門司とフイリッピンとの航路船の鴎丸や富士丸、王鉾丸が航行途上を撃沈される等戦況が逼迫していた為、軍部が防諜態勢に躍起になっていたからと考えられた。
戦局が逃亡の機会を奪い、北九州の飯塚炭坑にと連れて行かれた。
   最初は丸太を担いで坑内に入って天井作りの仕事、間もなくして石炭を掘り出す作業をさせられる事になる。北海道の電力でも穴掘り生活であったが、あっちが天国でこちらは地獄と思える程の労働と暮らしが待っていた。
多くの朝鮮人労働者が使役されていた。否、使役というより酷使若しくは虐待ともいうべきものだった。

   朝鮮総督府資料では当時、朝鮮半島から日本、樺太、東南アジア等に徴用した数は四十五万という。しかし実態は異なる。一九四十年の在日朝鮮人数は百二十万人前後である。それが敗戦時の四十五年には二百十万人になっている。五年間で百万人近い急増は戦争で不足となった国内労働者の穴埋めの為に朝鮮半島から強制徴用で連れてこられたものに間違いない。
   その労働内訳は、炭坑労働三十二万人、工場十二万人、土木十一万人、鉱山七万六千人で、それら六十三万人の朝鮮人労働者の中の六万人がその間死亡している。死亡率およそ十パーセントというこの信じがたい数字は労働災害だけによるものでない事は明白である。


   図書館で長時間椅子に座って幾冊もの本を広げ、老眼鏡を着けたり外したり時には持ち込んだ拡大鏡まで使って細かい文字を追うのは年寄りには辛いものです。
   当時の私には知る由もなかったのですが、私が投げ込まれた飯塚炭鉱に連行された中国人労働者の数を知る事ができました。数字をあげますと連行者数一八九名、その中で死亡者数二十名という資料でした。
   秋田県花岡炭鉱の中国人労働者による訴訟は我が国のニュースにも取り上げられて話題になったのですが、今回資料を再読して我が眼を疑いました。そこに、或る炭鉱で九八六名の連行者の中で死亡者四一八名の数字を見つけたからです。そこだけではありませんでした、半数近い死者数を出した事業場は他に幾つもあったのです。
 思わず眼を閉じると、意識の底に閉じこめていた記憶が生々しく鮮烈に蘇ってきたのでした。
   沢庵数切れに具のない味噌汁と飯、蒸し風呂みたいなバラック小屋、二人に一組の布団の雑魚寝。坑塵まみれの劣悪な環境の中で体調が悪いと言おうものならバケツの水が投げかけられた。
   生産能率が悪いと、しごき棒が持ち出された。黒い生ゴムで作られた棒で、木の棒と違い硬い物を叩いても折れない、それが振り下ろされるや叩かれた箇所は赤く棒状の帯となって腫れあがり、制裁は叩く者が疲れる迄続けられるのである。そうやってタコ部屋の中や外で犬畜生の如く殴り殺された同胞を乗煕は幾人も見た。助けようとも手出し一つできない奴隷的立場の吾が身である、絶望感に打ち拉がされるしかなかった。
   いつかは自分も殺され、掘られた穴に放り込まれるのか。否、その時を待つまでもない、殺される前に逃げ出そうと意を固める。逃走に失敗して捕まえられ、殴られて絶叫する仲間の断末魔の悲鳴は耳から消える事はなかった。逃走の失敗は即ち死を意味していた。それでも死を覚悟して乗煕は脱走を決意する。
   灼熱の太陽がジリジリと大地を焦がしていたその日。父が死んだ日もこんな焼けるような暑さだったと乗煕は思い出しながら、夜逃走する予定の目の前の高さ二百米程の山を注意深く観察していた。
   産業戦士慰労会が催されたその日、炭鉱外れにある運動場では朝鮮人人夫達が紅白に分けられ、蹴球に夢中になっていた。明日の命すら保証されないというのに、なんで夢中になれるのかと乗煕の目に浮かんでいた同胞への憐憫を見逃さなかった者がいる。京城出身だという二人の若者だった。一人が有無を言わさぬ口調で囁いた「逃げるつもりだろ、乗煕。一緒にやろうぜ」と。
   蹴球大会が終わり、警戒が緩んだ夕方、三人は鉄柵を潜り、山の頂上に向かって脱兎の如く藪の中を駆け始める。
無我夢中になって駆け上がり、頂上付近について一息する間もなく下で大騒ぎし始めた様子が手にとるように見えた。そしてすぐに一群の日本人が一列横隊になり麓から登って来るのも見えた。その時に初めて三人は気付く、山を反対に下りた所は別の炭坑との境界線である事を。
   絶体絶命の窮地と悟った今、二手に別れる事となり、乗煕は独り山の東向き側に向かって駆け始めた。幸いにも西に傾いた夕陽が斜面の林と藪を薄暗くしようとしていた。藪に跳び込むと大地に寝そべり、息を殺した。心臓は破裂しそうな程バクバクと音をたてていた。生死を天命に委ねる一方で亡き父母と神に必死に祈った。
   僅か数分後だ、横隊の日本人達が藪に踏み入って来たのは。乗煕の寝そべっている一米程横を踏みし藪の中で冷たい汗を拭いていた時、全山全木を奮わすような悲鳴が聞こえて乗煕は二人が捕まったのを知る。間もなく藪の中から見た、狩られた獲物のように引きずられていく二人を。人間狩りを半分楽しんだ男達が「明日は広域を捜すぞ」と凱歌をあげるように大声でいうのが聞こえた。 
   闇になる迄動けない。再び息を殺して藪に潜み、薄暗くなっていく周りの地形を目に焼き付けながら捕まった二人の身を案じた。若いし労働力不足の折から殺される事はあるまいというのと、逆に「不逞鮮人」どもに今迄以上に恐怖を叩き込むべく、見せしめに殺られるかもしれないとの思いが錯綜して身が縮んだ。
   暗くなりバラック小屋に明かりが点った時、高い杉の木に登り逃走経路を確認して闇の中をそろそろと歩き始めた。

