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白幻記③ 勇二編

 

           

              1   
「譲兄ぃ、戻って来たっちナ?」。
 玄関口から駆け込んだ勇二の目に飛び込んできたのは、一年半前に別れた時と同じままの譲の筋骨隆々とした後ろ姿である。体臭まで昔の兄ぃを醸し出しているようで一気にこみ上げてきた懐かしさだったが、それを打ち砕いたのも振り向いた譲自身に他ならない。
「おお、勇二。元気だったか?」。
  瞬間、勇二は息を呑んでいる。譲の左耳は欠けていた。否、あるにはあるのだが小さく縮んだようなものがくっついているだけで左眉は剃り落としたかのごとくに消え、そこから髪の生え際までうっすらと爛れたような皮膚が覆っていた。
「びっくりしたか? 勇二。ハハハ。耳はちゃんと聞こえるんサ。心配すな。頭は大丈夫ド。ヌーの名前を憶えているだろ、見るか?」
  上着を捲り、譲が左の腹を向き出すとムカデを貼り付けたような縫合の跡があった。
「タマを取り出した手術の跡じゃ。腕と肩は擦っただけじゃったしな。ちぎれそうになっていたのをひっ付けたのヨ。ほら繋がったチバ」。
  血行が充分でないのだろう赤黒くくすんだ指を見せた後、笑顔を作って譲は言った。
「大丈夫チバ。島に戻ったその足でグスクへ行って、占い石をやってみたんド。簡単に持ち上げたわ。昔より軽かったガ」
(そうか。なら、兄ぃの戻りは吉なんだ)、勇二の頬は緩む。
「誰に訊いた? 勇二。俺が沖縄から戻って来たンを?」
「千美子姉じゃ」勇二が答えたのと同時だった、奥から千美子が顔を出した。
「勇二の声じゃチ思ったわ。いらっしゃい」
  拭き掃除をしていたらしい雑巾を持ったまま、炊事場の方に消えた千美子が間もなくお茶を準備してきた。勧められて勇二は上がり框に腰をかけ、譲の話を訊く。
―那覇で米軍の『倉庫荒らし』に誘われてよ。『ヤクザ戦争』に巻き込まれてワンがヤラれた話じゃがノ。半年近く入院していた間にハナシがついたのよ。本土から大きな組織が来る前に沖縄はまとまる、縄張り争いはやめるチことでケリがついたらしい。で、相手の組からワビが入ってノ、俺ともう一人の男、真也ちゅうんじゃが、二人への見舞金も届いたらしいんじゃ。組の親分が、チ言うてもワンらは組員じゃ無かったんじゃが、その見舞金の分をワンらに呉れたんじゃ。その金で免許も取ってナ、オート三輪まで買うてきたんド」
 裏庭に留めてあった中古の三輪自動車を見せた後、勇二の話になった。
高校に行っていると告げると、譲は大きく肯いた後、力を込めて諭すように言った。
「勇二、これからは力でのし上がる時代じゃねえ。学問よ、学問を武器にするんバヤ」。
 そして、「誰に聞かされた話だったか思い出せんのじゃが」と前置きしてから、譲は学問
の話を始めたのだった。
   ―江戸期にヨ、黒糖地獄チまで言われた過酷な税を奄美に課した薩摩藩は、明治新政が始まってもそのまま続けようとしてナ、砂糖の流通を大島商社という県政の息のかかった独占企業に引き受けさせた。暴利を貪られていた奄美の島民達は陳情に鹿児島に上ったんじゃ。ところが難解な法律や鹿児島弁に愚弄され、揚げ句は西南戦争にまで巻き込まれてナ、時化にもあって、生きて島に戻った者は半数にも満たなかったんじゃチ。戻って来た島衆が皆に声を嗄らして訴えたのが、「学問ド、今からの世は学問ド」という言葉だったのヨ。
譲の長い話が「勉強せぃ、勇二。ワンもできる限りの応援をするチバ」
  で終わった頃合いを見計らったように、千美子が新しいお茶と茶菓子を乗せた盆を持ってやってきた「召し上がれ、勇二」。
 黒砂糖味のする蒸し菓子なのだが勇二には初めて味わう食感だった。
「高麗餅というンド。鹿児島の菓子じゃガ」
  譲の言葉に兄ぃが鹿児島の和菓子屋で修業してきたことを思い出した。
「菓子屋さんを始めたんか? 譲兄ぃ」
「まだ先の話よ。でもな、勇二。鹿児島の菓子をシマで作ろうとは思わんとじゃ」
「シマの特産品をバ菓子にしたいんじゃッチ」
  千美子が口を挿んだのだが、二人の関係が勇二には腑に落ちない。「この人は」とか「夫は」とか「譲は」とかの主語が脱けている説明だ。思い切って訊いてみた
「結婚したんか? 二人は」。二人は、のところには力を込めた問いに
「あらん。まだじゃ」と譲が答え、「年末の頃じゃチ思う。勇二も祝いに来てたもり」
と言った千美子に、ウンと大きく肯き小屋の外に出ると、夏も終わりを告げるような薄れた形の入道雲が見下ろしていた。
「年末か、ヨシ」、言うなり勇二は駆けだしている。
   昭和三十九年、晩夏。勇二、高一。 

  その後、オート三輪を運転している譲の姿を勇二は幾度も見る。島に届く荷を配達する仕事を請け負っているとのことだった。労賃は旧い家の改築費に充てているとも聞いた。そして家の隣には、菓子製造の為の別棟も建てられ始めていた。   
  家造りの指南はジイがしていたようだが、当然力仕事は無理なわけで、山の木を切り倒して運ぶ時や柱を組み立てる時には、頼まれて勇二は快く出て行くのだった。
「労賃が払えんでスマンな、勇二」。譲はその度に申し訳なさそうな顔をしたが、昔世話になった兄ぃの新居作りの加勢を自分もできるようになったと思うとそれは報酬よりも嬉しいことだったし、帰り際には千美子が必ず「試作品ド。食べてみて、勇二」と、包んだ和菓子を渡してくれるのだが、それは何より甘い物好きの母が喜ぶのだ。餅粉と黒砂糖で作るジョウヒ餅、お祝い事の時にしか食べることのないそれをを口にしながら、「ジョウヒンな味になっとるガ。譲の腕も上がったなぁ。これなら売れるド」、とクシャクシャにして母が笑みを見せるのだった。
   最高の出来ド、と自信たっぷりに譲兄ぃが拵えたジョウヒ餅と四合瓶一本を持って、ジイが千美子姉の家に『三合酒』、つまり「嫁貰い」に行ったと勇二が聞いたのはサシバの渡る秋も半ばだった。聞いたとしか記憶していないのは、嫁貰いは『懐酒』とも言われ秘かに行われる仕来りだったからである。嫁側が承諾しない場合酒はそのまま返され、承諾の場合は酒瓶を空にして返す習わしで、勿論ジイは空瓶を返される場で祝い酒にしこたま酔ったという話だった。
 そして、譲と千美子の婚礼が行われたのは年も改まった昭和四十(一九六五)年、キビ刈りを早めに済ました二月も半ばのこと。内地では高度経済成長時代の最中で消費ブームに浮かれていた頃だったようなのだが、二人の披露の宴は簡素なものだった。現在では会費制の披露宴の話はたまに聞くことがあるが島ではそれが今でも普通にある。それに当時はお年玉にせよ、小、中、高の段階ごとに額が取り決められていて生活簡素化運動の表が各家庭に貼られていたものであった。
 寄り合い所で行われた披露宴では、床の間の新郎新婦に祝い言葉を述べると客は自由に開いた席に着き、出される吸物と酢の物、豚や大根など煮込んだ五品が盛り合わされた硯豚料理を戴く。いつまで居ようがかまわない訳で、それは客が途切れた深夜にまで及び、同じ様に翌日も続いたという。
 喜びを一番表していたのがジイでジイの島唄は独演場みたいに延々と続いたそうである。  
      ♪今日の佳かろ日に 天陽を明カガラシ お栄えあれ 島のある限り
   宴が終わって千美子姉が新居に入る時、玄関の上がり口に『石』が据えられ、新婦はそれをしっかり踏んで入居した。石のように固く動かず新居の住人になるという決意を示して、婚礼の全てが終わったのだった。

 「勇二、腹が減ったらお前、寝るんと違うんか?」。
    早飯をしているところに廊下から声をかけてきたのは隣のクラスの亜希子だった。美人で頭も良く、男達の間でよく名前の出る女だった。しかし中学も違い、今まで話をした記憶はなかった。だが。自分がヤツの名を知っているのはおいても、自分の名前を知っていることに正直嬉しい気がした。が、その思いは表情から隠し、勇二は飯を口に含んだまま言った「早飯が悪いか?」。 
   寒いこの時期、体育の時間は決まって長距離走の練習で、走り終えた者から教室に戻れるのだった。早飯は早く走った者の特権だったし、殆ど毎日同じの魚味噌弁当を仲間に見せずに喰えるのはこの時しか無かったのだ。
「いいや。じゃが、お前が『腹が減った時は寝ます』と答えた話バ、私は知っちょるンド」
 白い歯を見せた娘を、内心とは裏腹に勇二は睨み付けてみせた。
   それは勇二が小学に入学する時の話である。
   教育委員会の面接があった。名前が答えられるかなどある種の能力検査である。
「お腹がすいたらどうしますか?」との問いに勇二は「寝ます」と答えたのだ。
   その話はどこから広まったか当時ちょっとした有名な笑い話になったのだった。
「怒るな。父が『アン童は大物や』チ言うとったし、ワンは高校で会えるのを楽しみにしとったんド」
 男子生徒達から注目されている亜希子から声をかけられて悪い気はしなかった。だが、陸上部に入らないかという彼女の誘いには、「考えておく」、そう答えたのだった。
 勇二が陸上部に入部したのは三日後の事である。押しなべて島の子どもは足が速い。幼少時から砂浜で遊んだり、家の手伝い等で身体が鍛えられているからである。それにも増して勇二は脚力に自信があった。村が山手にある為に、帰宅する時は通学の自転車をずっと荷台から腰を浮かしたまま全力で漕ぎ続けなければならないのである。それを中学時代から続けてきたのだ、自信がない訳が無い。
   入部と同時に走力を見抜いた顧問の教師は、勇二に長距離を専門にやるようにと指示を出した。練習をするようになって知ったことだが亜希子は中距離だった。
   入部して一週間ほど後の事。元部長という卒業目前の三年生が勇二の元へやって来て言った、入部歓迎式を今日やるからな、グラウンドだぞ、と。
   一年男子陸上部員四名が、フィールドの直線ラインに三十メートル間隔くらいに立たせられ、グラウンドの反対側に先輩達が立った。それを何故か他の部の者までが部活をやめてフィールドの外側から見守る中で『歓迎式』が始まった。向こう側の先輩達が質問をする、それに大声で答えるというものだった。先に入部していた三人の一年部員は既に経験済みらしく、質問に即答する形で大声で答えていく。勇二も真似て答えていった。
    氏名、出身中学、陸上にかける意欲など幾つか答えたところで出て来たのが、好きな女の名を答えろと言うものだった。先の三人は意中の女か交際中なのか知らないが名前をあげて、喝采とも冷やかしとも解らぬ歓声を観客達から受けていた。
    勇二の番だった。いませんと叫んだ。が「嘘つくな」と即座に返ってきた声に思わず俯いた。続いて来た大声「下を向くな」には顔を上げて正面を睨み返したものの、怒りとも羞恥とも解らぬ感情に顔は赤らむばかりで無言で立ちつくすしかなかった。困った、息んで空を見上げた、歯を噛んだ。「朝まで立っているつもりか」の次に「男なら早よせんかい」の声が届いた時に、腹が据わった。名前を出した。「聞こえん、もう一度言え」と大笑いの声が催促する。開き直りに近い絶叫をあげた「陸上の亜希子じゃ」。
    大げさな喝采の中、またもや大声が届いた「どこが好きかあ?」というもの。
  「足が速いとこじゃぁ」と答えると、笑いが最高潮に達した。
   その時。グランド横からフィールドに飛び出し、勇二に向かって一直線に駆けて来た者がいる。みんなが見守る中、全力で走り寄ってきたその女、亜希子は跳んだ。次の瞬間、跳び蹴りを勇二の脇腹に一撃食らわすと大歓声が沸き上がる中を場外に消えて行き、それが『歓迎式』のフィナーレとなったのだった。
   翌昼、勇二の教室はやってきた四人の三年生で空気が竦み上がる。中心の、制服から身体がはみ出しそうな大きな男、そいつは「バンをはっている」と言われている男だった。静まりかえった教室の中心に立ち、男は勇二を睨みつけるようにして言った
「放課後、浜に顔を出せや」
   男達が去った後、教室のヒソヒソ声が勇二の耳に届いた。
「あん人は亜希子と付き合ってたらしかチバ」「勇二をどうするつもりじゃろ?」「亜希子は知っとるかい? こン事を」「知らんじゃろ。報せろうか?」
   立ち上がり隣の教室に向かおうとした二人の女に向かって、勇二は怒鳴った。「余計なこっバ、すんな!」
   女二人が顔を見合わせ戻ってくるのと入れ替わりに勇二は教室を出ている。
 
   浜に勇二が独り向かうと、屯している上級生の姿があった、その数六人。一人がアッチの方に行けというふうにアゴで指した。岩に腰掛けている大きな男の前に勇二が立つと、男が言った「ヌー、猛兄ぃの弟らしいな?」。

 勇二は小さく肯き、訊いた「知っとるんか?」。
 「話した事はねぇ。じゃが、兄ぃの事を知らん人はおらんじゃろ。伝説の人じゃ」。
   男はニヤリと笑った後に続けた「兄ぃが若頭をはっちょるチュウのは本当か」。
   勇二も聞いた事があった、兄が暴力団の幹部になったという話を。根も葉もない噂である。あらん、短く答えた勇二に男が訊いた「譲とはどういう付き合いじゃ?」 「譲兄ぃは兄貴分じゃ」。そうか、男は大きく肯いて続けた
「譲とワンは中学の仲間よ。つきあいはなくなったが、今でも友達チ俺は思うちょるチバ」
   一瞬、懐かしむ目をした後、男は厳しい目に戻って言った
 「昨日、亜希子を好きチ言うたのは本当か?」
   言った内容が本当の気持ちかと問うているのか、言ったと言う事実が本当かと訊いているのか解らなかった。迷った挙句考えるのが面倒臭くなった。男の目を見返し、ハッキリと肯いた。途端、男の手が伸びてきた。咄嗟に勇二は身構えた。だが男の指は開いていた。
 「うまくやれ。ヌーがあいつをどうするか、ミモノじゃ」
   ニッと笑った口からたばこ臭い息が漏れ、男は握手を求めるとそれから背を向け、去っていった。男も考えるのが面倒臭いタイプだと思えた。男が亜希子とどんな関係だったかは解りようも無いまま勇二は独りその場に残されている。
    翌日。部活で顔を合わせた亜希子は素っ気なく、昨日の浜の事も知らないように思えた。しかし、歓迎会での事は怒らせたかと思い、勇二は近づき他の部員に気付かれないくらいの小声で言った「昨日はスマン」。同じくらいの小声が届いた
「ワンは怒っちょるんド。あんな場で言うのがいるか、アホ!」。