  「高い杉の木に登って、あの時ほど目を皿にして集中し、観察した事は無かったよ。 前後の炭鉱は敵の陣営になる訳だ。たとえ稜線を駆け抜けたとしても大日本帝国というどこまでも敵地内、行き着く先がどこでそこに何が待っているかも解らない。まるで巨大な象に挑む蟻のような心境だった」
と妻に洩らした事があります。
「孤独な戦い、の始まりだったのね」とそれが妻の最初の感想でした。

   明日になれば多くの捜索隊、或いは犬まで狩り出されるかも知れない。少しでも遠くに逃げなければと焦りながら、闇の中を手探りで進むようにして半里も行った頃、突然目の前に狭軌鉄道が現れた。 
   鉄道の左側百米程の所には炭坑の黒い入り口があり、その手前の高い電柱から煌々とした灯りがこちらを照射していた。蟻一匹動く気配も見逃そうとしない強い意志の如き監視の光に怯え、足が竦んだ。向こうに逃げるには鉄道を渡らなければなければならない。しかしそれは自分の姿を光にさらけだす事である。見つかったら最期だ。二時間近くも躊躇って監視人がいないかを探り、越えなければ明朝は死が待っていると勇気を振り絞って鉄道を走り渡った。
   山道を必死に歩いて曙光が昇ろうとする前、夜明けの寒さが身に染みてきた。枯れ草を集めて藪の中に敷く。敷き終わった途端に空腹感が急に襲ってきた。食い物がそこらに転がっている筈も無いのだが用心しながら辺りを探っていると小さな泉を見つけた。水で空腹をしのぎ、眠りについた。
   極度の緊張の後の疲労から熟睡する。この時程甘美な睡眠は経験が無い。   
   目覚めた時、既に陽は傾いていた。梢の隙間から見える青い空が祖国で見た空と同じだと思えて故郷の山河が恋しくなった。  
生きなければと意を固め、日暮れを待ってネグラを出る。深山ではあるが稜線近くをクネクネと続く山道は人の通行の為に夜目にも白く浮かび上がり、孤独な逃避行を助けてくれた。
   真夜中近くになって空き地の草地を通り抜けている時、乗煕は凍り付く。道外れの畑らしい所に白骨となった頭蓋骨らしき丸い物を見たのである。頭髪が逆立った。立ち止まり、目を凝らして見るとそれは小さな西瓜だった。持ち主が取り残したものらしい。息を荒げてもぎ取ると石で割り、ガツガツと貪り食った。天上天下に唯一無比の美味だと思えた。
   食べきれなかった分を手に持ち、夜行を続けて二日目の曙光を迎える。
   曇り空である。昨日と同じように枯れ草で藪の中にネグラを作り、西瓜を朝飯として眠りについた。だが曇りの為に冷えたままの空気は身体を温めてくれず、加えて夕方近くに降り出した雨が頭から足先迄容赦なく濡らして濡れ鼠同然の姿となった。
今宵は歩くのを止めようか、一瞬そう思った。しかし雨の日だからといって追跡が休んでくれるとは限らない。今は魔の巣窟から一米、否、一糎でも遠ざかるのみと雨の中を歩き始める。
   濡れた服が身体に絡み付き、歩行を困難にした。木の下に止まり服を両手で絞っては前進を繰り返し、朝を待って眠りに就いた。
 「旭日は義人の所有」という諺が韓国にはある。
   早起きし仕事の準備をして旭日を待つ、そこには一点の曇りもない。それに比べて今の自分はどうだ。明かりを避け、人目を避けて卑屈に動く逃亡者だ。何故自分はこんな事をしなければならない。誰がこんな目にした、そいつが恨めしかった。
   自分が一体今どこに向かっているのか皆目検討がつかないまま、とにかく炭鉱から一歩でも遠く離れる事が生き存える唯一の道だと思っていた。 
   雨の日は夜から寝ずに昼まで一昼夜を通して歩き続ける。雨中に山に入る人はいない筈と読んでの行軍だった。しかし谷間から吹き上げてくる霧雨は容赦なく体温を奪った。体力は消耗していたが体温保持も大事と考え、跳んだり撥ねたりしながら前進する。
時間の感覚が無いままに歩き続け、微かに光が山脈を照らし始めた頃、断崖に出た。そこは山脈の切れ目で、眼下には白く噛み合うように流れる急流があった。薄暗い光の中に行く手を阻むように激しい音を立てて流れる川だった。だがこの川を渡らねば前進はないと決心し浅瀬を慎重に選んで渡りきる。
   朝の六時頃になっても小降りの雨は止む気配も見せなかった。寒さと相まって疲労は極限に達していた。
   川岸に一軒の小屋を見つけ我慢できずに忍び込むと、そこは外気を遮断しており、思わず身震いする程の温かい天国に思えた。小屋から百米程の先に茅葺きの人家が数軒あるのには先刻気付いていた。そこに人が住んでいるに違いないと思いながらも、疲れと寒さと餓え、それに睡眠不足までが一気に襲ってきたのである。もうどうともなれだ、投げやりにも似た気持になって敷いてある長い板の上に横たわった。

   どれくらい寝たのか覚えていない。ほんの僅かの間かも知れない。
   ガサゴソと外に気配を感じて飛び起きた。今一番怖いのは虎でも熊でも狼でもない、唯人間だった。その一番遭遇したくない人間が戸外から中を覗いていた。 
   見つかったのだ!
   もはや万事休す、と絶望感に叩きのめされ、観念して外に出た。一人の若い男が乗煕を見つめていた。が、男の肩は片方下がっている。男の足下に目を落として男の足が悪い事に気付いた。警戒した様子をみせるでもなく、男は話しかけてきた。
「どこから来たのか?」「この村には何の用事で来たのか?」「どこへ行くのか?」
   咄嗟に言葉も見つからず、答えられずにまごついているばかりの乗煕を、炭鉱からの逃走人夫と気付いたか男は言った
「アンタ、この道を右に行けば交番があり、炭鉱派遣の警備員がいます。右でなく左の川沿いの道を行きなさい」
言うと男は片足を引きずりながらゆっくりと立ち去っていった。天の助けか、或いは日本人の罠かと一瞬迷った。が、乗煕は教えられた左の川沿いの道へと走り始める。罠ではないかとの不安と警戒心は捨て切れぬままに走り続け、人気の無い村外れに辿り着いた時、静かに朝があけようとしていた。
   心から男に感謝し乗煕は渡った川の反対側の急な山斜面を登り始めた。濡れた山肌を草木や岩にすがって登りながら考えていた。あの日本人は脱走鮮人と見抜いた筈、にも拘わらず何故自分を助けてくれたのだろうと。自身が障害を持つ身ゆえに慈悲心深く、哀れに震える朝鮮少年を死地に投げ入れるには忍びないと同情してくれたのか、もし出遭ったのが壮健な男だったらーーと。


「その男の人は傷痍軍人つまり戦場で負傷して内地に送り返されて来た人じゃ無かったのでしょう」
という手紙の事を思い出しました。
   この話を日本の友人に書き送った時の返事の文面には、こう続けられていました。
   「その人は生まれつき障害を持って産まれた人だったと私は思います。だとすれば、『滅私奉公』の時代にあって、お国の為に戦えない障害者の人々は『非国民』扱いされていたそうですから、同じ「疎外者」として貴方に同情心を持ったのではあるまいか? 
   障害者への差別心も強まる、戦争とはそんなものだと私は理解しています」
と「個人的見解」としながらも私よりずっと年下の友人は手紙で教えてくれたのでした。


    緩やかになった斜面を切り拓いたように芋畑があるのを見つけ、夢中になって掘り出した芋を口にした瞬間、苦さが喉を突き刺してきた、里芋だった。朝鮮の里芋と違ってどうしても生で食えない。別な藷を掘り出す。孝行芋〈註2〉と朝鮮語で呼ぶ藷で腹を満たした頃、久しぶりに見る太陽が姿を現した。途端、声も出ない程驚き、乗煕は吾が目を疑った。逃げ出した炭鉱、その背後の目に焼き付いて離れない山が北の方それも近くに横たわっているではないか。
   四日間もの間、一心不乱になって遠ざかった筈が、近道も解らぬまま無為に遠回りして山の峰から峰を迂回して遠回りしていたのだ。
   既に陽は高く昇っていた。だが未だ一刻の休息も許されない立場にあると思い知らされる。疲れた身体に鞭打ち、意を奮い起こして南へ南へと走り始めた。
   午後の三時か四時を回った頃、右側の山麓に箱庭で作ったような集落が見え始めた。畑には野良仕事の人々がおり、小学校の校庭には戯れる小学生達の姿があった。犬や鶏の鳴き声さえ今にも届いてきそうなのどかな村里の情景だった。
   足を留めるでもないのに、故郷の聖山尋常小学校の思い出が重なってきた。
    寡婦だった母親が馬車馬のようにミシンを廻して毎朝送り出してくれた母校、その校庭で子犬のように無邪気に戯れ合っていた頃、そして友の姿が浮かんだ時、北海道の苦痛にも耐えきった心身から悲しみが堰を切ったように吹き出してきた。山中に入ってから常に細心の注意を払い固く閉じてきた声帯を突き破るかのごとくに呻き声が出た「アイゴー」。
   押し殺すことも叶わずに乗煕は号泣する。
   涙は乾く暇もなく溢れ出て、山道が二つにも三つにも見える中を歩き続けた。

   五日目の夜を迎えた時、悪寒が身を包んできた。頭痛に加えて微熱まである。母国でいう毒感〈トクカン〉、日本で言う風邪にやられたのやも知れない。どうにか最小限の木の葉を集めて眠りについた。
   朝、立ち上がろうとして乗煕は足が震えるのに気付く。気力のみで少し歩いたところで緩やかな坂に出た。坂の途中に一軒の農家がある。恐る恐る近づくと農家の後ろに離れて豚小屋が建っており、小屋の天井には藁がいっぱい積まれていた。千載一遇の恵と思い、屋根裏に這い上がると深く頭まで藁を被って寝たのだった。


   夢を時々みます。心理学者ならトラウマと名づけるだろうというやつです。
   日本人達に追われたり、捕まってリンチに遭ったりする戦時中の夢です。もう六十年以上も前のことなのに。
 戦後私には多くの日本人の友人が出来ました。現在、文通を続けている友人も二十人ほどいます。皆、親切で礼儀正しく人情豊かと思える人達です。
   戦後生まれなのに「日本人を代表して戦時中の我が国が貴方と朝鮮人民に行った罪を謝罪します」と大げさに思えるほどの手紙文をしたためてこられた人もおります。
   夢の話でしたね。
   一人息子が消える夢もみます。探しても見つからずに私は途方に暮れる夢です。  
   上海から帰国した後にはこんな夢をみました。
   元気な息子が戻ってきます。
   息子は手に家の設計図を持ち、新居を建てて私達と同居し親孝行をすると快活に言うのです。最上階に小部屋のある、設計図の家は中国旅行中に多く観た家造りでした。最上階の小部屋は親や先祖の慰霊をする為の部屋なのです。韓国にはそのような家造りはありませんので私が変だと言うと、これでいいんだと笑いながら息子は部屋を出ていくのですが、それきり姿を消してしまう夢でした。
   この夢の事は妻には話しておりません。