   その日の部活が終わり、自転車小屋にいた勇二の許に亜希子がやってくるなり言った。
「勇二、お前はコースはどっちにするんか?」
 コースとは二年進級時に選択する課程のことだろう、怒った様子もない亜希子に「解らん」、短くそう答えた。
「なんや、ヌーはハッキリせん男やったんか。なら理系にしろ、理系」「理数は好かん」
「好かん? 好かんのをやるのが勉強チュウもんじゃろが。理系にしろ、勇二。数学とかワンが教えてやるから」。 
   亜希子の真っ直ぐな目に勇二は思わず肯いたのだった。
 商業科一クラスと普通科二クラスの高校で二年に進級して、勇二は亜希子と同じクラスになる。陸上部の顧問は転出し、新しく顧問になったのは新規採用になったばかりの数学教師で大島本島出身という島ンチュだった。その新任担任はよく宿題を出す教師だった。
写させろと勇二が頼むと、約束を果たすつもりか亜希子はノートやプリントを貸してくれるのだった。完璧に解いてある答えを写す、その限りでは支障はなかった。が、授業時間中に担任は必ず勇二を指名して解かせるようになっていた。そして解けない度に茶化すのである「お前は天才だな、途中が解らんのに答が出る」と。
   担任の笑いに同調するのは勇二が亜希子ののを写しているのを知っている数人だけだった。しかし、その数は次第に増えてくる。亜希子が授業の始まる前、勇二に必死に教える姿を見るようになったからである。部活の後にも勉強は続けられるようになり、他の教科も教えられるようになって勇二の成績は中位から上位へと少しずつ伸びていき、それと共に笑いも減って行ったのだった。
    勇二が著しく伸びたのは五千メートル走の記録だった。初夏の県大会で二位に入ったのである。県立競技場のフィールドを駆ける勇二の耳は声援の中に亜希子の島口の甲高い声をはっきりと捉えていた「頑張れ、勇二」「絶対、一番ド」。最後の一周の時にはそれが「一番やったらワン×××××やるドォ」と聞こえたのだが××は聞き取れなかった。声援も激しい大混戦だったのである。しかしそれまでトップをキープしていたのだが、最後の直線で勇二は抜かれてしまっていた。
 「気合いが足りないんじゃ、お前は」。亜希子が最初にかけてきた言葉がそれだ。
「何を、呉れるチ、言うたんじゃ?」、息も整わないまま勇二が訊くと「二番に知る権利無し」。そう言い捨てて、入賞も果たせなかった敗者の方が勝ち誇ったような姿を見せつけたのだった。
   それでも、勇二は県代表として夏の九州大会では自己記録を更新し、三位入賞という地元新聞が写真付きで取り上げる成績を残したのである。
   亜希子に、勇二は再び求めてみた「なんかホウビを呉れるんと違うんかい?」
「ごホウビねぇ? それじゃーー」、亜希子は勿体ぶるように間をおいてから言った
「ワンの一番大切なものをやるとするか?」「オ、ほんとか」
「あらん。約束しとらんしーー。なんや、お前は。鼻の下長くしてーー。スケベ」
からかわれこそすれ、亜希子からは何のホウビも貰えなかったのである。約束しとけば良かった、と地団駄を踏む思いで後悔したが後の祭りだった。どころか、勇二は二度とホウビを貰えないという致命傷を負う。足を痛めてしまい、半年続けた陸上活動を退部せざるを得ない状況になったのである。
 「勉強頑張ればいいサ、勇二」。それが亜希子の慰めともつかない励ましだった。     
  放課後暇を持て余すようになった勇二は、遊びがてら時たま譲の店に手伝いに行った。譲と千美子の新婚夫婦は仲良くやっていたようである。販売する菓子以外にも二人はいつも菓子の創作に工夫を重ねていた。譲は三輪を駆使して運送の方も続けていたが、菓子作りの新しい機材を入れる為にも資金が必要ということだった。
 勇二が小豆煮を手伝っていた時のこと。
「煮立って小豆が浮き上がってきたら差し水、オドロカシ水というんじゃがそれを加えるんじゃ」と教えた後で譲が秘かに持ってきて見せた物があった。一本の徳利だった。
「どうしたん?」と訊くと「中を見てみろ」と言う。酒の匂いのする徳利の中は何かが入っているらしいのだが良く見えない。そう言うとひっくり返してみせた。何か玉らしいのが中に入っているのだが入り口で詰まってしまって出て来ない。正体の解らぬまま首を捻っている勇二に譲が言った「雀の卵よ。これを飲んでいると酒嫌いになるんじゃ、チ」
    状況を朧気に察した勇二に譲は続けた
「ナ、勇二。お前が取ってくれ。俺が取る訳にはいかんじゃろ。アイツが気付いた時にはお前が知らずに取っていた事にするチバ。ナ、勇二」
   千美子姉が忍ばせている物をこっそり取ってくれと頼む譲の顔を見ながら卵を掻きだして、勇二は考えていた(この夫婦、どっちが強いんじゃろ)と。     
   年の瀬も押し迫った晦日、勇二は譲に船釣りに誘われる。ジイの船でジイも一緒だったが操船は譲がした。正月の煮付けにする魚が目当ての手釣りで、狙いは皮剥ぎだった。大物こそ来なかったが午前中に手頃なカタを大量に釣り上げて昼飯となった。
   握り飯に入っていた梅干しの種を海に吐き出して、勇二はジイに咎められる
「種を捨てるんじゃねぇド、勇二」「なんでじゃ? ジィ」
「命の元は種から始まるじゃろ。陸地なら種は育つ。じゃが、海に捨てたらオシマイよ。霊力を失うことになるからノ。じゃからよ」
  晴天の見当だったが僅かの間小雨に見舞われる。その時にジイが教えたことがもう一つ。
「こんな天気の時は、『雨降り女』が現れるチ言われたもんよ」
と言い、勇二に知っているかと訊ね、知らないと答えると語ってくれたのである。
「小雨ン中にナ、着物ン裾を端折ってとびっきりの美人が近づいてくるのよ。手に柄杓を持って訊いてくるんじゃと。『お前は何が欲しいか?』チナ。
   そン時、『世が欲しい』チ答えれば正解よ。『お前が欲しい』チ、スケベ心で答えようものなら間もなく病になって死んでしまうんじゃチ。美人に惑わされるなチュウ戒めじゃ。譲も解ったか? そうか、もう、ヌーには関係なかったノ」。
   ワハハ、とその時譲兄ぃは豪快に笑って見せたのだった。
 その後、皮剥ぎに混じって勇二と譲は鯛を、ジイがブリを釣り上げる。ジイはすぐに活け締めにすると、千美子が実家に戻る正月に持たせてやれ、と譲兄ぃに渡したのだった。
  千美子姉がサト帰りする際のお土産だろうかと思った勇二だったが、それだけで無かったことは後で知る。嫁がブリ持って帰ることで、「嫁ブリがいい」という婚家から実家に褒めて報せる縁起物としたということだった。           
 
   三年生でも、担任は持ち上がりの教師だった。「とにかく勉強しろ、それが進路実現の唯一の方法だ」と口を酸っぱくして強調した。
(進路実現?)。勇二にとってそれは雲を掴むような話だった。自分は何をしたいのか、何の仕事に向いているのか、検討もつかなかったのである。
   島人である担任が繰り返し強調したことがもう一つある。「島を捨てる学問をするな」というものだった。「社会的地位を築いた郷土の先輩は幾らもいる。法曹界や教育界やその他多くの分野でだ。だが内地で成功した多くの先輩達は島の発展の為に何をしてくれた? 身につけた学問で成功した後は島を捨ててしまったんじゃないのか? 成功したアカツキには島に何らかの貢献する、お前達にはそんな人材になって欲しいんじゃ」、と。
 担任の言うことは朧気ながら勇二にも理解はできた。大学に進めと猛兄からも言ってきていた。『リュウさんという信頼できる人がいるんじゃがナ、その人に相談したら能力とやる気があるなら進学させろ、手伝う気があるなら金はどうにでもなると言われている』と。
譲からも進学を勧められてはいたが、果たして学問してそれから先どうなっていくのか見当もつかなかったのである。ノンビリ屋だったセイもある、それにも増して情報の無かった時代、そして、大きな海に囲まれた小さな島という地域だったのである。
 迷う勇二に担任は益々混乱させるようなことを言ってきた。進路相談の時である。
「学問チュウのはナ、産業の発展に貢献してこそ意味がある、だから産業界の要請に研究機関は応えるべきだという考えがある。産学協同チ言うんじゃが俺は賛成しかねるな。学問の目的は独立した真理の探究よ、それに尽きる。結果として産業の発展に貢献できればそれはそれでいいんじゃ」。
「ダイナマイトを発明したノーベルはそれが産業用より軍事に使われる事を嘆いた。そして平和利用の為にとノーベル賞基金を創った。今ベトナムで米軍が農業用枯れ葉剤という薬剤を軍事用に使っているのも同じ事よ。水俣病というヤツも同じじゃ、おかしな病気が発生して何十年もの間、研究者達はそれを放りっぱなしにしてきたんじゃ」。
  教師の話を勇二が理解したところではそうなる。だが自分が、大学に行って何を勉強しそれからどうすればいいのかというヒントにはいっこうにならなかったのだった。
   昭和四十一(一九六六)年も春になっていた。

   夏休み中の前期補習が終わった日の昼下がり、勇二は一人海に向かった。一泳ぎするつもりだったのだが馬糞ウニが大量にあるのを見つけ、潜って獲っていたところへ担任がやってきた。自転車に跨ったまま、「ヌーを探してナ、ここだと見当をつけて来たんじゃ」と言う。用件を訊く前に言ってみた「宿カリ喰った事あるか? 先生。獲って来チやろうか」。
   醤油こそ無かったがそのままでも塩味で喰える。昔、譲兄ぃから教えて貰ったのだった。
「何を言うとるン、勇二。俺は海人の先輩ぞ。お前より喰うとるわい」
歯を見せて担任は笑い飛ばした後、上がってこいと指図し、平らな岩場に腰掛けて話し始めたのは進学のことだった。
   鹿児島の国立大学の水産学部に推薦入試制度がある、そこを受けないかというもので、学力に加えて特別活動に陸上の実績を特記すればいけるかも知れん、と担任は勧めた。
「そこは何を勉強するんか?」戸惑ったまま勇二が訊くと
「水産に関する全般的なことを勉強するんチバ。その上で、何を専攻するかは自分で決めるんド」。
  学校では滅多に使わない方言になったのに気付いているのか解らないまま担任は続け「考えてみろ、勇二。島の漁は廃れていく一方よ。島チ言うのはここだけのことを言うちょるのと違うド。どうすればいいチ思う? 近場で新しい漁を開拓するか、養殖か遠洋漁か? 可能性とか将来性を研究工夫する余地が幾らでもあるじゃろが」
   照りつける陽射しの中、額の汗を掌で拭いながら担任は続けた。
「遠洋なら延縄や底引き漁の改良だろ。魚探(魚群探知機)やレーダーの開発、省燃料での航海法や保冷技術の研究、それに養殖ならどの魚が適するのか卵や稚魚をどう育てるか、餌の確保はどうするか、研究のテーマは幾らでもある」。
   まくし立てた後、「考えとけ、休み中には結論を出せよ」と言い「ウニを少し貰おうか」と拾ったビニール袋に詰め込んで去ったのだった。
   後ろ姿の担任を見送りながら勇二は迷っていた。
   譲からは沖縄の琉大を奨められていた。前年の昭和四十(一九六五)年、渡沖した首相佐藤が「沖縄が解決しない限り日本の戦後は終わらない」と述べ、沖縄県民の日本復帰への熱が高まっているとも聞いていた。そして琉球大は今年、米政府布令大から琉球政府管轄に移管されていたのである。
   ―アメリカーの学問じゃなく、内地の学問ができるんド。沖縄に行け、勇二。心配いらん、俺が真也に頼んでやるチバ。
と、譲は言っていた。真也というのは譲兄ぃの親友で貿易関係や卸しの商売をやっている人で、菓子の原料となる小豆などもその人から仕入れているとのことだった。だが、大学については兄ぃがどこまで正しく理解しているかは勇二には解らなかった。
 そんなことを考えながら潜りを繰り返している時、岩礁の上を近づいてくる人影に気付いた。傾きかけた陽を背にしたシルエットは亜希子だった。
  「ここじゃチ思ったが」、と先程の担任と同じ言葉で話しかけてきた。
 「勇二。前期補習が終わって気楽やな。でも明日から追い込みするんやろ?」
   前後の話が繋がっていない気はしたが
「追い込みか? 網は俺の家にあるんじゃが組む相手がおらん。譲兄ぃは忙しそうやし。お前とは組めないだろ」
と言うと亜希子は一瞬キョトンとし、それからいっとき笑い転げた。
 「あほやな、勇二。何を勘違いしてるんド。私が言ってるのは勉強の追い込みチバ。お前、受験生じゃろが」
  率直すぎる嘲笑に居たたまれず、潜った。しかし、浮き上がってからも追い打ちは続いたのだ。
「そうか。お前は推薦狙いだな。成績は上がってきたし、陸上の実績もあるしな。よし、それなら上がってこい、話があるチバ」
  海から上がった勇二に、すぐに切り出した。
「私の目指すコーカン(高等看護学校)には推薦は無いンド。お前はいいよなぁ」。
  じゃが、と担任みたいな口調で亜希子は続けた。推薦には在学時の成績評定が大事だという事、加えて論文試験があるから対策を立てねばならない事など。
「お前は競技もそうやったが、スロースターターじゃ。エンジンのかかりが遅いチバ。今日からお前をスローと呼ぶことにするからな、いいな、スロー勇二」
   一方的に宣告した後去っていく後ろ姿に、怒りの感情も少しは湧いたがすぐに笑いがそれを覆った。譲兄ぃのことを思い出したからだ。兄ぃは千美子姉から『鈍感譲』と呼ばれていたと聞いたことがある。『スロー勇二』も酷いもんだが兄ぃに比べたらマシな方か、と笑いは止まらなかった。
 スロースターターじゃ、との亜希子の嘲笑がギヤチェンジを促した。翌日から勇二は図書室に精勤するようになる。亜希子が教えた、新聞のコラムをまとめて自分の意見を加え小論文にする、それを教師に添削して貰う指導を毎日やることにしたのだ。狙いを国立K大の水産に絞ると、担任も我が国の水産業の実態も調べて頭に叩き込んでおくように、とアドバイスをくれた。勇二は一気に忙しくなった、『受験生』態勢に入ったのである。
   奄美を前面に出せ、勇二。『海人』としての自分を売り込むんじゃ、と担任は面接の心得も指示してくれた。勇二に焦りは無かった。だが、スロースターターのエンジンがヒートもしないうちから水を差して来たのも亜希子だった「―スロー勇二。たまには磯者もいいぞ、と。
 磯釣りに連れて行けという訳で、夏も終わり近くに二人で釣りに出かけた。餌用のゴカイを砂地で掘り集めれば後は釣り竿さえあればいい。撒き餌無しだったが喰いは良く、面白いように釣れて、放り入れた水溜まりの中でそいつらは音を立てて撥ねていた。それでも殆どがタツクリ(ギンユゴイ)か、シツウ(イスズミ)だった。どちらも余り好まれる魚ではない。小型の真アジを丸くしたようなタツクリは骨が太く、夏のシツウは臭みがあって猫も跨ぐと言われている。それでも、シツウの引きは強くアタリがある度に興奮してはしゃぐ亜希子を手伝って、勇二が上げてやらねばならないのだった。
 食いの弱まる様子も無いまま釣っていると、遠くから近づいてくる人影に気付く。背中に魚籠を背負い、岩礁の切れ目らしい所で釣り糸を垂らしては釣り上げて、近づいて来たのはジイだった。「おお、ジィ。拝みんしょーら(今日は)」、
 同級の亜希子じゃ、と紹介した後、勇二は訊いた「クロか? ジィ」。
頭にタオルを巻いたジイはオオと答えた後、背中のビクを下ろしてみせた。三十を超えるかというくらいの釣果の塊が入っていた。
 「こっちは遊びじゃ。シツウしか喰わん」
 自嘲気味に水溜まりを指してみせた勇二に、ジイはいつもの黄色い歯を見せて言った
「粗末にするんじゃねぇド、勇二。『神ン魚』じゃ」
「神ン魚?」問い返したのは亜希子だ。

「そうじゃ。追い込み網で大量に獲れる事があるこの魚は、神様の贈り物の寄りムンじゃチ、言われとるんじゃよ。沖縄ではノ」「そうか。ジィはイトマンじゃったナ」。
 勇二も譲から聞いていた。沖縄から奄美の島々にやって来て住み着いた漁師達、島に追い込み漁などを伝え残した彼らは「糸満」とか「久高」と敬称されたという話だ。「胸太てもんじゃ」と勇気を讃えた歌まである、と。
「勇二、ヌーの舳先を向ける方角は決まったんか?」。進路のことだと思って答えた「おう」。
「勇二はスローなんド」、横から口を挿んだ亜希子にジイが顔を向ける。
「スロー? チナ?」「ゆっくり、のんびりしとるチバ」。
 まるで妻が夫の非を他人に詰るかのような言い草に、ワッハハハと皺だらけの顔をこれ以上ないくらいに皺くちゃにして大笑いした後、亜希子の方に向いたジイは笑いながら、見チみぃ、と目の前の湾を指で示した「波が立っておらんじゃろ。深いからよ」。
 次に離れた入江を指した「あそこは波が立っちょるじゃろ。浅いからド」。
 それからゆっくりと付け加えた「大きな人間はゆったりとしとるものよ、ナ、勇二。フハハハ」。
 ゆったりねぇ、と不満げに洩らす亜希子からジイは勇二の方に向き直った。
「勇二、鰹船もそうじゃったやろ。群れを見つけたら戦争じゃが、暇な時はノンビリしていたものよ。ずっと精魂詰めることは出来はせんからの。アゲ、そうか。ヌーを一本釣りに誘ったことは無かったんじやったノ、譲じゃ無かったワ。ワンも忘れが酷くなったチバ」 
 それからジイは煙草に火をつけて一服した後「忘れ草のせいか」と一人ごちるように漏らし、勇二に向き直って「忘れ草の話を知っちょるか?」と訊いてきた。
 知らん、と答えた勇二に「そのうちいつか話してやるワ、俺ん家にも遊びに来い」と言った後で真顔を作り、付け加えた「ヌーが舳先を向ける先はもう一つありそうじゃノ」。
 小さく挙げた節くれ立った指が亜希子を指している。ジイの目は笑っていた。そして笑い声を残しながら去って行ったのだった。
 ジイの最後の言葉と指の向いた方向に亜希子が気付いた様子はなかった。
 だが。釣りに連れて行け、と思いついたように時々せがんだ。勇二が譲に相談すると
 ―しつこい女に絡まれてるのか? 勇二、ヌーもモテて大変じゃのう。
 そう言って一笑したのだったが、オキボーに送って行ってくれることになった。
 オキボーとは、湾の入江その先の方に造られた防波堤防のことである。
 九月も半ばの日曜。
「俺は送り迎えするだけじゃ、彼岸菓子が忙しいからナ」と、ジイの船でオキボーまで二人を渡してくれた譲が操船しながら二人を交互に見て言った。
「俺が千美子と初めてこの船に乗った時のことよ。ジィに言われたんじゃ『夫婦の約束した女でないと女は乗せられん』チナ。お前達ゃ出来ちょるんか?」