   どれくらい眠っていたのか解らない。脱走六日目なのか七日目なのかも解らなくなっている。気付いた時、昼下がりになっていた。頭痛は治まり、熱も引いている。
   屋根裏を脱け出し、乗煕は坂道に出て道端に柿の木を見つけた。地面に熟柿が落ちている。拾って口にすると生まれて初めて口にしたような甘さだった。 
   その時だ、小学生かと思われる少年が坂道を上ってきた。
   乗煕に気付いた少年は一瞬怪訝な顔を見せた後「オジサン、お腹がすいているの?」と呼びかけてきた。
「オジサン、この坂道の下に道路工事場がありますよ」と指差した後、付け加えた
「オジサン、その工事場に行ったらお米のご飯が食べられますよ」と。
   乗煕は少年に聞いた「坊や、お父さん、お母さんは?」
   少年は答えた「うん。その工事場に働きに行っています」
   教えてくれた少年を背に覚悟を固めて坂道を下りて行き、砂利のある河原に出るとそこには手拭いを頬被りにして働く若い女達がいた。用心深く岩陰に隠れて様子を窺うと女の数は九人、男は総監督らしい六十過ぎたあたりの爺さんが一人だった。意を決し乗煕は爺さんの許に向かう。精一杯の殊勝な顔を作り、岩陰で何度も練習した言葉を口にした「腹が減っています。働かせて下さい」
   ジロリと爺が睨んだのは一瞬、哀れなものを見るような眼差しを浮かべた後、顎で大きな岩を指して言った「あそこに飯がある。行って食べろ」
    飯櫃を見つけると、体面も礼儀も忘れて乗煕は飯に食らいつく。
   飢えきった浅ましく哀れな生き物を見ていた女達がお茶を水をと勧めてくれた。一週間ぶりの飯に腹が満ちると辛抱できない程の猛烈な眠りに襲われ、その大きな岩の上で眠りに落ちていた。
  女達に身体を揺すられ、目を覚ましたのは夕方だった。爺が一言だけ言った「ついてこい」。
  女達に囲まれるようにして飯場の家に連れて行かれると、そこで爺が「一緒に働くようになった男だ」と皆に紹介した。女達は拍手で歓迎し、晩飯の時には乗煕の椀に飯や魚を山盛りによそおってくれ、お茶や甘い物まで勧めてくれたのだった。
   下宿は小学校の先生の家と決まる。裕子という若い女先生のいる家だった。
   地獄の逃走の日々から一転、阿房宮(竜宮城)みたいな生活になる。
   痩せこけていた顔も丸々となり、日増しに血色も良くなっていった。女達は代わる代わる風呂場に来て背中を流してくれたし、裕子    先生は毎晩乗煕の部屋を訪ねては世間話の相手をしてくれた。
   突如山奥に降って湧いたように現れた東京弁を喋る若い男は村でも噂になったらしいが、「江戸っ子」と愛称で呼ばれて平穏で幸福な一月が過ぎて行った。
   そこは大分県と福岡県の県境で飯塚から直線にすると四十キロ程しかないのだが、英彦山を抱える筑紫山地の山越えをして遠賀川の上流を渡りツゲの原始林を抜けて、乗煕が一週間かけて辿り着いたという事は後で解った事である。

   一月が経った頃、乗煕は偶然に隣の工事場迄で行って驚く、そこは徴用された朝鮮人人夫集団のいる工事場だったのだ。
   日本人女性達と一緒に働く乗煕を、最初彼らは日本人だと見ていたらしいがすぐに同胞だと悟ったようだ。
   数日後、飲み水を汲む為に再び工事場を訪れた時、一人の男が乗煕の傍に近づいて来て囁いた
「自分の名前は朴という。徴用で捕まり、ここに連れて来られた。全羅南道出身だ」。
  打ち明けた男に自分も小声で名乗った、同じ長城郡だと。
  目を瞠って男は喜びを表した後、哀願する目つきになって頼んだ「助けてくれ、この地獄から救ってくれ」と。
   同郷人の必死の哀願だった。乗煕は断りきれなかった。夜十二時に村外れの小道の交差点で会う約束をする。
   女性達に囲まれた幸せな生活を、まるで不要になった旧い傘を捨てるように投げ捨てて夜逃げを決行する。
   他の誰よりも自分に優しくしてくれた可愛い裕子先生の顔が浮かび、後ろ髪を引かれる思いで朴さんと走った。何度も逆戻りしたい思いに駆られたが、信頼して頼み込んだ同胞の期待を裏切れないと歯を食いしばって村を走り去ったのだった。
   しばらく走り、落ち着いてから思い直した。ここは飯塚の炭鉱から既に遠く離れている、その上、朴さんには疲労がある、山道を夜行する必要はないと。
   相談の上、昼間歩いて夜は野宿とする事にした。ゆっくりした歩みで南下し、行程は進まなかったが二人での野宿には安心するものがあった。道すがら故郷の歌を思い出しては口ずさんだ
「アリランアリランアラリヨ 青天青空には星が多く 私の胸には悩みが多い」