 問いただす風でもなく笑顔で譲は訊いたのだが、真っ赤になった亜希子を横目にしながら勇二も大げさに手を横に振って打ち消している。何故真っ赤になるほど亜希子が頬を染めたのか勇二には解せなかった。しばらくして気付いた、亜希子は男と女の関係のことを想像したのかと。途端、喉の奥の方がヒリッと痛み勇二は大きく唾を飲み込んでいる。
 譲の勧めはムロアジだった。堤防は二人の貸し切り状態になったまま、アジや小型のウマヅラ(ウマヅラカワハギ)が退屈させない程度に食らいついてきた。とは言え、アジは回遊するのでしばらくアタリの止まる時がある。その時になって勇二は大変な事を忘れていたのに気付く。小用である。自分は堤防の反対の端っこから飛ばせばいい、しかし亜希子はどうする? 答は見つからず黙っていることにした。
 端っこで小便を飛ばした後、勇二は気付いた。堤防から先に繋がるように積んであるテトラポット、その端っこが僅かに濡れていた。波の上がる高さではない、亜希子が飛び移って用を済ませたものと見られる跡だった。堤防から一段低くなっているそこなら気付かれることはないと考えたものらしい。
 黙っておれば良かった。だが、はしゃぐ亜希子につい言ってしまったのだ。
アジを釣り上げて亜希子が「またあげた。ワンはお前より上手じゃが」と自慢気に言ったのに、口にしてしまったのだ「ヌーの小便を飲んだばかりの魚じゃ。さぞ旨ぇじゃろ」。
 亜希子の顔を見て言った訳でもなく自分の竿先から目を離さずに言った、だから亜希子がどんな顔をしたかは解らない。勇二が知らされたのはすぐのことだ。
 突然、後ろから頭を殴られた。痛くは無かったのだが、ベチャッとした大きな音に振り向いた。自分のすぐ後ろに立っていた亜希子が片手に先程のアジを持っていた。アジを片手に下げた勇ましい女は白い歯を見せて威勢良く言った
「首折れアジの出来上がり。勇二、お前の頭は固くて丁度いいわ」。
              
 島の唯一の商店街、雑貨店に衣料品店や食品店などが狭い道路の両側に立ち並ぶ場所から路地に入った裏側に譲の菓子屋はあった。良い場所とは言えなかったが順調に業績を上げていたようである。

 三輪で貨物輸送をしている姿より菓子作りに立っている譲の姿を見る方が多くなった。島内にある数軒の菓子屋の中でも譲の店の評判は良く、勇二の耳にもしきりに届くようになっていた。安い上に作りも丁寧というものだった。譲は多くを語らなかったが、米粉や小麦粉などの材料を沖縄の真也という友人から安い値で仕入れているということだった。人口は少なく観光客が訪れることも少ない島であるが祭りは多い。そして先祖供養を大事にする習慣も強い。その時期に需要の多い型菓子にも譲は工夫して、今でいうラップ包装、その頃どこもやっていなかった方法を取り入れたのだった。それも沖縄から取り寄せたのだと言っていた。
 順調すぎる発展をみせていた譲の店が突然の大惨事に見舞われたのは、島人が新北風と呼んでいる北風の吹き始めた夜だった。
論文対策の勉強に取り組んでいた勇二の耳に危急を報せる半鐘の音が微かに届いた。続いてけたたましいサイレンの音、そして有線放送が第一報を報じた。商店街の○○商店付近から火災が発生した、というものだった。すぐに外に飛び出して空を見上げると月明かりの下を流れる雲は早く、北風が木々の枝葉に殴りつけるような強い音を叩き付けていた。
 勇二は自転車に飛び乗ると、下り道を殆どブレーキをかけることなく猛スピードで降りて行った。四キロほどの道を駆け下りながら考えていたのは、譲が飲み過ぎから寝込んでいるのではという心配だった。五分もかけずに譲の店に飛び込んで二人が三輪の横にいるのを見る。菓子の製造器を車に積んで避難しようとの考えらしかったが、まだ荷は積んでいなかった。勇二は駈け寄るなり怒鳴った

「どれを積むんじゃ? 譲兄ぃ」。
「おお、勇二、来てくれたんか! 頼むド」叫んだ後の譲の指示は素早く、男二人で新しい器具から積み込んでいった。
「旧い道具はいらん、後は粉じゃ」
 譲の指図で粉袋を積めるだけ積んで車が出た時、火は二軒隣まで接近していた。
 譲の店をも呑み込み、商店街の半分近くを焼き尽くして猛火が消し止められたのは夜中過ぎた頃。疲労困憊した身体に鞭打ち、汗と煤にまみれた顔を拭き拭き夜道を自転車を押して戻り始めた勇二に声をかけた者がいる。商店街の道を抜け山道にかかるところだった。

 「勇二か?」。震えを帯びた、か細い声にオゥと答えるといきなりそいつは抱きついてきた。心配したンド、と。亜希子だった。
 肩も震えていたように思えたのは泣くのを堪えていたのかも知れない。
「家は焼けたが二人とも大丈夫じゃった、心配いらん」
 そう言うと、「ヌー(お前)のことじゃが」と胸に顔を埋めたままの娘が言った。
 安堵感が一気にこみ上げてきた。フー、勇二は自分もへたり込みたいのを堪え、大きく息を吐き出している。

 火事の翌日。早退して手伝いに行こうとした勇二の後を亜希子も付いて来た。
「助かったド、勇二」と譲が両手を握りしめてきた。島中の人が集まっているのではないかと思えるくらい、被災した家々の敷地内は人々の群れであふれていた。譲の家にも集落の人々や譲の友達、それに譲が昔乗ったことがあるという漁船の船員達の姿があった。譲の母親と親族そしてジイの姿を勇二が見つけた時、肩を後ろから叩いた者がいる。入部歓迎式の後に勇二を浜に呼び出した上級生の一人だと気付いて辺りを見回すと、その中の何人かがいた。叩いた男が言った。
「火事は全国ニュースになったらしいド。ミノルから加勢に行けチ連絡があったチバ」。
 挨拶を返した勇二に隣の男が言った「昨日は活躍したチナ。ミノルも喜こんじょった」。
ミノルと言うのはあの番長格の男の名だった。皆が帰った後、ジイも同じように勇二を褒めてくれた。勇二が手伝いに駆けつけたことは皆に知れ渡っているようだった。
「心配じゃったから」と誰にともなく短く言った勇二に近寄ってきた譲が言った
「ワンが酔いつぶれて寝込んでいるチ思うチョッタんじゃろ、勇二は。最近は深酒をせんようになったンよ」
「私のおかげよ」横で千美子が言うのを聞いて、例の雀の卵のことを言っているのかと一瞬思った。だが、雀の卵のことは知る筈もないジイはニヤリと笑って言った「毎晩、マジメに子作りに励んじょるちゅう訳か」。
 そしてすぐに高らかな笑い声を上げたのだ
「おお、綺麗な紅花(ハイビスカス)が四つ咲きよった」。
 思わず見回した勇二の目に両頬を朱に染めた千美子と、自分の後ろでそれ以上に真っ赤に頬を染めて突っ立っている亜希子の姿が飛び込んできた。

 災難じゃったなぁと見舞いに来た人々の慰めに、要らん物が処分できて清々したわ、と譲は誰にも答えていたらしい。本当の気持ちだったのか強がりだったのか、或いは火元になる人の負担を和らげようとしてそう言ったのかは解らない。それにしても譲の避難道具の選別は見事だったと勇二は思わされる。その証拠に十日も経たずして、元の場所に大きなテント小屋を建てて菓子製造を再開したのだったから。営業用以外にも譲は菓子や団子を毎日作っては、同じ被災者の家に届けて廻っていたらしい。若いのに良くできた人よ、との評判が勇二には自分のことのように嬉しく誇らしくも思えたのだった。
 自分も頑張らねばと励まされた気持になって、勇二は大学推薦入試の日を迎えている。
 論文課題は『現在の我が国の漁業生産量は表一の通りである。表二は魚介類の食料自給率が百パーセントを超えている現況を示している。この状況に対しての展望を述べよ』と言うもの。勇二は結論から書いていった。
『百パーセントの自給率は続かないと考える。理由は所得の向上に伴い魚の嗜好も変わる、大衆魚から高級魚というものへ。加えて遠洋漁法は燃料のコストとの関係があるからである。それ故いずれ輸入物も増えていくと考える』というような内容を書いた。
 間違った内容とは思わなかった。だが、原稿用紙の最後までを埋めることは出来なかった。そこに不安を残したまま面接試験に臨んだ。三人の面接官から聞かれたのは論文の要約、高校生活のこと、志望動機など。それに加えて
 ―あなたは奄美の人ですね。知っている漁法を答えてみて下さい。
という質問が出され、勇二は答えた。
 一本釣り、挽き縄、追い込み漁、そして毒流しと答えてから、しまったと思った。毒流しは本土では禁止されている漁かも知れないと考えたからだ。
「どんな方法でそれはやるのですか?」、面接官はそこに興味を示してきた。
「イジュの木などを摺り下ろして、磯の溜まりに流すんです」
「その漁でしたら、小魚から不要な魚まで全部殺すことになりませんか?」
「いえ、仮死状態に一時はなりますが、時が経てば皆蘇生します」
 そして、不要の魚はない、大漁の時は隣の家に回したりしてみんな喰うし、貝類も小さなものは獲らないしきたりになっている、と答えた。
「小さなものとはどれくらいです?」との質問に、これくらい、と手を拡げて答えて面接は終わっていた。
 論文は最後の行まで埋められず、逆に面接は喋りすぎた気がして、半分ほどの自信しか無かった勇二に結果が届いたのはおよそ一週間後。授業中の窓の外にやって来た担任が勇二と目を合わすと片手を揚げ、指で丸印を作って合格のサインを送ってくれたのだった。直後、振り向くと亜希子が自分の方を向き、音の立たない拍手の格好をしてくれていた。
 亜希子が声をかけてきたのは昼飯後。
「やったナ、勇二」と掃除に向かう勇二を呼び止め、誰も見ていないのを確かめて握手をしてから続けた「これでお前のツキを貰ったわ」。
 輝く歯に魅せられたように、勇二は言ってしまった
「トップでゴールしたようなもんじゃろ。ホウビ呉れると違うンか?」
「勝手に決めるナ。約束しとらんが」
以前にも聞いたような言葉に勇二は返した。
「よしそれじゃーー。今度はお前の番じゃがーー」「なに?」
「ヌーがコーカンに合格したらワンがホウビやるチバ」
「なんじゃ?」「俺の一番大事なモノ、やる」
 ん? 小鳥がするように一瞬首を小さく傾げた後、亜希子の形のいい唇から思いきり良い返事が飛び出してきた「いらん」。
 なんでじゃ、と言う勇二に答えもせず、すぐに背を向けて歩きだしている。呆然と見送っていると、十歩ほど歩いたところで足を止め、振り返った。
「勇二はスケベじゃ。ジィのが移ってしもうたわ」言うなり亜希子は駆けだしている。
 放課後、勇二は合格を報せに譲の家に向かった。譲は喜び、千美子に報せに中に入って行った。出てきた千美子がお祝いの言葉を伝えた後、譲が取り出して見せたのは店の設計図だった。
「ヌーと同じくワンも新しい出発じゃ。店を造る。場所は表通りで、今までの倍の敷地よ」。
 譲は意気込んで語った「火事を機に店を畳む人が土地を譲ると言ってくれてノ、それも格安の値でよ。それで新規スタートをする事にした」、と。
 程なくしてその場所、周りには焼け跡が残っていたり更地になったりしている一角に、先駆けるようにして譲の店舗の新築工事が始まったのだった。
 年が明けた昭和四十二年、沖縄から運び込まれたという資材で着々と新規店は作り上げられていった。通りすがりの人達は建築様子を見ながら語っていたそうである、立派な店じゃが資金はどうしたんじゃろと。
 勇二の耳に三つの噂が聞こえてきた。一つは譲の菓子は売れていたから儲けを蓄えていたというもの。二つめは、その頃では耳新しい保険に譲が入っていてその金が下りたというもの。三つめは銀行が信用貸ししたというもので、譲の腕と火災の後に譲がやった差し入れつまり善行、人柄を銀行が高く評価したというものだった。だが本当のところは解らなかった。
 二月に入り三年生は卒業式までが宅習期間となった間、勇二はしばしば譲の店を見に行った。完成間近の店には菓子製造用の新しい機材も入っており専用の冷蔵庫まで備えつけてあった。「高いものなんじゃろ? これ」と勇二は噂を確かめてみようとした。金の出所を訊いてみたかったのである。三つの噂を話すと譲は笑いながら教えてくれた。
 「一と二はハズレよ。三つめは少し正解じゃが、銀行がそんなに融通してくれた訳じゃない。何しろワンは未だ二十歳だしナ。金を貸してくれたのは真也よ、早く沖縄にも菓子を送れるようになれチナ。まだ先の事じゃと答えたんじゃ」
 譲はそう教えてくれたのだが、その時にも新商品の研究試作を続けているようだった。
 
 卒業式の夜。
「先生は遅かねぇ、勇二。今から来られるンじゃろうか?」、片づけをしながら母が言った。
 卒業の祝いに来てくれた殆どの客が帰り、多くの祝い菓子を持って来てくれた譲夫婦も去り、ジイだけが残って十二時近くになろうとしていた。
 外に出て勇二は村への一本道を上ってくる灯りを見る。街灯のない闇の中をゆっくりと近づいて来た人影は二つ。担任の教師と、先生を支えるように付いてきた亜希子だった。
「おお、勇二か、着いたガァ、お前の家を最後チ、決めとったんガァ。さぁ、祝いじゃ」
 すっかり酔っぱらった口調で担任が言った。生徒達の家に招かれて祝いの席を幾つか廻っていたようだ。(送ってきたところをみるとワンの前が亜希子だったのか)。そんな事を考えている間に担任はヨタヨタと中に入っていき、二人だけ取り残された形になった。
「スマン、送っチ貰うて」
「あらん。ここが最後チ先生言うとったから、勇二、ヌーが責任持って送るんド」
「解った。じゃが、ヌーはどうなっちょるん?」
 亜希子がまだ高看に合格していないと誰からともなく聞いていた。
「三つ、落ちた」「そうか、難しいんじゃな、コーカンは」
「じゃがーー」「うん?」「今日、合格が届いたチバ」
 最後の明るい言葉に勇二の声も弾んだ「おぉ、やったか! ヌーは感心じゃ」
「勇二に次ぐ快挙じゃチ、先生も喜んでくれたわ。決まるのはワンが一番最後じやったし」
「なんですぐにワンに報せんがった?」
「報せを聞いたのは夕方じゃったし、後でするつもりだった卒業祝いを急に今日する事になって忙しかったし、先生は私の家からお前の家に廻るだろうと思っていたしーーー」
 長い弁明を断ち切らせるかのように勇二は亜希子を抱き寄せた。暗がりの中、ア、という小さな悲鳴をあげて亜希子は抗うことなしに身体を凭れかけてきた。譲に勧められた酒の勢いがあったのかも知れない。しかし、ホウビに名を借りた欲望の露出ではなかった、自分を先導してくれた名コーチに対して感謝を込めた戴冠の儀式のような気がした。
 鼻先が当たり、甘い吐息を嗅いだと思ったその瞬間、声が届いた。「勇二ぃ、早く来て、酌しろォ!」。
 担任の声に二人は突然電極が反発しあったように身体を離した。
「おやすみ」擦れた声でそれだけ言うと、亜希子は坂を駆けるように下りていった。懐中電灯の灯りを見送りながら、亜希子がどこに合格したのかを訊かなかったことを思い出した。県外だとすれば離ればなれになる。今頃それに気付く自分は亜希子が言うとおり全くスローだなと改めて思い知らされながら、勇二が家に入ると担任が言った
「勇二、ヌー、亜希子を送って行ったんじゃねえンか」。
(酌をしろ、と喚んだのは先生じゃないか)と思いながらもコップ酒の準備を始めた。
「亜希子はどこに合格したんナ、先生」
「おお、宮崎の国立高看よ。国立二人は快挙じゃガァ」
 カイキョじゃカイキョ、と叫ぶ担任の声がなぜか、県外じゃケンガイと言っているようで腹立たしい。怒りの矛先をどこに向けようも無く、勇二は担任のコップに濃い過ぎるくらいに割った黒糖酒をなみなみと注ぐしかなかったのだった。