   ここまでを書きながら私は「アリラン」の鼻歌を歌っていました。
  一九二五年に民謡「アリラン」禁唱令が日帝によって制定された事は以前に書きました。
    なぜ「アリラン」を禁止したのか私には解りません。別の和約では「私を捨てたあの人は一里も行かず足痛む」とかの、そんな歌のどこに禁止する必要があったのでしょう。
 「アリラン」には多くの思い出があります。
ここで筆を休めて、中でも新しい二つだけお話したいと思います。
 一つは上海旅行中のことです。
 杭州という所で「宋城舞踊」という大舞台歌劇を観に行った時の事です。それはソウル名所の一つ「ナンタ」雑伎を遙かに超える大観衆で二千人近いと思えたのですが、大満員でした。殆どが中国人か観光の韓国人や日本人なのですが見分けはつきません、兄弟親戚ほどに皆がソックリなのですから。
 芸も演出も素晴らしいもので私達は大いに満足致しました。舞踊ショウの最後にはファンサービスというのでしょうか、韓国と日本の二つの国の舞踊をしてくれたのです。
    日本の曲は「サクラ」。多くいた筈の日本人客は行儀良く静かに観ていました。
    朝鮮の曲は「アリラン」でした。その舞踊が始まった途端に韓国人客達による手拍子と大合唱です。立ち上がって踊り出す私と同世代のハルボジ〈お爺さん〉やハルモニ〈お婆さん〉達。それらを観ながら胸が熱くなったのを思い出します。
    もう一つ、一番新しい「アリラン」の思い出。それは日本映画「パッチギ」です。日本の友人が送ってくれたものを日本語が達者でない妻に説明しながら観ました。二巻の方で、日本人男優に「朝鮮人なんかと結婚できるか」と捨てられた在日の新人女優がホテルを飛び出して乗車する画像で流れた背後曲「アリラン」。
  この時も胸は熱くなり、妻の眼も真っ赤になっていたのでした。
   実にいい映画でした。
   一巻の方では在日の朝鮮人高校生の葬儀に参列しようとした日本人高校生に「日本人、何を知っている?」と連行されてきた朝鮮人の歴史を語る場面。 
   二巻では戦争に捕られようとした朝鮮人青年達が太平洋の島々や密林を必死に逃走して生き延びようとするところに自分を重ねていました。何より感動的だったのは最後の場面です。逃げ抜いて後に生き延びた青年、その娘になる主演女優が舞台挨拶で観客に訴えるところです「私は愛する人に戦場で立派に死んで下さいとは言えませんでした」と。
   私も妻も嗚咽を禁じ得ませんでした。子どもや肉親の命を喜んで戦争に差し出す者がどこに居るものですか。いるとしたら、そいつは全くの大馬鹿者です! 


   朴さんと二人で同行して三日目の午前、盆地らしき所に立ち入った。空が青く澄み渡った日だった。清流が勢いよく流れる川があり、川底の岩盤の上を水晶のように澄み切った水が流れていた。
   川沿いに歩いて板の吊り橋を渡ると工事場があり、そこでも女達だけが働いていた。聞くと女ばかりで男手が無いという。相談してここでしばらく働いて帰国旅費を稼ごうという事になった。乗煕が働かせて貰えないかと頼んでみると、男手が欲しかったのだろう、怪しまれるでもなく許された。
   真面目に懸命に働く二人の評判は日ごとに上がっていき、朴さんも次第に日本語を覚えていった。
   そこは日田と呼ばれる所で、清流に鮎がいっぱい棲んでいるのを見たしそれを口にもした。二キロ程離れた所には杖立という小さな温泉があるのを知り、余裕が出てきた頃に朴さんと出かけて楽しむようにもなった。
   夢のように三ヶ月程が過ぎていく頃、乗煕は恋をする。生まれて初めて胸をときめかした恋であった。
   乗煕に日頃から格別な親切をしてくれる女性だった。小柄で色白、丸顔に目のクリッとした二十歳そこそこの美人で名前を岩下智美と言った。名字は夫の姓なのかは解らないが戦争未亡人だときいた。夫は出征間もなくして南洋で戦死したという。
   彼女の親切な振る舞いに自分も誠実に応えるうちに胸が高鳴っていくのを乗煕は覚えていた。
   ある日、仕事が終わった後「武雄さん、ちょっと」と呼び出されて、二人きりになったのだが彼女ははにかむばかりで一向に口を開かない。しばらくしてやっと小さな声で手帳と鉛筆を持っているかと聞いてきた。乗煕がポケットから出して渡し、彼女が書いて返した手帳には女らしい細い文字でこう書かれていた
 『男らしさにひかされて ならば夫婦になろうと願をかけたが 無理かしら』
   自分が秘かに想っていたのと同じくらい、否それ以上に彼女も自分を想っていてくれた事を知って胸が熱くなった。今まで手を握った事も無い仲である、羞恥に打ち克ち告白してくれた彼女に愛しさが募った。
   しかしその夜、彼女の愛にはっきりと応えられなかった自分を責める。非人情、馬鹿なヤツと。
   だが、二十歳にもなっていない自分であった。異郷の地にあって世間も知らなければ時局も、まして将来すら解らない身の上だ。どんな答えが出せたというのだろう。

   この地を去る時は来たと思った。
   無駄遣いもせず、三ヶ月の労賃で幾分かの旅費は出来ていた。朴さんと相談した。彼は、日常生活に不自由ない程度に日本語が話せるようになったのでこのままここに留まり一人でやっていけると思う、と言った。
  乗煕は彼女に別れを告げる。
「自分には画家になりたいという夢がある。夢を果たす為に東京に行く。画家として出世した暁には必ず迎えに来る」と。
  別れを告げた時の彼女の顔は憶えていない。顔をまともに見られなかった。愛する気持に嘘は無かった。だが、約束は空手形だと自覚もしていた。東京は空襲が酷く、疎開令が出ているとも聞いていた。
   上京は諦めて長崎に向かう。長崎が上海と似た異国風の街だと思えたからだ、それだけの理由に過ぎない。昭和十九年の春になっていた。