 ―手紙を書くから勇二も必ず返事を出せよ。
 そう言って旅立った亜希子に、勇二が教えた住所は内諾を貰ったばかりの学生寮だった。
 授業料は半年で六千円、内定していた育英奨学金は月に八千円。土日に何らかの日雇いバイトをすれば親に負担はかけない、そんな計算を立てていた。しかし、鹿児島で日当相場八百円と聞くアルバイトが都合良く見つかるだろうか、それが若干の不安だった。
 不安は亜希子を見送った二日後に解消されることになる。一人の小柄な男が訪ねてきた。
 背広姿の五十歳ほどの紳士は名刺を母親に渡した後、勇二に語りかけてきた。
「K大に入学するそうじゃが、住まいは決まっているかね?」
「学生寮に入ろうと思っています」。
 答えた勇二に標準語の中に島口を交えながら紳士が語ったのは次のような話だった。
 鹿児島市内には幾つか大島紬の織物工場がある。中でA町は工場に勤める島出身者が多いことで知られている。自分の工場もその中の一つだが、宿直兼警備員が今度辞める手筈になっている。それをやって貰えないか、住み込みで夜十時と朝六時頃の二回に工場内を巡視するのが主な仕事で、月二万ほど出せると思う、と紳士は言った。大学とは離れているが電車もバスもあるからとも付け加えた。
 願ってもない話にお茶を運んできた母親が訊いた「専務さん、どうして勇二にナ?」。
「猛君から聞いた、と社長が言ってましたよ」
「猛、ですか?」。身を乗り出した二人の前で、専務はお茶を口にしそれから菓子をゆっくりと頬張り、再びお茶を飲み込んで言った。
「島のお茶は今一つですナ、どうしても水がね。でもこの菓子は旨かった。若夫婦が新しく開いた店の評判がいいチ聞いたが、そこン菓子ですか」
 二人は同時に肯いている。旧くなったものじゃが、と千美子が時々置いていく菓子である。内地の人が褒めるくらい旨いのかと勇二は改めて知らされる思いだった。
「猛君に今働いて貰っているパチンコ店、そこは社長が東京進出の一つとして傘下においたものなんです。兄を社長というのもナンですが、社長が上京した折り猛君が話したらしい」、別の菓子に手を延ばしながら専務は続けた。
 自分の弟が地元の国立大に学校推薦で合格したこと、弟は足が速く九州大会で二位だったこと、大火の時に駆けつけて活躍したことなど、自慢気に話した猛の話を社長が気にいって、ウチで警備員の後釜にしようじゃないかと乗り気になった等と話した後、二、三日以内に返事を貰いたいのですが、専務はそう言い残して去って行った。
 勇二の腹は決まっていた、寮を断れるかどうかという事だけが心配だった。譲の家で電話を借りてその事を確かめると、かまわないとの返事にその場で断りを入れた、それから名刺にあった番号に電話を入れ、専務には繋がらなかったが受諾の伝言を頼んだのだった。  
亜希子から電話が来たのはその翌日だった。譲の店にである。
 十円玉が切れるまでじゃ、と前置きした亜希子は早口で語り始めた。看護師資格取得の勉強は大変だということ、寮は女ばかりで整然としているが規則や時間厳守が厳しいことなど。勇二が紬工場に住むことになったというと住所を控え、「もうすぐ十円が切れるチバ」と言った亜希子が最後に発した言葉は「勇二、ヌー、ダンパに行くなよ」だった。「ダンパって何じゃ?」と聴き返したところで電話の切れた音が届いてきた。
 電話をかけ直してみた。だが話し中が続くばかりで繋がることはなかった。

       
 二
   荷物を両手に提げ、勇二は鹿児島港に降り立つ。初めての船の長旅だった。
狭い船室は自分と同じく「大和旅」に出る人達で満ち溢れていた。なぜか過剰なほどの洗面器が積み重ねられているのを見てサービスがいいもんだと最初は思ったが、ひしゃげかかったそいつは乗客の吐瀉物入れに使われるのだと知り、驚きおかしくもあった。船旅に弱い人にとっての長旅は随分ときついことだろうと同情を覚えた程だ。
   電停まで遠いと聞いていたのでタクシーを拾うと、車が走り出してすぐに『青果市場』の看板を見る。十年ほど前、抱えきれないくらいの島バナナの房を持って兄猛がここで換金したのだろうと思い至ったら思わず笑みが溢れ、倉庫らしき所が車窓から消えるまで見つめ続けていたのだった。
 「揺れんかったかネ。歳をとると船旅はアンマシイ(きつい)んで、俺も長いこと島に戻っちょらんのじゃが」。
   工場は休みで、そう言いながら前任の老人が一人、勇二を迎えてくれた。最初に案内されたのは三十畳ほどの畳の広間で休憩室だという。テレビと冷蔵庫がそれぞれ対になったように前方の左右の隅に置かれ、後方には折りたたみのテーブルが積み重ねてあり、その片方には焼酎とビールのケースが小山をなしていた。前方の右手奥が給湯室になっており、左側奥の三畳の小部屋、そこが宿直室だと前任者は説明した。
   小さな置き机の上には黒電話一台と警備日誌と書かれたノートが一冊。寝具はここにあると教えた後、再び大広間に戻り、老人はそこで湯を沸かしながらガスの扱いを説明し、茶を飲みながら注意事項をつけ加えた。
   ―冷蔵庫には私物を入れない。が、まぁ、場所を取らない小さな物ならいい。ガスは自由。警備員だから酒を飲んではいけないことになっているがあそこの焼酎は呑んでもバレん、でもビールは駄目じゃ。宿直室の横がトイレで奥にシャワー室がある。そこのシャワーと洗濯機は自由。私用電話は駄目じゃから。
   そんなことを説明した後、工場警備の巡回コースを連れて回り、戻ると奥から古びた電気釜とフライパンを持ってきた。「若いアンタに置き土産もないのじゃが」と、その二つを置き残して引き継ぎが終わったのだった。老人が去った後、電気釜の蓋を開けるとビニールに包まれた三合ほどの米が入っていた。
 船旅の疲れからかそのまま寝入ってしまい、目覚めた時は夕方になっていた。近辺の様子を知ろうと外に出ると、狭い道が交錯しあっていて車は時々見かけるほどだった。食堂を見つけたが閉まっていた。小さな雑貨店で卵を二個買い、漬け物を捜すと『山川漬け』というのが目に入る。山川という地名は島唄の何かで聞き憶えがあった気がした。安かったその漬け物を買い、貰った米を炊き、卵かけ飯と漬け物で夕飯として鹿児島生活の初日が始まったのだった。
 翌日。電車に乗って勇二は大学周辺の下見に出る。『定食百円』の看板を連ねた食堂群、その中の一軒で唐揚げ定食を昼飯にすますと再び電車で天文館に向かった。そこは文字通りの繁華街だった。島には一つも無かった信号機の数に圧倒される。裏道に入って数軒の古本屋と質屋を見つけたが中には入らず、帰りの電車に乗った。
 工場の正門玄関横を通り宿直室に入ると、待っていたかのように電話が鳴った。事務室からで、出て来て下さいと若い女の声が言った。背広も持たなかったのでそのまま出て行き事務室に行くと、デップリとした課長という人物が応接テーブルで待っていた。テーブルの上にはいつの間に持ってこられたのか前任者の警備日誌ノートと、黒表紙で閉じられた厚い冊子があった。課長は標準語で黒表紙の冊子を開いて説明を始めた。
   ―これが警備日誌です。こちらのノートは前のトヨタさんのメモ帳だからネ、私物。
   で、こちらの警備日誌を毎朝事務室に提出して下さい、印鑑を押してね。これは出勤記録にもなります。この備考欄には電話などがあった際の記録を書いて下さい。用件と相手方名前と電話番号を正確にネ、あまり電話が来ることはないと思いますが。それから緊急時の連絡先は表紙の裏に、私と専務の電話が書いてあります。給料日は月末です。
  一通りの説明が終わった後「工場見ますか?」と問われて、はいと答えると若い女事務員が一階の機織り室に案内してくれた。五十名ほどの織り子さん、と言っても年配から若い娘までが一心にオサを動かしていた。窓から覗く勇二に目をくれる者はいない。しかし、流れ出てくる空気は島のそれと似ている、そんな気がしたのだった。
   入学式そしてオリエンテーションが済み、大学の授業が始まると戸惑いの連続となり、それは次第に失望に近いものとなっていった。水産学の授業が一つも無かったのである。オリエンテーションでそれは専門課程に入ってからになる、と聞いたが一年半後になるのだ。そしてそれまでの教養科目というのは初めて目にする科目ばかりだった。美学、倫理学、法学、宗教学、哲学、心理学、経済学などの殆どが、末尾に「原論」とか「概論」「総論」とかがついているのだった。一体これらの科目で何を勉強するのか教科書を開いてもさっぱり解らない。「数学基礎論」というのを開いてみたが、勉強法も解らなければ興味を持てそうにもなかった。他の教科も同じで自分で予習をやれそうなのは語学の英語とドイツ語くらいだと思えた。講義というのにしても、階段状になっている大講堂で教師のマイク授業をノートしていく、そんな授業ばっかりだったのである。
   昼、学生達は大抵が学食に行き、講義室に残って握り飯を食う勇二と行動をともにするような生徒はいそうにもなかった。誰一人として知人のいない大学で自分はやっていけるのだろうかと不安にもなっていたが、勿論相談相手もいなかったのである。
 否、鼓舞してくれた者はいた、二人だけ。
   大学から戻って事務室で警備日誌を受け取った際、届きものですと渡されたのは手紙一通と小さな箱の小包だった。譲からの箱を先に開けると中には新品の腕時計が入っており、
    踊るような譲の文字のメモがあった。『遅くなったが入学祝いじゃ。勉強頑張れ、困った時は相談せよ』。  
   輝く文字盤のガラスが目を刺して来た時胸に詰まるものがあったが、電話はせずに葉書で礼状は出す事に決める。
   手紙は亜希子からだった。自分の近況を述べた後に、そちらはどうですか? 落ち着いたら手紙書いてね。勉強頑張れ、ダンパはダメよ。と結ばれた後、追伸の下に電話番号が書いてあり、赤電話だから通じたらキセキかも、と添えてあった。
    満員電車の中で孤独感を味わいながら通学していた勇二に、ある日嬉しい出来事があった。授業中のことである。座席は早く着いた者から勝手に後ろに座っていくのだが、いつも仕方なく前方に座っていた勇二が当てられたのである。授業で高校みたいに当てられることが無いというのも不満だったのだが、ドイツ語の授業で和訳を当てられたのだった。前のキミ、と講師が自分を指差したのである。予習はしていた。習い始めたばかりのドイツ語に自信はなかったが大声で和訳文を答えた。
   「グーツ(よろしい。独語)。キミはいつも前の席で真面目に取り組んでいる。グーツ。蛇足ですがーー。標準語がキレイですナ」
と褒めてくれたのだった。全科目の中で唯一、ドイツ語が好きになる。
    掲示板で午後から休講の確認をした日、勇二はいつもの握り飯で昼飯をすませ、帰宅の電車に乗った。乗り継ぎの電停で降りるとパチンコ店の看板が目に入った。他にすることはない、五百円くらいなら負けてもいいと覚悟を決めて店に入った。
    釘師の猛が打ち方を教えてくれたことがあった、成人式で帰省した折のこと。中学に入ったばかりの自分に教えたのだった。勿論机上でというより地面に書いたのだ、釘の見方とやらを。天釘が上を向いていること、そこの左二本目か三本目で球の勢いを殺す。ほかにチューリツプのすぐ上の釘の開き具合の見方など、教えてくれたことが蘇ってきた。台を三つ替わったところで当たった。四百円の投資で三時間近く粘り、三千五百円を手に入れる。寿司店に入って〈握り寿司〉というものを生まれて初めて喰い、正直旨いと思った。旨いと思わなかった芋焼酎はコップ二杯で酔った。

   その店で二百円を十円玉に換金して貰い、赤電話を見つけて亜希子の番号にかけた。寮生の誰かが受話器を取るまでおよそ三十秒、そして呼び出しに行ってくれたらしい間、十円玉がさっきのパチンコ玉より素早く落ちていく思いがしていた。亜希子が出るまでに一分近くがかかり残った十円玉は数える程になっていた。そしてスリッパで駆けつける音がして弾むような亜希子の声が届いてきた。
「勇二か?」「そうじゃ」「元気か?」「おお、今、握り寿司を喰ったところじゃ」
「ニギリスシ?」「おお、旨かったチバ。今度お前にも喰わす」
「そうか、忘れるなよ、鹿児島デートじゃな。勇二、今一人か?」「そうよ」
「ダンパなんかに行かんでしっかり勉強せいよ」「え?」       
それで終わりだった。訳の解らない言葉、ダンパを最後に電話は切れたのだった。
部屋に戻って国語辞典でダンパを引いてみた、載っていなかった。
 しばらくして。ダンパの意味が解ったのは大学の校内だった。サークル勧誘の立て看板の中に『ダンスパーティ開催』の看板を見たのである。サークルが主催する似たようなダンスパーティ開催の案内は幾つもあった、今まで気付かないでいたのだ。あらためてそれらの看板に目を向けると、どれもが工夫を凝らして新入部員勧誘をうたっていた。一気に興味がわいた。何かの部活動をしてみたいと思うようになり、壁のポスターまでも興味を持って見るようになった。

   中で強く関心を持ったのが二つ。グライダー部と山岳部だった。島の海で深く潜っていたせいだろうか、逆に今は、より高いところに上がってみたいと思う自分が不思議だった。

 

   旧い校舎の一角にあるグライダー部室は三度訊ねたが、閉まっていた。
  山岳部は部室を見つけることがなかなかできなかった。農学部の中にあると聞いて捜すと、畑の中に壊れそうなバラック小屋があった。周りが畑で無くて海だったなら、それは島の浜辺のどこにでもありそうな掘っ立て小屋だった。開いた扉の薄暗い入り口の奥に丸められたロープが何本か下げられており、漂ってくる匂いこそ異なっていたが漁師宿みたいな懐かしい思いにとらわれた。部屋を覗き込もうとしているとブレーキ音がして、自転車で来た男に声をかけられる「何の用かね?」。
「部の見学です」勇二が言うと、「山はやった事あるかね?」男が訊いた。
「経験無しです。山が無かったし、自分は海人だったから」と答えると
「ウミンチュ?」男が細い目を見開いて訊き返してきた。
勇二の説明に男は笑った後、学部は水産か?と訊いた。そうですと言うと
「変わったヤツやのう。まぁ、ウチは変人ばかりじゃけどノ」。
  そう言った後、部活動について説明してくれた。聞いてるうちに勇二は大きな見当違いをしていたことに気付かされる。土日か連休の登山だと思っていたのだが遥かに予想を上回っていた。夏冬春と年三度、日本アルプスに二週間程の遠征合宿をするという。驚いて、そんな長期の休みは仕事上取れそうもない、個人装備費も要るようだし、とても入部は無理だと思い、そう答えようとしているところにのっそりした男が来て勇二に言った。
「警備はその間、代わりをみつければいいじゃないか。バイト生を見つければ学生でいいんだろ? 遠征費は個人負担だが、装備は部ののを使えばええんや」。  
「代わりの人間でいいのかどうか、会社に訊いてから入部の件は返事します」。
   勇二はのっそり男にそう答えて帰ったのだった。

 

   だが会社が警備代替を認めてくれるとは思えず、訊きづらかった。給料日の月末になってようやく課長に相談してみた。
「前任者は日曜休みだったんだが、キミにはこちらの好意で日曜警備も入れたんだよ。まぁ休み無しもどうかとは思っていたんだがネ、ウーン。長期代替ねぇ、想定外だったなぁ。私の一存では何とも言えないからウエに訊いてみることにしよう。あまり期待はしないでおくように」。