   長崎では三菱造船の工事場に職を見つける事ができ、坂道を上り下りして職場を往復する日々となる。
   現場の造船所は港からハシケで渡るのだった。小さく不安定なハシケから女工さん達が投げ出され、悲鳴をあげながら水没していく悲惨な場面に遭遇した事もある。流行っていた疥癬にやられる等もして半年程長崎に住んだが、画家になる夢は緒すら掴めてはいなかった。
   福田先生に会えば何とかなる、そう思った途端、汽車に飛び乗った。
   先生の出身地は知らなかったが、鹿児島に行きさえすれば訪ね着く事はできると考えたのである。昭和十九年も暮れが押し寄せようとしていた。
   鹿児島県について、記憶していた先生の身上と訛りを真似して尋ねてまわった。大隅の方じゃないかというところまで解った。が、後は皆目見当がつかないまま大隅半島の拠点鹿屋〈かのや〉に辿り着き、仕事を得て鹿屋の地に住み着く事になった。
  仕事というのは海軍航空基地の防空壕堀りで、野里という地に下宿を借りる。下宿の周りの畑は赤いツルの藷畑で埋まり、後ろには緩やかな丘が連なっていた。その丘へと続く高さ二十米程の小高い土手があり、そこに防空壕の穴を掘っていくのが仕事となる。
   毎日、近くの航空基地からウンウンと唸る飛行機のエンジン音が響いてきた。特攻機で荒鷲と呼ぶのだと聞いた。丘からは錦江湾と呼ぶ湾の向こうに開聞岳と呼ぶ山がくっきりと聳え立ち、そこからも飛行機の編隊が飛び立つのが見えた。湾の向こうに知覧という特攻基地がある事も知る。
   休日に下宿の窓辺に航空兵が立ち寄るようになる。新兵だと思う、自分と同じくらいの年齢の青年というより少年に近い顔をした兵達だった。同じ年頃の新兵が乗煕に呼びかけてきた「旦那さん」と。驚き、目を合わせると「何か食い物はありませんか」と哀願するように言う。飢えに日本人も朝鮮人も無いと思った。労賃の蓄えを費やして農家から赤藷を買い求め、ふかして彼らに日曜日が来る度に与えるようになった。こんな年端もいかない、恐らく操縦訓練も未熟なままの少年飛行兵が戦場にかり出されるのを目の当たりにして、戦局が日本に不利な状況にあるという事は容易く想像出来得た。


   上海旅行中、郊外で見た風景は故郷の全羅南道の田園風景と変わりませんでした。刈り取った後の稲藁を小さく積んであるのも見ましたし、鹿屋の野里も似たようなのを見た記憶があります。
   郊外の家屋には灯りが少なかったようでしたが、市街地は全く異なりネオンサインの洪水が降り注ぐような街でした。
黄浦江畔の外灘〈バンド〉の旧市街の建物群、戦前そのままを偲ばせる銀行や飯店、領事館等の旧い建物を見上げ、少年の昔私が憧れた上海はこんな様相をしていたのかと感慨深いものがありました。
   観光客の人混みの中に美味しそうな料理の薫りが漂っていました。
   息子が同行していたなら「お、ウイキョウの匂いがするぞ」などと言って鼻を蠢かしていたかも知れません。そんな想像すら浮かびましたが妻には言いませんでした。
 評判の上海蟹には食指が動かず、妻に譲りました。あんな川蟹と言うのでしょうか、小ぶりの蟹は故郷の川に獲りに行っては食料にしていた訳ですから。
 日本の友人からも同じような話を聞いた憶えがあります。彼はこう言いました。
 自分は今更、芋を食べようとは思わない。戦後の食糧難の時代、畑の生芋を食って飢えを満たしていたから、少年時代に生涯分の芋を食べ終えた気がする、と。
 友人の気持ちが解るような気がしたものです。
   終わり近くになった記述の方に戻ることに致しましょう。

   鹿屋の地にも米軍の艦載機が鋭い音を立てて空襲して来るようになり、ある時、機銃掃射に追われて逃げる最中に被弾した何かの破片で左膝に負傷した。村人と一緒に避難した防空壕から空中戦を見る事もあった。米軍の飛行機に比べて日本軍の赤トンボと呼ばれる機は素人目にも性能が劣るように思えて日本軍の軍事力が底を付いている事も感じられた。
   福田先生の行方は杳として解らぬまま、半年が過ぎていった。
野里という郷愁を誘う名の土地で、渡り鳥の旅の群れを見ては故郷が思い出され、日田盆地での淡い初恋を思い出しては偲んだ。勇気さえあれば手に手をとって人生を歩けたものをと。
  そんな時、一人秘かに歌ったのは好きだった曲『影を慕いて』という歌である。
「君故に永き人世を霜枯れて 永久に春見ぬ我がさだめ 永らうべきか空蝉の 儚なき影よ 我が恋よ」
というものだった。昭和二十年は初夏になろうとしていた。
   前年の一九年に朝鮮にも徴兵制が実施されている。
   二十歳の誕生日を迎えて間もなく、乗煕は鹿屋の地で兵隊検査を受けさせられることとなる。第二乙種合格となり、「柳澤武雄」に召集令状が届いたのは七月の中旬であった。 
   出征通知を知った村人達が下宿の門前に祝出征の幟を掲げてくれ、千人針の布と寄せ書きのついた日の丸の旗を届けてくれた。寄せ書きの中には次の文句が有った。『引かば押せ、押して勝つが相撲の手なり』というものだったが、意味は解らなかった。


 「千人針」という日本人の習慣も私は知りませんでした。
   戦地から無事に帰って来られるよう、とのお守りだと知ったのは後の事です。 
   天皇の赤子として立派な戦死をせよという表向きとは裏のところでは、命を大事にせよという反対の国民感情があったというわけですね。
   その頃住んでいた鹿屋の地で「ナタ豆」という豆が出征軍人を送り出す家で求められているという話は聞いておりました。ナタ豆というのは「鉈」のように大きな実のつく豆ですが、大きくなると根元の方に実が反り返るようになる豆なのです。これも無事に戻ってこいという意味なのでしょう。尤も私にそれを食べさせて送り出してくれる人はいませんでしたが。
   難解だと一般には思われている鹿児島弁ですが、私が鹿屋の地で一番先に憶えた言葉が芋焼酎です。鹿児島では「ソチュ」と呼んでいましたが私の故郷の呼び方とそれは全く一緒でしたから。

   村の出陣式では若い女性達や老人達が「武雄君万歳」と歓呼の声で送ってくれ、女性達は中に何か入っているらしい袋を呉れた。
   野里から、出征する鹿屋駅までの半里程の道は小太鼓とラッパがドッチャンガッチャンと勇ましい行進曲みたいなものを鳴り響かせ、それは鹿屋の駅頭迄続けられる。
   壮行歌も歌われた。自分も小学生の時分に出征兵士を見送るたびに一同で歌わされた歌、『露営の歌』というものだった。今でも耳に焼き付いている
「勝ってくるぞと勇ましく 誓ってクニを出たからは 手柄たてずに死なりょうか 進軍ラッパ聴くたびに 瞼に浮かぶ旗の波」。


   日本演歌は大好きでも軍歌の大嫌いな私が、ここに歌詞を書いたのには理由があります。
   日本の友人が贈ってくれたカセットの中に「グンカ」があったのです。それは想いもよらない愉快な「グンカ」でした。悲壮な自分の逃走記を書きながら、そのテープを流すと悲壮感は消えて楽しい気持にさえなってくるのです。
   タイトルは『戦争中の子どものうた』と名づけられており、子供達が歌った(軍歌のパロディソング)だと解説にありました。
   中にあった『露営の歌』はこんなものでした。
「負けてくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは 手柄なんぞは知るものか  退却ラッパ聞くたびに どんどん逃げ出す勇ましさ
   勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは 手柄立てずに支邦料理   進軍ラッパ聞くたびに まぶたに浮かぶ支邦料理」
   初めてこの歌を聴いた時、私は手を叩いて喝采しました。妻を呼びに行って聴かせもしたくらいです。
   必死になって日帝の追っ手から逃走し、それでも徴兵を逃れられずに私が戦場に送り込まれようとしていた時に日本の子供達の間でこんな歌が生まれ、そして歌われていたとは。
   他にも『僕は軍人大嫌い』とか多くの歌がありました。
(日本の少年少女達よ、やるじゃないか)。それが私の第一印象でした。どの程度子供達の間で歌われていたか興味がわいた私は友人に問い合わせてみました。すると私より十歳ほど年下の友人、戦時中「小国民」だった彼はこんな返事を寄越してくれたのでした。
『軍国少年に育てられていたあの当時、子どもですからプロテストソングともパロディソングとも意識せずに歌っていて、大人達に怒られた歌は幾つか記憶にあります。
「東条英機のつる禿頭 ハエがとまればチョイトすべる チョイトとすべる」という、カセットに入っていた歌も良く歌ったものです』というようなものでした。
 日本国の一億臣民が総火の玉となって戦争遂行に邁進していた時に、子供達はぼくらには関係ないとばかりに戦争の無い社会、或いは平和な社会を望んで歌っていたのだと私は理解しました。
 逃走中、地面に落ちていた熟柿を拾って口にしていた哀れな青年に「オジサン、下の工事現場に行ったらご飯が食べられますよ」と指差してくれた少年、彼のイガグリ頭とドングリ眼を思い出します。私が眼を閉じる時まで彼の事は決して忘れないでしょう、敵陣の中で敗走兵にも等しい立場の私の味方になってくれた命の恩人なのですから。
 いや、日本の少年少女達だけではないのでしょう、世界中の子供達が本来は平和で仲良い社会を望んでいるのではないでしょうか。私が教育職を志した理由の一つには、そういう子供達の平和を希求する真情に期待する気持があったからに他なりません。
 私はこのパロディソングを聴く度、可笑しいのですが泣けてくるのです。妻は笑います「泣き笑い」だと。でもどうしようもありません。


 鹿屋駅での万歳三唱に頭を下げ、乗煕は列車に乗った。遠ざかっていく高隈連峰を車窓から眺めながら独り言ちた「さらば鹿屋よ また来る迄は」と。
 しかし、二度とくる事はあるまいとも覚悟していた。僅か一銭五厘で召し上げられた命である。屠殺場へ送り込まれる牛馬のそれよりも軽いものだ。
 故郷へ向かう関釜連絡船の中で、女性達から貰った袋を開けると鹿屋特産の南京豆の煎ったものが入っていた。     
 招集令状の出征到着場所日時は『全羅北道井州邑 関東軍司令部 八月二十日付』となっていた。
 だが、故郷朝鮮に着いて間もなく、ラジオ放送で日本の無条件降伏を知る。    
 後に祖国で祝日「解放記念日」となった日、八月十五日その時の自分の心情を忘れることはない、決して。
 赤紙が白紙になった瞬間、大日本帝国による呪縛とその逃走から訣別できたと心から思えたのだった。