  くわえ煙草を噛むようにして答えた後、課長は付け加えた。
「次の連休初日に花見を兼ねた会社の歓迎会がある。キミも参加しなさい。もし雨天の時は広間でやるので、少し片づけておいてくれないか。本務じゃなくて申し訳ないので、タイガイでいいからナ」。
  花見の日。社員だけでなく家族らしい人々も多く集まっていたその日は晴天だった。桜の木に囲まれた公園で、新入社員と並んで勇二は紹介される。
   大きなシートの上に幾つもの輪が拡がり、仕出しや持ち込みの料理が並べられて宴会が始まった。社長の姿は見えず、勇二は専務のところへ挨拶に行った。焼酎をコップに注ぐと一口呑んで専務は勇二に渡した。返杯を呑んでいる勇二に専務が言った
「学校は慣れたかネ? 代替の件じゃが、キミが責任持てる人を見つけるなら良しとしよう。報酬についてはキミが自分の裁量ですること。そして必ず事前に代わりとなる人物を課長に引き合わせて置くこと。それが条件じゃが、いいナ」。

  ハイ、勇二が答えると
「よろしい。登山をしたいチ? 変わった島人じゃの。何でも経験する事は大切じゃが、母さんを悲しませるような事は絶対せんようにナ」。
    今日は楽しみなさいと、最後に言った専務に深く礼をして勇二は辞去した。
 課長のところに行くと、話は聞いたかねと言われて、ハイと答えると課長は冷たいビールを注いでくれて、遠慮しないでたくさん食べなさい、そう言った。
   島人が驚いた時に良く使う「ハゲー」や「アゲッ」がとびかう中に、耳慣れない鹿児島弁らしき言葉が大声で混じる賑やかな宴会だった。
「どれくらい島人がいるんですか?」と訊くと「半分、いやもっといるかな。ワンもよう解らんチバ」、課長は勇二にそう答えたのだった。
   席に戻ると多くの人々がやってきて語りかけてきた「どこの村じゃ?」。「勉強、頑張れよ」。「冷蔵庫のワンの物、いつでも食べろ」。みんながそう言って自分の名前と冷蔵庫の品々を言うのだが、名前も品も多すぎて覚えることは不可能だった。
   黒糖酒と芋焼酎のチャンポンは効いた。効き過ぎたと思った頃に蛇皮線が掻き鳴らされ太鼓の音も弾むように『奄美六調節』が始まった。指笛が飛ぶ中、促されて勇二も踊りに加わる。そこまでは憶えている。踊り終えると苦しくなって吐いた。             誰かが背中をさすってくれ水をくれた時、まだ宴の騒ぎは続いているようだった。男は吐いチ強くなるンド。そんな声が聞こえてきた。が苦しい意識の中で、もう二度と飲むものか、そう思っていた。
 
 「ヨオ、来るんじゃないかと待っとったタイ」 

   山岳部の入部届けに行くと細い目の男が一層目を細めて勇二に言った。他の部員はランニングに行ったと言う。
「靴だけは自前でないとナ。長いこと使うケン」言いながら勇二の足を計測してくれた。長さや甲の周りに足首の周りなど丹念に計り、記録すると男は奥の大きな物入れを指して言った「先輩達が置いていったものじゃけん、あの中からキスリング(大ザツク)やサブ(小ザツク)やシェラフ(寝袋)を選びんサイ」。
 どこの言葉かも言っている山岳用語も良く解らなかったが教わるままに選ぶと、持ち帰って洗うように男は指示した。
「明日からのトレーニングに出るように。それから、運動服と靴は自前で持って来いよ」
   最後には先輩風の命令形でそう言ったのだった。
 勇二は毎日放課後、トレーニングに打ち込むようになる。五キロ走、筋力トレ、それにブロック担ぎ。それは一個が十キロほどのブロックを三個か四個担いで五階の校舎階段を十回ほど昇降するボッカトレーニングだった。ザイルで木に下げてあるタイヤを落とし、そいつを止める滑落防止のテクニックの練習も加わるようになり、滑ったザイルで小さな擦過傷を掌に作る時もあった。

   部員十一人の中で新人は五人、中で水産は自分一人だということを知る。新人の中で長距離走以外にボッカでも勇二の体力は勝っていた。いい新人が最後に入ってきたなと先輩達が笑い顔を見せたが勇二にも苦手はあった、天気予報図である。ラジオの気象情報を聴きながら各地の天気を記録していくのだが、放送のスピードに付いていけずに落後してしまうのだ。そんな勇二に「得意不得意は誰にでもあるものよ。だがな、勇二。一通りは完璧にやれねぇと単独行はできんし、命を落とす事になるんゾ」と四年生のタクミ部長は言うのだった。
 部室前には自転車が二台、投げ捨てられたように転がしてあった。どちらもパンクしていたが、直しておけと言われて勇二が修理する。パンク修理とブレーキ締め、チェーンへの油差しなど済ませて乗れるようになると、お前が使っていいぞと部長から許可が出て、勇二は私用で乗り回すようになる。通学には電車より融通が利き、便利になった。最初に会った細目の男、ヨシオ先輩が使っている自転車も部の持ち物だという話だった。
   総勢十一名に顧問が入っての山岳部歓迎会が行われることになった。新たに勇二が入ったし、前回は顧問も都合で来られなかったので二回目の歓迎会だと聞かされた。
   タクミ部長の挨拶は熱のこもったものだった。「我々は生涯、山ヤとして山を愛するものである。じゃっからして大学山岳部はその素地を造る。じゃっからして巷間騒がれるようなシゴキは我が部には無い。我が部のモットーは一心同体である」。
 その後の副部長のフジヒトの話は
  「一本のザイルに命を託し合う訳だから、我々山ヤには何より信頼感加えて責任感が肝要である。先輩後輩が名前で呼び合うのはその証だ。だが当然、ケジメはつけること。部活における政治や信仰の類は厳禁とする」そんな内容だった。
 遅れて顧問が到着し、ヨシオの音頭で乾杯となる。上座に座る五人の新人のところに酒を注ぎに来てくれた先輩達が異口同音に言ったのが「今日だけよ、お客様扱いは」だった。新人の一人が訊いた「明日からは? 先輩」「奴隷よ」。
 その答えには聞こえた新人全員が笑ったが、そんな雰囲気が勇二には好ましく映った。
 勇二はヨシオに訊いてみた「どうして政治信仰が厳禁なんですか?」
 先輩は即座に答えた「そんなんで喧嘩したらザイルは組めんじゃろ」。
 納得した勇二にヨシオが訊いてきた「お前、オンナの好みで喧嘩したら組めるか?」 
「組めると思います」と答えた勇二に、その通りよ、とヨシオはニヤッと笑ってみせたのだった。
 最後に新人がそれぞれ決意表明を述べて歓迎の一次会が終わると、顧問教授がタクシー代を出してくれて二次会は教授の家に移った。「良か晩じゃ、今日は」と車中何度もヨシオが繰り返して街から離れた山手の教授の家に着くと、既に長机にはコップが並べられ、盛り寿司の大皿二つが用意されていた。
 それでも、盛り二つともが空になるのに十分とかからなかった。まぁ、大変! 顔を出した奥さんが挨拶も慌ただしげに勝手へ引っ込んで行くのと同時に、タクミ部長の指示で歌が始まることになった。一人ずつ立ち上がって山の歌を歌うのである。
「恒例じゃ。歌は先生のお好みなんよ」、誰かの声がした。
 部長の指名で一番先に立ち上がったのがヨシオで歌ったのは『山の人気者』。「ユーレリユーレリホー」と歌う伸びた裏声がみんなを魅了する。島唄の上手な唄者が歌う裏声とも違う味わいがした。
「ヨーデル、があいつのあだ名なんよ」と教えてくれた二年部員のカツヨシ先輩が歌ったのは、『山の友によせて』というもの。
  ♪雪割り飯炊き小屋掃除 みんなでみんなで やったっけ 雪解け水が冷たくて 苦労したことあったっけ
「あいつの料理の腕はセミプロ並みなんよ」と勇二の傍に来て教えたヨシオが、次に洩らした言葉は「作戦失敗じゃ」というものだった。タクシーの中と違い、意気消沈しているように見えた。
 『剣の歌』『新人哀歌』『五竜よさらば』と先輩達の歌が続く合間に新人達は教授のところへ挨拶に行く。
「ホゥ、水産ですか。今からの我が国を担うのは水産と農業ですよ」。
 勇二に言った老教授は勇二が奄美の出身だと告げると、オォと膝をすり寄せてきた。
 そして奄美の話を始めたのだった、五回行った印象を。自然、食べた魚、出会った人達、島唄や島口のことなど。よほど印象深いものがあったのかと思えるくらいに続いた教授の話は一人の娘の登場で終わる。背が高く足のスラッと伸びた娘が大きな皿にお握りを山盛りにして持ってきたのだった。
 席に戻り、飯を食い始めた勇二に隣の新人シンゴが囁くように言った、先生の娘だとよ。
 次に漬け物の載った皿を持ってきた娘は魔法瓶にお湯を汲み替え、続いて急須と茶碗を持ってくるなど甲斐甲斐しく手伝っていた。盆に載せた茶碗に茶を注いでいる娘を見るともなしに見ていた勇二の目に、再び老教授が自分を手招きしているらしい様子が映る。行くと教授が言った
「キミ、『島のブルース』を踊れるでしょ。私が歌うから踊りなさいよ」。
 ハイ、勇二の返事を聞くやすぐに教授は娘に部長を呼びに行かせてそれを伝えた。

 一同を鎮め、タクミ部長が「トリは先生の歌で勇二が踊る『島のブルース』だ」
と言うや間を入れずに教授に近づいたのがヨーデルことヨシオだった。
「先生、私も一緒に歌わせて下さい、是非。私、マヒナスターズの裏声で行きますから」
「おう、よろしい」
 教授が先にゆっくりと立ち上がり、つられるように勇二とヨシオも立ち上がっている。
 ♪奄美懐かしゃ 蘇鉄の陰で 泣けば揺れます サネン花よ  
 教授自身の歌はそれほど上手いとは言えなかったが、ヨシオの裏声が合っていて佳いムード歌謡に聞こえるのだった。一番の後の間奏に入って、歌を二番三番と続けそうな雰囲気で二人は肩を組んでいた。
 勇二の踊りが単純な繰り返しだとみたか部長は新人達に命じた。一緒に踊れ、と。
 新人達の踊りが喝采の中に終わったところで二次会がお開きとなったのだった。
 ダンケ(ドイツ語で有難うの略)とヨシオが勇二の手を握りしめて来たのは帰りの車中。
「勇二、お前のお陰じゃ。お前のお陰で俺の出番が出来たド、ダンケ、ダンケ」
 呂律の回らない口調でヨシオは繰り返したのだった。
 翌日。それまでなぜか仏頂面をしていたヨシオが勇二の肩を叩いてきたのは部活が終わってからのこと。「俺の出番を作ってくれたんだってなぁ、お前は」「有難うよ」。
 と、部活前とは打って変わった溢れそうな笑顔で言ってきた「最後に歌ったのを憶えとらんのよ」とも。昨晩、自分のの出番が無かったとの記憶喪失から、ヨシオが不機嫌な顔をしていたのだと、その時勇二は知ったのだった。
 噂が伝わってきた、新人達からのものだった。
 あの綺麗なメッチェン(娘。ドイツ語)は教授の娘でなく姪だというもの、教授が気に入った学生にあの娘をやると広言しているという話、ヨシオ先輩がゾッコンだというもの。
 教授の家で宴会があった時、好きな女のタイプを新人達が言わされた際にヨシオが先生のお嬢さんです、と本人の前で言って娘がイヤな顔をしたという話など、ネタは尽きなかった。その話題をもっとも可笑しく提供してくれたのは同期の新人シンゴだった。同期とはいえ一浪して入学してきていたので一学年先輩にあたるのだが、皆がシンゴと言うので勇二もそう呼ぶようになっていた。  
 「学校近くに住んでいるから遊びに来いよ」と歓迎会の夜、地図を描いてくれたシンゴのアパートはすぐに解った。盗られる物が無いので居ない時も開いているから入って良いよ、と言っていた部屋にシンゴはいた。

 シンゴが出してくれた初めて飲んだ紅茶は紅花(ハイビスカス)みたいな味がした。読書が趣味だと言うだけあり多くの本に驚かされる。本立ては二つに分かれていて一方の本は貸せないがもう一方は貸すという。理由を聞くと貸せない方は読んだ後古本屋に持って行くので綺麗にしておく為だと言う。古本屋というのは買い取りもすると教えられて驚く勇二に、質屋と同じような利用価値があるんヨとその利用法まで教えてくれたその日、山の本を数冊借りて帰った。
 それまでは授業空き間の暇つぶしを汚い部室でしていた勇二だったが、度々シンゴの部屋を訪ねるようになる。たいていシンゴは部屋に居て色んな話をしてくれた。長崎出身だという彼は同じ一年生だというのに大学のことから世間のことまでも通じていて、勇二には興味深い話ばかりだったが最初の頃は本当かと思うようなこともあった。
 大学のことに関してはこうだった。授業のサボり方、出席を取る教科とそうでない教科、単位試験の傾向と対策、試験にノートの持ち込みが出来る教科、再試をしてくれる教科等。
「ボクの経済とキミの水産の共通科目はこれらかな」。そう言って、本棚から過去の講義録を引っ張り出して見せてくれた時は信じられない気がした。
「これがあるから大丈夫だよ、試験の時は一緒に勉強しようぜ」。
 そう言うシンゴが頼もしく思えた。一緒にサボって雑談をし、その雑談を『ダベる』ということも憶え、ダベッた後の放課後シンゴと連れだって部活に行く日が多くなる。
 ―部活の方針だから従うけど、なんで政治と信仰の話がダメで経済ならいいのか、ボクには解らないなぁ。だって経済こそ政治直結なんだからね。と言うシンゴの話は難解だった。
―ボクはキンケイ(近代経済学)じゃなくマルケイ(マルクス経済学)をやりたくて、ここに来たんですよ。専門では、産業資本主義から金融資本主義へのテイコク主義発展段階を勉強したいと思っています。江戸時代、奄美の人民の生活は酷いものだったと聞くでしょ。キミ、知っています? その頃同じく砂糖黍を生産していた讃岐地方の農民達は裕福な暮らしをしていたことを。流通経済がやるのはそういう分野もなんですよ。

「勇二、キミは沖縄をどうするつもりです?」と訊かれた時は、沖縄がまるで勇二のもののように真顔で問うシンゴに、コイツは一体何を言っているんだと唖然としたのだった。
 勇二の表情を見て話しても無駄だと思ったかヨシオの恋話にシンゴは話題を変えた。
「闘争は二つの側面から考える必要性があります。戦略と戦術です。戦略は大局的視点から、戦術は局地・限定的視点から思考する訳ですよ。オンナをものにするのだってそうです。戦略と戦術を使い分けなきゃね。彼にはその区別が出来てないように思えますネ」。
 先輩を彼というシンゴがヨシオと同学年になる、という事実に改めて気付かされている。

 リュウガミズでの登攀訓練、タカクマ渓谷での沢登り、キリシマ連峰でのザックに重しを積んでの縦走訓練、隣県アソ岳でのロック登攀合宿を終えると夏休みが近づいていた。
 勇二、ダンパなら俺が連れて行くぞと胸を叩いたヨシオが約束を果たさないうちに、いつしか学内からダンパ開催の看板は消え去り、自治会執行部の政治アジテーションの看板だけが残っていた。
 アソ合宿から帰った夜、部室に酒が持ち込まれて打ち上げ会が催される。最初の時に部室前で会ったのっそり男マサルは五年部員で、その先輩が八ミリ映写機を持ち込んでいた。そしてその八ミリ映写機で見せてくれたのが外国物のブルーフィルムだった。しわくちゃのシーツに映し出された映像を新人達は食い入るように見入り、その様子を上級部員達が冷やかしたのだが、シンゴだけは新人らしからぬニヤリとした顔を続けていた。    
 上映が終わるとマサル先輩が言った。
「これを見せたのは新人のドウテー諸君へのあの世への土産話のつもりじゃ決してないからな。無事に全員下山してこいという意味だ。生きて戻ればこんなイイ世界をいつか味わえるぞというエールのつもりなんじゃゾ。俺は卒論で行けないが頑張ってくれ」。
 最後にはマサルが激励調でエールの儀式とやらを述べて終ったのだった。
 シンゴが代替警備員のバイトをしてくれる学生を見つけてくれ、課長への紹介も済んで夏遠征を待つだけとなったある日、勇二はヨシオから買い出しに行くぞと指示される。
 自転車を連ねて行った先はパン工場だった。食パンのミミだけを買い、二つの大きな袋に積んで帰る途中にヨシオが誘ってきた「映画に付き合え、勇二。俺がおごるから」。
 部室にパン袋を置き、出かけたのは酒の小売店。ヨシオは一合酒二つと大きなソーセージ二本を買うと店の奥の椅子に座り、そこで酒を開け自慢気な顔つきで言った。
 「こうして呑むのをナ、カクウチと言うのよ。店の馴染みになったら出来るんじゃ」。
 映画館では盗られる心配があるからと店の脇の奥まった所に自転車を置き、歩いて映画館に向かった。ロマンポルノ三本立てと名打った映画館は小さく、館内も綺麗とは言えなかった。加えて、決して綺麗な女とは言えないポルノ女優の白黒場面が、ソノ時だけカラーになる不思議な映画が勇二の映画初体験となる。
 帰りの居酒屋、そこでもおごってくれたヨシオが訊いてきた
「勇二、お前、ピンクとブルーじゃ、どちらが好みかい?」
「正直言っていいですか? 先輩」前置きして勇二は答えた。
「自分は今見たピンクの方です」
「だろ! お前とは話しが合うと思うとったゾ。マサルさんのブルー、アレはグロ(グロテスク)じゃ。ピンクの方がロマンがあるよな。ナッ」
 笑ったヨシオの歯の間には噛んだばかりの冷や奴の滓が付いていた。
「ユカちゃんのヒショはヨ、想像するところが楽しいのよ、ナ。」
 再び同意を求めるように言って焼酎を呑み干すヨシオの喉仏を見ながら、勇二は一瞬考えた。(ユカちゃん、って?)。(そうか、顧問教授のところにいた娘だ)と思い至ってから自分も焼酎を呑み干したのだった。芋焼酎の臭みも気にならなくなっていた。