 妻が手紙を持ってやってきました。来信が年寄りの楽しみの一つと理解している妻は届くとすぐに持ってきて呉れるのです。二通の日本からの手紙でした。
 一つは福田様でした。福田先生の御次男になられる方です。退職後私は一人渡日し先生の行方を捜しました。しかし先生は既にご他界されておりました。私は恩師の墓参をさせて戴きましたが、その時、ご子息様と知遇を得まして今日に至っております。
 もう一つは悲しい便りでした。永野様のお嬢様からで、お父様の御昇天をお知らせ下さったものでした。五歳年上だった永野様と私は文通のみで一度も残念ながらお会いする機会はございませんでした。いや、遇っていたのに面識がなかったという訳なのです。何しろ私に名前など無く、番号で呼ばれていたあの飯塚炭鉱の中で、ですから。
 知り合ったのは戦後随分経ってから共通の友人を通してのことでした。       
 青年だった永野力男様は炭鉱で朝鮮人労働者が牛馬のように惨殺されるのを見て「同じ人間なのに何故!」と義憤を禁じ得なかったそうです。
 そして戦後、鹿屋の地に戻って暮らす中で永野様は知ります、戦時中に鹿屋で防空壕掘りに従事させられて死亡し、戦後身元不明のまま故国に帰ることなく共同墓地に埋葬されている朝鮮人遺骨十二柱がある事を。永野様は自らその清掃墓参を三十年にわたって続けられた方なのです。誰に知られる事なく、ましてやどこからも顕彰一つされることもなく。
 私は深い悲しみの中に意を固め、再び筆を執りました。題は既に決まりました「日本の良心に感謝する」というものです。永野様がお住まいになられていた鹿児島県の地元新聞に投稿し、御偉業を広く知らしめたいと考えたからに他なりません。

「今日で脱稿しそうだよ」
と告げると、妻は頬を緩めて言いました
「良かったですわね。お祝いに今日は外でお食事にします? それともオデンでも作りましょうか」
 私はオデンを頼みました。好物のオデンは日本から伝えられた和式料理の一つで韓国でもオデンと呼びます。大食漢の息子の好物でもありました。
 ただ煮込むだけの簡単な料理かと思っていましたら、ゆで玉子を作って殻を剥いて入れたり食材に串を通したり、結構手間のかかるものなのですね。
 オデン料理が遅い時、腹を空かした息子が「飯はまだかい? それとも未だ稲刈りなのかい」と良く韓国で使う冷やかしの言葉で催促しては私達を笑わせたものです。
 朝鮮戦争の最中に産まれた一人息子は戦争の落とし子でした。動乱を生き抜いた逞しい息子がまさか次の戦争で死ぬとは夢にさえ思わぬ事でした。
 私達を置いて息子が一人あの世に旅立って三十年を遙かに超えてしまいました。
 息子は戦死です。遠い異国インドシナの地で二十一歳の命を落としました。ベトナム戦争というヤツに大韓民国正規軍兵士として参戦したのでした。
 徴兵制の敷かれている我が国です。まして当時は軍事独裁政権下のもと反共法というものが罷り通り、公安警察KCIAが目を光らせていた時代です。徴兵忌避などできようものですか。大統領候補金大中でさえ暗殺されようとしたのですから。
 大事な一人息子の死を運命だったのだと諦めようとする私に、当時の妻は激しく詰りました、貴方に教職という職を賭してまで息子の命を守る覚悟があったかと。公僕職にしがみついていた訳ではありません。が、息子は私の立場をおもんばかって戦地に向かったのかも知れません。息子の心中など知るよしもありません。
 そんな私ですから、先の記述で「他国へ一度たりと侵略行為をしなかった我が民族」と書いて恥じる事もないのでしょう。
韓国と同じように米国と軍事同盟を結んでいた日本がベトナムに出兵する事なく一人の兵士の命も失わせなかったことが羨ましくてなりませんでした。
 ベトナム戦争を描いた韓国映画「ホワイトバッジ」を見たのは息子の戦死から二十年くらい経っての事です。
 そこには信じがたい画像がありました。我が韓国軍兵士が殺害したベトナム人民の鼻を耳を削いでいたのです。耳削ぎ、それはかつて朝鮮倭乱の時、秀吉軍が我が同胞に行った悪魔の行為ではありませんか。私は酷い吐き気に襲われたのを記憶しています。
 戦争はおぞましいものです、人を狂気にさせるのですから。
と、一人息子を亡くしていながら人ごとみたいに述べる私ですから妻は言いたいのでしょう「そんなもの」と。
「一人息子の命を守れなかった貴方にそんなものを書く資格があるの?」とすら、言いたかったのを抑えたのかも知れません。
 もしも万一、息子の話を書き留めたいと言ったら妻は何というのでしょうか。

 書き終えた「そんなもの」のタイトルを「逃走記」と記し、「大日本帝国による呪縛とその逃走から訣別できたと心から思えたのだった」の末に完と記して私は筆をおきました。 

 居間に入るとグツグツと音を立てて、オデン鍋が食卓に乗っていました。
「完成お祝いの乾杯しましょうか?」
と尋ねた妻に私は三つのグラスを頼みました。一つは息子の分です。
 たち上る湯気の向こうに息子の遺影が翳んで見えます。果たして、息子はどんな顔で乾杯をしてくれるでしょうか。
                                                    完



脚註 一。韓国の習俗に「人生に三回、喧しい日があるという。
    一出生。二結婚。三目を閉じる日   
二。孝行芋。近世、対馬が凶作になった時、一人の息子が禁制の芋を内地か
ら持ち帰り親を助けたという。その名がそのまま朝鮮に伝わってこう呼ぶ

 

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