 夏。富山県ツルギ岳での一週間合宿。
 そこから二グループに別れての縦走に、勇二は表銀座コースに参加する。ツルギの岩場でのロッククライミングには高度と難易度に足が震える経験をもした。
 ハイ松の中の雷鳥や岩壁に佇むように咲く黒百合を見つけた時は感激もし、入山前にカツヨシ先輩が部室で拵えたザラメが塗してある、米飯代替のアゲパンのミミも結構いけた。
 天候不良の時は『沈殿』と言って休息日になるのだが、そんな日の終日のトランプゲームやエロ話も楽しいものだった。エロ話を一番熱心にやってくれたのは先輩ヨシオだったが、どこまでがホントの話か解らず、そのことがかえってみんなにウケたのだった。
 山荘で絵葉書を買い、勇二は下山した松元の駅で投函する。家と譲兄ぃと、亜希子に書いたものだった。亜希子からは近況を報せる手紙が月に一度程届いていたが、自分の方は特に書くこともなく面倒臭さに出さずにいたので、ここの絵葉書が初めての便りだった。
 秋の前期試験。大学での初めてのテストで勇二は泡を食う。門前払い、つまりテストを受けられない教科があったのだ。出席日数が不良なので受けさせませんと通告した教官もいたし、同じ旨で掲示板に名前を挙げていた科目もあった。受けた教科の中では、シンゴが対策として見せてくれたノートとは異なる内容のものもあった。学部は違ったがシンゴも似たような結果だっただろう。しかしシンゴは笑みを見せて言った
「なーに、心配要らないよ。再試があるから」。
 だが落とした教科の中で再試があったのは僅かで、当然の事ながら出席不足と認定した教科では再試はしてくれなかったのである。
「大丈夫さ。全教科取る必要はないのだから、教養課程を終わる時に最低の単位数でツジツマを合わせて進級さえすればいいんだから」。シンゴは勇二にそう言ったのだった。
 シンゴの家で寝転がっていたり、パチンコで遊んでいて授業をサボったツケが来たかと勇二も不安を覚えたのだが、山岳部の先輩みんながシンゴと同じようなことを言って平然としているのだった。タクミ部長に至っては「心配要らんテ。俺は教養の時は年間百日の山行をしていたんだぞ」とハゲマシてくれ、そんなものかと思うしかないのだった。
 
 年末の冬季アルプス合宿には行けなかった。
 代わりのバイト生が見つからなかったからである。
「ごめんな、一人だけ残して。春には必ずバイト生を見つけてやるから一緒に行こうな」
というシンゴ、そして他の仲間達を勇二は駅で見送る。
 年の暮れ。誰も居ない部室の掃除をしていると、もう一人の居残り組のテツシ先輩が来て言った「今晩、先生に誘われたゾ。お前も連れてこいという話だった。行こうぜ」。
 承諾すると「秘蔵フイルムを見せてあげます、とも先生は言ってたんだぜ」とニヤリと笑った。(ヒゾウ物って?)(ユカという娘も一緒なのだろうか?)。疑問を捨て切れないまま勇二はその夜、先輩テツシと教授の家を訪ねた。
「良く来たネ。今日は独りなんだよ」。
 機嫌良く迎え入れてくれた老教授の家の食卓には、総菜に煮物に刺身までが載せられて酒の準備もしてあり、教授が自らビールを運んだりして持てなしてくれた。
「冬山に行けなくて残念だったね。キミは奄美の出身だと以前聞いたが、雪は見た事あるかね?」と教授が勇二に訊いてきたのはしばらくしてからのこと。
「いえ、ありません」そう答えると
「そうだと思った。桜はどう? キミの島に桜木はあるかね?」
「ないです。こちらに来て花見で初めて見ました」
「そうですか。その時期だったなら桜吹雪というのも見たことは無い訳ですね」
と笑った。桜吹雪? 見たことは無いが言葉はどこかで聞いた記憶があった。印象深い話だったような気がするのだが思い出せなかった。   
 勇二が考え込んだ顔になったと見たか、教授が隣の部屋に移るよう二人を促した、見せたい物があるんですよと。ヒゾウの物ですか? と勢い込んで訊いたテツシに、そうです、ヨーモノなんですよと教授は答えたのだった。
 映写の用意がなされていた別室で二人の目の前に映し出されたもの。それはサンゴの大産卵の情景だった。小さな産卵なら勇二も見たことがあった。島で満月の夜、水中電灯の小さな灯りの中でのものだった。だが画面のそれはスケールが違った。明るい光に照らし出された巨大なテーブル型サンゴ、それが一気に吐き出すように大産卵している様が、三メートル四方くらいのスクリーンいっぱいに映し出されていた。
 「サンゴの産卵を桜吹雪に例える人もいます。それくらい綺麗だと言うことです。これが見られるのはダイバーの特権ですね。キミ、見たことありますか?」
 問いに肯き、「でもこんな迫力のあるものは始めてです」と答えた勇二に教授は笑って言った
「これはヨウモノ、オーストラリアのものなんです。こんな映像は滅多に撮れないんだそうで貴重なものなんですよ。もっともキミの故郷の奄美でも、機会と資材さえ揃えばいつかこれに優るとも劣らないものが撮れると思いますがね」
 そう言ってヒゾウモノの映写会は終わり、飲み直しの場で教授が訊いたのはテツシにだった「桜とサンゴ、どっちの吹雪が綺麗だと思いますかね? キミは」
 うーん、同じくらいですかねぇと答えた先輩の横で、自分には問われなかったものの勇二は結論を出している。サンゴ吹雪の方が断然優る。桜吹雪は死んだ花の葬儀だ、比べてサンゴは出生の乱舞だ、比較にもならない、と。
 その後、冬山隊の話になった。遠征組は今晩には下山の予定だったが、冬山は入ってしまえば連絡がつかないのである。豪雪や吹雪に阻まれれば日程が遅れるのは計算済みで予備日として組むのだ。
「タクミくんは慎重なリーダーですから」。顧問は部長を信用しきっている様子だった。
 テツシが経験者の自信を見せつけるように勇二に言った
「冬山の寒さは凄いんだゾ。マイナス二十度を超える時もある」。
 霜が降りるのさえ見たことのない勇二には、マイナス二十度の寒さというものが皆目見当がつかなかった。
「口から吐いた息が薄く丸く固まるんだ。フーセンガムを膨らました時のようにナ。それで固まった息にナ、マジックで字を書くと漫画の台詞みたいな形になる。冬山ではそうやって会話するしか無いのよ」
 真面目な顔でテツシがそう言った途端、教授が吹き出した。勇二もそれを一瞬信じそうになった自分が可笑しかった。信じそうになったか? とテツシが大きな目を剥いて笑ったのだった。
 笑われたことがもう一つ。「暇な時は何をやっているのですか?」と老師に訊かれて勇二が答えられずにいたら、横のテツシが代わりに「こいつはパチンコ中毒という話ですよ」と答えたのだ。すると老師は笑みを浮かべて言った
「中毒ですか。それはどうにかしないといけませんね。知っていますか? キミ。『雪と欲は積もれば積もるほど 道を忘れる』と言う諺を」。
 老師の笑いは決して冷笑ではなかった。学者らしい静かなそれでいて暖かみを含んだようなものだった。逆に勇二にはその方が自分の卑小さを感じさせられ、恥ずかしい思いがしたのだった。
 自転車で一人帰る道、木枯らしが吹き付けてきたが火照った身体には心地良く、寒さは感じなかった。先生は何故あのヒゾウという八ミリを見せてくれたのだろうと考えた。冬山に行かなかった自分を気遣ってくれたのか? それとも単なる気紛れなのか解らなかった。その時突然思い出したのだ『桜吹雪』の話を。譲兄ぃが話してくれたのだった。初めて鹿児島で桜吹雪を見て愕いた時、女に笑われ、殴ってしまったという話。
 ―自分が馬鹿にされたと言うよりナ、島人が馬鹿にされたと何故か思うてしまったんじゃ、ワンは。女というものを始めて殴ってしまい、そりゃあ後で凄く後悔したもんよ。
 苦笑しながら譲が話してくれたのは千美子姉が居ない時の事だった。
 春山も時によっては厳冬期と変わらない姿を見せるんだ、と先輩の誰かが言った話も思い出し、早く春山に行きたい、そんな気持が募ってきた夜だった。
 昭和四十三(一九六八)年が開ける。授業への出席は以前と変わらなかった。講義内容に興味が持てなくてサボるので同級生と親密になる機会も生まれず、暇な時間はシンゴの部屋に転がり込むかパチンコに出入りする生活を続けていた。
 勇二は煙草も吸うようになっている。『しんせい』という煙草だった。パチンコ店でいつしか紫煙に身体が馴染むようになっていた。パチンコはいつも勝つとは限らない。奨学金もすぐに遣い果たして月末の給料日まで食費と煙草代に逼迫する時もあり、質屋通いを憶えた。質草は譲が呉れた時計で、それで五千円も貸してくれた。一月後に利子二百円を加えて元金を期日内に持って行きさえすればいいのだ。その意味では時計は命の糧、宝物となった。他には何一つ金目の物は持たなかったからである。
 ―沖縄をどうするんだ? 勇二は。
とのシンゴの問いには自分なりの考えを述べて議論するようにもなっている。
 昨年の十一月、首相佐藤栄作が訪米して米大統領ニクソンと会談後、「両三年内に沖縄の日本復帰について合意する」との共同声明を発表していた。
 ―勇二、お前も奄美の人間として沖縄復帰に関心無い訳ないだろ?
と、シンゴに言われて関心を寄せるようになっていた。
 父からも昔、沖縄の米軍施設に出稼ぎに行っていて公職追放という憂き目にあった話は聞いていた。四万人という多くの奄美人が同じ目に遭ったらしいということも。幼い頃に耳にした話だったが繰り返し訊かされて記憶に残っていた。昭和二九年頃の話だったと思うので十五年位前か。
 ―米軍基地に大きく経済依存している沖縄をどういう形で日本復帰させるか、だ。おそらく政府は『核抜き・本土並み』という路線を示すだろう。しかし、核というものは本来、常にどこかに隠して装備する点で価値がある訳だから『核抜き』はマヤカシだ。加えて、ベトナムへの出撃基地としての沖縄の重要性は大きいものだ。よって根本的に米軍基地撤去でなければならない。つまるところは『即時・無条件・全面復帰』を掲げる沖縄復帰協と沖縄の大多数が望むところの米軍基地撤去という『反戦復帰』しかないんだよ。
 シンゴの論理はそれで一貫していたし、勇二も同じ考えを持つにいたっていた。
「その為に自分が何を今為すべきかが問われているんだ」。シンゴは口癖のようにそうも言っていた。その頃彼の部屋には見慣れない新聞が置かれるようになっており、〈新左翼〉と言われるどこかの政党機関紙みたいなそいつを勇二は時々拾い読むようになる。だが意味の解らないところの方が多かった。
 後期試験もやる気はでないままそこそこに勉強して受験し、春山遠征に出かける。
 勇二にとっては初めての雪そして雪山で、そこでは何もかもが愕きの連続だった。雪を掻き分けて進むラッセル、夜中に当番で担うテントの雪下ろし、進行中に見る小さな雪崩、雪を固めてからホエーブス(燃焼器具)で溶かしての水作りなど。
 どこまでも白く続く雪山で保護色に変身した二匹の真っ白な雷鳥を見た時は感激もし、親子だったか番だったか。雷鳥の話は沈殿日にタクミ部長がしてくれた。
「昔から神の鳥と呼ばれていた雷鳥はヨ、夏に繁殖するのだがな、番で半径百五十米ほどの地域の食草が必要とされる訳よ。そこから現在、国内での個体数はおよそ四千ほどかと推定されるんだ。だがお花畑は確実に縮小しているわけだから、雷鳥が将来激減していくのは目にみえているわナ」。
 花畑の縮小の原因についてはそれ以上話が進むことはなかった。人間が自然を山を改造する、すると動物の住処は高山へと必定押し上げられて行き、花畑は縮小していくのだろうか? 知識の無い勇二にはその程度の推論しか出来なかった。
 山から絵葉書は出せなかった。山小屋は雪の下に埋もれていたし、富山の駅で買って書いて出す時間も無く面倒だったのである。
 鹿児島に帰り着いて荷物を下ろすと、奄美行きの船に乗った。一年ぶりの帰島だった。
家族や譲夫婦に一番驚かれたのが顔だった。雪焼けで真っ黒になっていた顔はゴーグル(眼鏡)をかけていた両目の所だけが日焼けを逃れて白かったのである。おまけに、散髪代を倹約する為に髪は一年間伸ばしっぱなしにしていた。
 「びっくりしたなぁ、もう」、流行りの言葉を口にしたのは帰省していた亜希子だった。
 だが、亜希子の顔はみるみる険しいものになっていった。
「手紙を呉れんかったじゃないか、勇二」
「葉書を出したやろ」そこまではまだ良かった、しかし。
「勉強しとるんか?」「ボチボチな」「嘘言うな。ヌーは勉強しとらんという話やゾ」
 その言葉には反論出来ず、どこからの話だろうと考えた。工場への自転車での不規則な行き帰りを事務室か或いは誰かが見ていて、島で語ったのかも知れない、そう思った。
「よく、ワンの前に顔を出せたな、勇二。お前、自分の立場が解っているのか? お前の成績が悪ければ、もう私達の高校からの推薦合格は無くなるんだゾ。それに留年した時点で奨学金も無くなるンぞ、それで学校続けられるつもりか? どう考えているんじゃ、勇二。昔、先生が言ったろ、島を捨てる学問するなチ。忘れたか? どころか、遊びほうけのヌーの勉強ときたら、島ン為に一つもならん学問以前の問題じゃないか!」
 亜希子の剣幕に勇二もムキになった。
「ワンにはワンの考えがあるんじゃ。ヌーに言われる筋合いは一つも無いわい」
「考えがある? なら言うてみぃ」
 変な口調は耳障りだし、高飛車に言われることにはそれ以上に腹が立った。
「なんでヌーに言わんといけんかい」
「そうかい、見損なったわ。大物じゃチ思うとったワンの見当違いやったチ言うわけか?」
「何が見当違いかい。ヌーの目は元々節穴やったんチバ」
「付き合いもこれまでか? 勇二」
「ヌーと付き合った憶えはないわ、じゃーな」
 その言葉を最後にして去る勇二に引き留める声は聞こえなかった。
 

 新学年度に入り、山岳部には二人の新人が加入してきた。五年のテツシ先輩も、タクミ部長も卒業して行き、相手に向かって「主ゃ」と呼ぶ口癖のヒサオが新部長になって歓迎会が開かれ、二次会は例のごとく顧問教授の家に流れて行った。
「どうですか、授業の方は?」教授に訊かれ、「興味を失っています」と正直に答えた勇二に「ふむ。それは困りましたな」。

 しばらく考え込んだ老師だったが、その後思いがけないことを勇二に言ったのだ。
「どうです、イッソ、農の方へ来ませんか? きみは奄美出身でしたよネ。学問というものを何らかの形で郷里の為に還元したいと考えているのでしょう?」
 亜希子の影がチラと脳裏を掠めた。がそんな勇二におかまいなく、己の考えを当然だと思いこんだ様子の老師の問いには小さく肯くしかなかった。 「奄美の漁業は沖合にせよ近海にせよ、今後難しいものと私は思います。養殖での水産振興は可能性が考えられなくもないのだが、資本投資規模を考えると限界がある。それが奄美本島以外の島となるとますます困難度は高い。でも農業振興となると、まだ水産以上に可能性があると私は思いますよ。亜熱帯特有の病虫害の駆除、植物検疫をクリアすれば本土へ持ち込めるようになる特産品が出てくる。他に、農業用水確保の為の灌漑技術の開発やサトウキビ単一栽培に変わる新作物の開発、土壌改良の技術、島に適合する肥料の開発など、将来的にやれる仕事は多いと思いますよ。キミ、考えてみませんか?」。
 老師の話に興味は湧いた。だがまた最初の入試からやり直さねばならないのか、それには自信がないと洩らして困惑顔になった勇二に老師が続けたのは編入制度についてだった、「編入試験を受ければいいんです。在籍に空きが出たら編入試験がありますが、毎年三、四人は出ます。試験は面接のみですが教養課程を修了することが前提条件です」。
 老師の話を聴き終えて、勇二は春山での事件を思い出していた。
頂上近くのアタックテントからベーステント(拠点地)へ下っていた時のこと、勇二の五人パーティは突然の吹雪に巻かれた。そして避難した岩陰は先程通過した場所だったのだ。
 誰も口には出さなかったが勇二も同じく直感していた、〔リンデワンデルク〕に陥ったと。本で読んで知っていた、強い吹雪の中では磁石が狂って同じ所を徒に巡回してしまい、遭難に追い込まれてしまうことがある、それを言うのだった。その時は岩陰に待避していたところ、しばらくして幸いに吹雪がおさまった。そして再び歩き始めた時、遠くでオーイと呼ぶ声がした。心配したベーステント組が捜索を出してくれたのだと知った。
 老師の声が、あの時の捜索隊の呼び声と重なった。閉じこめられた吹雪の世界から自分は脱出できる、そう確信した。
 自転車に乗っての帰り道。酔いは身体を包んでいたが自転車は軽快に真っ直ぐ進み、思わず口笛が出たのには苦笑してしまった。思い出したのだ、譲兄ぃのことを。兄ぃも自転車に乗るといつも口笛を吹いていた。
 迷いは既に無く肝は決まっていた。農学部に編入する、その為にも教養課程を修了する。これで、目標の無かった今までの無為の日々から脱出できる、そんな気がした。
 しかしこのことは黙っておこうと思った。家族にもましてや亜希子にも。亜希子に怒られてしまい、それで決めたと思われるのは癪だ。農学へ編入したとしても卒業するまで隠してやろう、そう思ったら愉快な気持になったのだった。

 「勇二、お前も四・二八やるよな?」
シンゴに言われた時、勇二は即座に肯いている。サンフランシスコ条約が発効されたその日は奄美・沖縄が本土から切り離された屈辱の日だ。シンゴの話が沖縄返還闘争の事だとすぐに理解できた。

 ニシエキ広場で集会をやるという。新左翼とよばれる幾つかのセクト(党派)が集まる予定だが、二人は『ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)』でやろうということになった。シンゴもどこかのセクトのはずだったが鹿児島にはそのセクトは同志少数だった為に彼はベ平連にしたのだと思えた。三十人ほどが集まっていたニシエキ駅前で、中に加わろうとする直前、シンゴが言った「公安がいる! 写真を撮られるゾ、勇二。どうする?」 
 察しは付いた、個人写真を撮られると身元が割れてマークされるようになるかも知れないというわけだ。シンゴが紙袋から取り出した二個のヘルメット、彼がバイト先の工事現場から借用してきたというそいつを被り、タオルで口元を覆った。山岳部の名前入りのものはまずいだろ、と笑い声で言うシンゴの口元は見えないまま、勇二も同じスタイルで初めての政治集会に参加したのだった。
 その日の夜、テレビの地方ニュース版で集会の様子が映し出された。黄色ヘルの自分たち二人も小さく出ていた。警備員室で独り見ながら勇二は思っていた、俺だと気付いたら知っている人々は、特に郷里奄美の人々はどう思っただろうと。
 だが心配には及ばなかった。故郷の島でNHKの受信が出来るようになるのは二年後の昭和四十五年であり、民放の受信放送はそれからなお六年を要したからである。
 
 勇二は忙しくなった。パチンコ通いどころでは無くなったのである。教養課程を修了する為に単位を落とせないところまで来ており授業は当然サボれなくなった。加えて部活での新しい仕事が増えていたのである。部員達のトレーニング服の洗濯である。男所帯の部で練習が終わると、トレ服はそのまま部室に吊り下げられっぱなしになっていた。洗濯機の無いアパート住まいの部員全員が洗濯をしないままに着用していた服は、染みついた汗の模様が浮き、異臭を放っていた。無頓着に放置されていた服を持ち帰り工場の洗濯機で洗ってやった。それから週末の洗濯が習慣化していたのである。皆に有り難がられて洗濯をしない訳にはいかなくなっていた。その意味では勇二の休日は規則正しい生活になりつつあったのである。
 夏の合宿。ロッククライミング(岩壁登攀)でハンマーを持ち先頭を任されもした勇二が、高度に足が震えることはもはや無かった。去年は荷の重さに景色すら見られなかった表銀座コースだったが今年の裏銀座コースでは景色を楽しむ余裕もあった。雲海の遠く彼方に浮かぶ富士の姿を見た時は感激もしたものだ。だが、今回、ライチョウの姿を見ることは叶わなかった。そして誰に葉書を出すことも無く、二回目の夏山は終わっていた。

 ―十・二一に行ってくるよ。オミヤゲ持ってくるからな。
と言い残し、東京での国際反戦集会に上って行ったシンゴは戻って来なかった。新宿での闘争に政府が騒乱罪を適用し多くの逮捕者が出たとのニュースから、シンゴも或いは逮捕されたのかも知れないと思った。シンゴの部屋は何度訪ねても鍵がかけられたままだった。
 前期末試験の終了を待って編入試験の告示が教養部の掲示板になされた時、勇二は即座に希望を出している。
 山岳顧問の老師が面接官だという噂を聞いていたが、試験場に顧問の姿は無かった。
 ―キミは山岳部だそうですね。ミウチだからということで、先生は担当から降りられましたので、私達が面接試験担当になります。
 と、二人の面接官の一人、顎髭のある男が言い、それから面接が始まった。
―キミはドイツ語を除けば殆どが良と可の低空飛行ですね。高い所が好きなんじゃないんですか? とのユーモラスな導入には
―ハァ、新人だったものですから技術不足でした、すみません。
と低姿勢で笑いを誘い、質問が始まった。
「ドイツ語で何か喋ってごらん」と言われて
「グーテンモルゲン、イッヒリーベディッヒ(お早うございます。私は貴方が好きです)」とやったら、又も笑われた。
―キミキミ、それはドイツ語の初歩も初歩でしょう、と。
―山岳部経験の中で印象深い出来事は?
との問いに、ライチョウが減っているのでは無いかと思ったと述べ、それから、奄美の絶滅危惧の怖れがある野鳥の話になった。
 ルリカケスや赤ショウビンや赤ヒゲも少なくなった気がすると答えると、それは実感ですかと訊かれ、ヤツらの鳴き声を真似してみせた。
 赤ヒゲはヒュールルルルと普段は鳴いているのだが、警戒する時はガァルルルとなる。
 ルリカケスはフミャーだったりクゥオーだったりギャーギャーと騒いだりする、と鳴き分けを実演してみせた。ギャーギャーの鳴き声にはホントにそう鳴くのかねと顎髭が洩らして、もう一人の禿げ頭の方に、だからカケスと言うのでしょと教えられる一幕もあった。
 リラックスしたところで本題に入った。こちらは頭の禿げた教師が訊いてきた。
「農学部で何を学びたいですか?」「離島農業の振興策です」。
「具体的には?」「それを今から勉強したいと考えています」。
 幾つか自分なりの答は考えられたけれども、勇二は謙虚にそう答えた。
「君は農業体験はありますか?」との問いも来た。
 その答は幾らでもあった。キビや芋の植え付けから、刈り取りまで。山羊の種付けに屠殺、解体、豚の種付けに去勢など、と答える。
「豚の去勢はどうやってやりますか?」
「暴れるので確実にやる為には加勢を一人貰ったりします。手伝いの人に豚の両足を開いて貰い、固定します。自分は豚の頭を踏んで豚の左脇腹が上になるようにし酒で消毒した箇所にナイフを入れ指でタマを引っ張り出します。後、糸で縫って消毒すれば終わりです」。
 その後、農作や家畜の飼育について訊かれたが基本的な事ばかりで難なく答えていった。
「キミは学究肌というより体験型の方かもな」と禿げ頭が言って面接は終わった。
 発表の日まで勇二は落ち着かない暮らしとなった。水産には見切りをつけていたし、不合格の場合には戻る場所はないと思えた。離島農業の振興策については素人なりの自分の考えを出した方が良かったかも、と悔いも残っていた。
 合格発表は教養部の掲示板でなく、農学部内に掲示されていた。
 名前を見つけた後、教官室を捜して老教師の部屋を訪ねる。
 「お陰で合格しました。有難うございます。これからよろしくお願いします」
 丁寧に頭を下げた勇二に「私は何もしていませんよ」とにこやかな笑顔を見せた後、老師が「おめでとう。私は勤務中なので、今呑めませんが、キミ一杯やりなさい。合格祝いです」。棚から一升瓶を出し、茶碗に注いで渡してくれたのは勇二の島の焼酎だった。
「体験型は貴重な存在だ、と言っていましたよ」
 老教師の声が届いた時、懐かしい味が喉から胃へと流れ落ち、その瞬間勇二は自分の目に薄く涙が滲んできたのを気付く。強く瞬きしてそれを消した後、老師に訊いてみた「先生、奄美とのご関係は?」
「良く訊かれるのですが、特別のご縁はございません」
 笑みを湛えたまま、老師は勇二に椅子を勧めてから答えた。
「奄美を好きなんですよネ。何か思い入れでも?」
「フフフ。奄美だけでなく沖縄も好きなんです。どうですか、もう一杯?」
 茶碗に惜しげもなさそうに黒糖酒を一杯に注ぐと、再び手渡しながら老師が訊いてきた
「キミ、江戸上り、って知ってます?」
 知りません、勇二が答えると、「そうですか。私は紅茶でも戴くとするかな」
と言い、紅茶に棚から取り出したブランデーを思い切り良く注いで一口飲んでから老師はゆっくりと、教え諭すように語り始めたのだった。
「私は歴史学の方は門外漢ですから、そのつもりで聞いて下さいよ。
 江戸上り、とここで私が言うのは、江戸期に薩摩藩が参勤交代の時に随行させた琉球の人達のことです。
 千六百九年、薩摩藩は琉球侵攻をして奄美、沖縄を支配下におきますね。侵攻理由は琉球王朝が秀吉の朝鮮出兵に協力しなかったからというものでした。その後、薩摩藩は江戸上りのたびに琉球の人達を随行させたのですが、彼らに異国風を強制したのですよ。服装はもとより和語の禁止までね。異国を支配しているという薩摩、それを幕府の権威付けに利用した訳なんです。行列を見届けた人々の驚きが解ります、今でも各地に「琉球人踊り」や「琉球棒踊り」なるものが伝統芸能として保存されているくらいですから。 
 江戸上りこそ、琉球は異国だ同胞ではないとヤマトの人達に刷り込んでいく一端になったのではないか。結果、沖縄戦で日本軍は沖縄の人々をガマから追い出すような酷い事を平気でやった。薩摩にその責任は無いと言えるか?」
 紅茶を飲み干し、ブランデーだけを入れて飲み始めた老師に勇二は訊いた
「先生は鹿児島生まれなのですか」
「いいえ福岡です。祖先はひょっとしたら、ヤマトを服属させた朝鮮族かも知れません」
 そう言われて、先程の責任がシェキニンと聞こえたのに勇二は気付いた。
「私の末の弟は戦死しました。――沖縄戦です」「――弟はーーーー」
 そこまで言って老師はカップの洋酒をゴクリと飲み干して呻くように、否、断言するように言った「弟は、沖縄の人々を守る為に死んで行ったのだ、そう信じたいのですッ!」
 いつもは穏やかな老師から思いがけない激情を吐露され、黙って見つめるしかない勇二だった。
           
 専門課程に入ると一転して授業が楽しくなる。興味深い内容の講義ばかりだった。「農学基礎」や「生物学基礎」「植物学基礎」などの基礎学や「作物生産学」「園芸生産学」「病虫害制御学」「家畜生産学」「農業経営基礎学」「植物病理学」「害虫学」「作物学」そして「熱帯作物学」などの講座もあった。
 学内と近辺には試験場や園芸場、果樹園があり、学内でも牛や馬、豚などが飼育されていたし、果樹園にはタンカンや蜜柑などのカンキツ類、ブルーベリーの他にパッションなど亜熱帯果樹まで栽培されており、そこに行くと島に戻ったような思いにさえ浸れるのだった。遠方の牧場ではトカラウマやクチノシマ野生牛まで飼育されていると聞き、行ってみたいという思いも募った。自分では、「学問にはまった」という思いはなかった。だが待ち遠しい授業さえ出来たのである。
 ―見えますか、これが「つつがなく過ごす」の語源となるツツガムシです。ダニの一種で発熱、発疹から致死性もあり、昔は原因不明の風土病とされていた頃もあります。
 ―こちらは「イライラする」の語源になる花イラクサです。この茎や葉の細い毛にやられるとチクチク痛むのです。そこでイライラする。
 ―無駄な物を例えて「無効分けつ」という場合がある。稲の中で穂にならないものを言います。それを防ぐには土中に酸素を入れてやる必要があり、中干しと言います。
 ―家紋に昆虫は結構観られます、トンボとか蝶の類です。いかに昔の農民が虫を食ってくれる益虫を有り難がったかが解りますね。
 ―昆虫の交尾について幾つか紹介します。
 赤トンボと言いますが、あれは成虫になる以前は黄色いのですよ。それが赤くなるのは交尾や産卵がスタンバイですよ、という性的な意志表示なのです。色気づくと人も化粧や服装で異性の目を引こうとする、同じですね。
 次に、カワトンボというトンボの生殖行為ですが、オスはメスの貯精のうから先にやったオスの精子を掻きだし、それから自分のものを植え付けるのですよ。
 ―ギフ蝶という蝶は交尾後、オスがメスに受胎ノウという貞操帯を貼り付けて、二度と交尾をできない身体にメスをしてしまうのです。
 一方、カマキリは交尾中にメスがオスを喰い殺すことで知られています。栄養にする為とも、断頭によってオスの性欲が増す為とも考えられています。最中に首を絞めるマネする動物がいると訊きますが、どんなものですかね? もっとも、要領のいいカマキリのオスにはヤリ逃げするのもいます。こちらも命がけというわけです。

 勇二が見知らぬ男から声をかけられたのは、十二月に入る頃。農学部に向かう通路で男は自分を待っていた。一度だけシンゴの家で遇ったことのある男だと解った。男が声を潜めるようにして語ったのは、シンゴの話だった。
 ―先の十・二一で彼は被逮捕・拘留された。統一公判は長期になる見込みだ。そこで裁判闘争支援の街頭カンパをする予定だが参加して呉れないか。
 というものだった。迷ったが行くことにした。
 テンモンカンでのカンパ活動は、勇二を入れて四人だった。通行人の多い場所で「権力に不当逮捕された獄中の同志奪還の闘争に支援のカンパをお願いします」と大声で訴えての活動は恥ずかしい思いがしたが、シンゴの為だと思ってやった。幾ら集められたのかは知らない。だが、なぜか勇二が再び誘われることは無かった。
 冬山にも勇二は行けなかった。代わりのバイト生が見つけられなかったからである。
 シンゴが再び姿を現したのは二月も半ばになった頃だった。
「やあ、勇二。久しぶり。残念ながらミヤゲは無かったよ」
 片手を挙げて話かけてきたシンゴと二人、学内のベンチに腰掛けて語った。
 統一裁判をやめて分離裁判で早く出所した事や獄中生活の事など、シンゴの話す内容は明るいものではないのだが、彼は吹っ切れたように時たま笑顔すら浮かべて語った。
 ―オミヤゲ持って来るって言っただろ。機動隊に追われた仲間の投げ捨ててあったヘルメツトを部へのミヤゲにしようと逃げながら拾い集めているところを捕まったという訳さ。  
 退学措置は免れたのだが就職先は無いだろうし、インに進んで研究職の道でも捜すつもりさ。キミ、農に編入したって? 良かったんじゃないか。学部が違うから会うこともあんまり無いと思うけど、ボクもシコシコとやるからキミもキミなりに頑張ってくれ。
「そんな事情ありなんで、アパートも引っ越ししたのさ。退部もしたいんだが行きづらいんで、キミ、その旨伝えてくれないかな、よろしく頼むよ」
 そう言うと再び片手を挙げ、笑顔を浮かべてシンゴは去って行った。
学部が異なったうえ食堂を利用しない勇二にシンゴと会う機会はこうして断ち切られてしまったのだった。
 それに、勇二も同じく退部願いを出すことにした。費用の嵩む遠征費を、専門書を買う方にまわさねばと思ったのである。専門に進めば経済的余裕など無くなると考えたからに他ならない。
 ―そうですか。でも個人山行は続けなさい、山から学ぶものは多いですからネ。
 退部のことを伝えに行った勇二へ、それが老師のアドバイスだった。

 ― 植物ウイルスのうち、菌類や藻類のウイルスの存在が明らかになるのは一九五十年代になってからなのですが、最初に発見されたのはタバコモザイク病でした。この病原菌が陶器製の細菌濾過器を通り抜けることを発見したオランダのベイエリングがこれを伝染性毒液、後に濾過性病原体、又はウイルスとよび、超顕微鏡的実体と定義したのが初めでした    
 ― 九月に阿賀野川の水銀中毒による病症を政府が公害病と認定しました、いわゆる新潟水俣病です。このような公害被害を起こした時の企業の損失、社会的責任というものは大きなものが今後問われることになるでしょう。皆さんの中には卒業後、肥料会社に入って化学肥料の開発製造に携わる人もいるでしょうが。社会的責任を担う産業人になるという自覚を持って、諸君には勉強をして欲しいと切に願うところです。
 ― キミは確か奄美の出身でしたね。去年、ミカンコミバエが大量に発生し、航空防除がなされたのを知っているでしょう? 
 講義中、教官が自分の方を向いて訊いてきたので勇二は答えた、知っています。
 ― 大量の薬剤散布によっても生態系は破壊される事なく維持できるか、そういう視点は環境学だけでなく農学も考慮していかなければならないのです。どうです、理解できますか?
 今度は大きく肯いた。生半可な知識ではダメだ、勉強は深く追求するものでなければならない、そう思った。
 農場での実習も具体的で楽しく学ぶことができた。
 キビ作りに代えられた為に島では殆ど見られなくなった水田実習もやった。
 水田では数種の稲を植えており、穂数型の稲と穂重型の品種の違いも良く理解できた。
 実習では同じコースの仲間達と共同作業や演習をするので連帯意識も強くなるハズ、と思っていた勇二の提案は仲間に否決される。
 勇二がストライキ実行委員になったのは六十九年の夏。
 政府は「大学管理法」という法成立で全国の学園紛争の沈静化を図ろうとし、それに反対した教養部では学部ストを決定し、全学ストを呼びかけていた。自分たちの農学部でも学科、出来れば学部ストまで持って行きたいと勇二は考えた。反対声明を出した教師の集団も大学には多数いたし、全国の大学が反対表明の無期限ストに入れば法案は潰せると信じた。だがしかし、学部ストは成立させられず、大管法も立法府での与党強行採決で成立したのだった。
 教養部の反対集会に参加した時のこと。勇二はノーヘルだったが懐かしいヘルメット、それも三個と再会する。下手くそな書き殴りでKUACと描かれたそれは紛れもなく山岳部のロック用ヘルだったのである。近寄ってみると先輩のヨシオがいた。同じ農学部でも山岳部は獣医学科生が多くヨシオもそうで、勇二が会うことは無かったのだが、彼が山岳部部長をやっているとは聞いていた。 

 先輩、と小さく声をかけると、振り返ってマスクの間から覗いた目が笑ってから、訊いてきた「久しぶりだな、元気か?」。肯くと、彼も小声で語った。
 「自治会がヨ、各サークルに集会参加者を出せと言ってきたんだよ。出さないとヤツラ、部の予算を削りかねないからこうして出てきたという訳よ」。
 部内は政治厳禁だった筈、それを言い訳っぽく言うヨシオが可笑しくなった。新人に何と言って本集会に参加させたのだろうと思ったら、場には不謹慎な笑いが込み上げてきた。無関係でいられた山男にまで政治の潮流は侵食していたのか、と。
 秋十一月。首相佐藤訪米。ニクソン大統領との会談の中で、沖縄の『核抜き本土並み』返還を合意しようとする。十三日から十六日にかけ、全国で佐藤訪米反対闘争があった時、勇二はベ平連に参加し、テンモンカンを労組系とは別個のデモ行動に加わった。だがそこにシンゴの姿は見えず、彼には釈放後も法的規制があるのだろうと思っただけだった。

 ― シンドフジという言葉があります。 
 そう言って教官は黒板に大きく『身土不二』という語を書いた。
 ― 夏の作物、胡瓜やトマトは身体を冷やす効果がある。逆に冬の作物、牛蒡や人参は身体を温める作用があります。よってこの語は、そこの土地でその季節の作物を食べるのが体に最も良い、という意味で、実に理に適ったいい言葉です。
 しかし、魚も大衆魚から高級魚へという風に食の嗜好も変わると考えられます。その土地で採れない物、或いは季節外の物を欲するようになるだろう。つまり、施設園芸や輸入が増える。輸出入作物でいえば国によって残留農薬や混入昆虫などの検査における許容レベルが違うという事、そこをどうクリアするかの問題がある。
 国内においても課題はある、と、言いながら勇二の方を見た。
 ― 沖縄県から、或いは奄美群島からも本土へ持ち込みが規制されているものがあります。キミ、知っていますか? 
 勇二は答えた。かんきつ類、藷、メロン、西瓜、レイシなど、だと。
 ――よろしい。病害虫の本土への流入を防止する為に植物検疫法で定められているのです。ですがこの病害虫の課題を克服できれば亜熱帯植物が本土の人々の食卓に上がる日がやってくる、そういう訳です。どうかね? 取り組んでみませんか、キミ。
 
 いつの日か学んだことを故郷のために活かしたい。そういう思いは学べば学ぶほど強くなっていたが具体的にどこで何をするかについては勇二に先の見通しは無かった。
 見通しを持てないまま、四年に進級する。一九七十年になっていた。
 故郷の島に帰ったのは一年生の春だ。それから二年の間、帰ることは無かった。その間故郷を恋しいと思ったことは無い。また逆に故郷を捨てたという思いも無い。故郷との音信は年一度の年賀を三通送るだけだった、家と譲とジイに。
 譲とジイの葉書は時々取り出しては読み、そのたびに島との繋がりを感じていた。
去年の年賀状。
 譲のものには、島蜜柑の果汁の香りと風味を活かした菓子を創るのに成功した、それが今一番の売れ筋になったと書いてあった。そして困った事はないか。学費の事ならいつでも相談せよ、と追記してありそこに傍線が引いてあった。
 ジイのものは賀春の後に大きくただ一行。「チバル たしきら」(註。天は自ら助くる者を助く、の意)とのみ書いてあった。
 今年の年賀はこうだった。
『元気か。最後の学年だと思うが無事卒業するだろ? お前は昔からスロースターターだとの話じゃったので多少の心配はあるが、ラストスパートは強いだろ? そこがお前の持ち味だからな。チバリョー!』が譲のもの。

ジイの年賀は遅れて届いた。
『余り寒さに風を入るんような まねをするな。ジョー ヌーの人生は長い』とだけ賀詞の後に書かれていた。格言かと思えたが意味は解らず、辞典で調べてみた。すると「余りの寒さに耐えかね、壁を燃やして逆に寒風を入れること。即ち、目先のことにとらわれてかえって酷い状態を招くこと」とあった。

 二つの年賀の意味は反対に思えた。しかし考え直してみた。すると、譲のものが戦術で、ジイが戦略の教えかと思えてきた。その区別認識が自分も出来るようになったか、そう思ったらおかしくもあった。
 四年になったら卒論の為の指導教官を選び、お願いして決めなければならない。勇二は迷った。やりたいテーマが二つあった。「亜熱帯植物のウイルス性病害調査」か「昆虫フェロモンの研究」。
 いずれかを決めかねたまま、顎髭の教官に指導を頼みに行くと、夏までは決めるようにと指示したうえで引き受けてくれた。顎髭教官は害虫学が専門と聞いていた。「食物病理学」を専門とする山岳部顧問の老教師に心引かれるものがあったが、老師は来春には定年退官と聞いていたので、指導で手を煩わせることを遠慮したのだった。
 六・二三を前後の日米安保破棄集会にも勇二は何度か出た。しかし、沖縄戦終結のその日をもって安保の自動延長が決定する。沖縄が基地付き返還を決定したのと同じだと思い知らされた時、その挫折感は大きかった。台風の後のなぎ倒されたキビ畑を見たような気持ちとでもいうか、それは農民から農作意欲を奪い取るにも似て、自分の中から政治意識が急速に消失していくのを覚えていた。
 もう一つの方の衝撃は、どの程度の台風に見舞われたと形容するのがふさわしいのだろうか。亜希子の消息を勇二は突然聞かされたのだった。
 帰島して福岡へ仕事に戻るという旧い友人、高校での陸上仲間から電話が届いて会った時のこと。そいつがこう言ったのだ。
 ― 亜希子の事だがヨ。アイツ、就職した病院で医者に見初められて、近々にも結婚するそうだとヨ。
 音信こそ絶っていた。が、忘れていた女だったとは言わない。逆だ。一番意識していた。卒業したら一番に会いに行って見返してやるつもりでいた。
「フーン、そうか」としか、旧い友人の前では言えなかった。
「お前達ゃ、二年前に別れたんだってナ、どうしてだったんだ? あんなに仲が良かったのに」との問いには「大したことじゃない」としか答えられなかった。
 大したことじゃないの中身は、別れた理由がそうなのか、それとも別れたことが大した事じゃない、そう言いたかったのか自分でも解らないまま答えていた。
 
 顎髭教師が勇二を喚んだのは夏も終わり。知っていると思うが、と前置きして話は始まった。
 ― 沖縄が復帰を前に、野菜出荷の準備を進める中で、ウリミバエの調査をした。そしたら、久米島に多数の個体が発見されたんだ。一回でメスは千個以上の産卵をし、一年でそれがおよそ八世代の成長を成し遂げるという大変なヤツだ。琉球政府と日本政府の協議ですぐにも『ウリミバエ根絶事業』が立ち上がる予定だが、根絶までには膨大な予算と年数がかかることだろう。それは沖縄だけの話じゃない、奄美にもヤツは必ず北上してくる。何年で駆逐根絶できるのか、又それが出来るかも解らない。ウリミバエ対策の為の基礎研究をしないか? と。
 その場で即座に首を縦に大きく振った。最もやりたい卒論テーマが見つかったと思えたのだった。それからの勇二はウリミバエ一色となる。とは言え、学生であって専門研究者ではない、文献参照が日課となる。生態学的にみるオスとメスの特徴、オスの出す誘因ホルモンの内容、行動特性、寄生しやすい百種類に及ぶ植物の特定、遺伝性など。そうして殺虫法としての燻蒸処理や燻熱処理の特性などを調べていくうちにある根絶法を知る。米国が一九六七年、マリワナ群島のロタ島で、『不妊虫放飼法』により根絶に成功した事例に突き当たり、その事例内容までを入れて纏めることで卒論の形は整っていった。
 譲から箱が届いたのは初秋の頃。小箱には何種類ものお菓子が詰め込まれていた、懐かしいものから新製品まで。特に新製品の菓子は包装までもが洒落たもので都会の菓子かと見紛うほどだった。製造者である譲の名前が刻印された袋菓子の一つを口に含み、島の香りを感じながら同封されていた手紙を勇二は読んだ。
 『以前知らせた島ミカンの果汁入りの菓子だ。食った事あったか、ないだろ。聞けば大学は卒論というのがあるそうだな。今頃はそっちで忙しい事だろうと思う。菓子でも食ってチバレヨ。就職はどうなりそうか? 働き口が無い時はワンの店で使ってやるからよ、というのは冗談だ。自分に合うところをゆっくり探せ。元気でな』。
 菓子箱を持って、勇二は顎髭教師と老教師を訪ねた。
 老師は定年の年ということで勤務も緩やかになっていたのだろう、それまで滅多に会うことは無かったのだった。顔は以前にも増して黒く、皺も増えたように見えた。
「顔ですか? 酒焼けですよ。私は左党ですから甘いモノは余りいただけませんが、家内がきっと喜ぶことでしょう」

と、顔を綻ばして受け取り礼を述べた後、勇二に訊いてきた。「ウリミバエの卒論、進んでますか?」
「何とかメドが付きそうです」
「就職の方はどうですか、メドは?」
「まだです。卒論にかかりっきりだったもので」
 勇二の言葉に、ハハハと老師は笑った後、言った
「私のところだったらお世話も出来たのだが、他の教室だったので遠慮したんですよ。キミはホントに茫洋としていますね。
この時期学生達は目の色変えて就職活動に懸命になるものなのですよ」 
 そう言って又、笑った後で続けた「で、キミの先生とも話したのですが」。
 話は自分の就職のことになりそうだった。
 教師に就職斡旋の依頼をする学生がいることは知っていた。だが自分は今日、そのお願いに来た訳ではない、と勇二が言うのを遮って、老師は語った。
「インに行きなさい。そこで本気になってウリミバエをやるのです」。
 そう言った後、退官前の老師が熱に浮かされたかのように語り始めたのだった。
 ウリミバエ根絶の必要性を。そして不妊虫放飼の技術的可能性。誘因剤と殺虫剤。個体数推定。ガンマ線放射による不妊化技術と不妊虫の大量増殖法。不妊虫トラップ(罠)による捕獲と効果判定の技術などについて。
 ― 対策事業におよそ二十年、費用に二百億、いや時間も費用もそれに対策従事者にしろ、何千、何万いやもっと要するかも知れないし、キミの生涯の仕事になるかも知れないし、成功すればその技術と方法は他への転用が効くものかも知れない。全てを仮定でしか今は言えないが、キミの故郷奄美群島の為の研究、実践になることは疑いない、やりたまえ。
 まるで青年が己の壮大な夢を語るかのように老師は滔々と喋り続けたのだった。学問の研究者とはこれほど迄一途になれるものなのか、と聴きながら勇二は呆然とした思いになっている。勿論一人だけで取り組める内容ではない事とは解りすぎるほど解る。研究者にしても何十いや何百の人が関わる事だろうが、自分はその中の一人として果たしてやっていけるのだろうか、その思いを口にした。すると老師は大きく肯いて言った。
「キミね、聞いたことはないですか? 『学者とコンニャク芋は山奥の方が良く育つ』というのを。学者タイプというのは世間ずれしていないでボーッとしていた方が大成するという訳ですよ、私もそう思いますがね。ア、キミは山ヤを降りたんでしたネ。そして元々が海育ちでしたっけ、ワハハ」
 自分の論理に笑壺に入ったように笑いこける老師を見ながら、勇二は大学院に行こうと決めていた。研究の道へ進もう、と。

 事務所に菓子を持って行くと課長がいて、ソファーを勧め「進路はどうするのかね?」と訊いてきた。
「院に進もうと考えています」と答えると「ホウ。で何をやりたいのかね?」と問われた。
「ウリミバエ対策です」
と答えると、課長は一瞬呆然とした顔を見せた後で言った
「キミ、水産じゃなかったのかね」
 農に編入したことから勇二は経緯を語った。そして卒論の内容を話し、教授に研究を続けるよう勧められたという事まで勇二が語った時だ。
 良しッ!と周りが驚く位の大声を出し、課長は立ち上がって電話器に向かったのだった。
「専務ですか。警備の勇二君ですがね、大学院に進学するそうなんですよ。そこでウリミバエをやるとの事です。ウリミバエですよ、ええそうです、例のウリミバエ。で、社として何か応援できませんかね? この件是非、社長に通して貰いたいのですが」。
 終わると、課長は勇二の手を握って言った
「是非やりたまえ、そして奄美を守ってくれ。これは先の大戦にも匹敵する大きな戦いだと言う人もいるそうだが、素人のワンにも解る。奄美群島の生死がかかる戦いじゃろう、是非勝ってくれ」、と。

 正月。ジイからの年賀状はミミズが這ったような文字で長文が綴られており読むのに苦労した
『そつぎょうじゃちな 勇二  社会人になるお前が楽しみじゃ あっこのことじゃが ケッコン話を聞いてはないか
話を聞いてそんなはずはないち思って わんは聞いてみた あっこのアンマ(註。母)によ  そしたら わんの思うた通りよ 話はウソだっチ  わんの舟に乗った男と女は夫婦になるしきたりじゃからの じょーがそうじゃったろが
 あきこはぬうを待っとるはずよ ちばりよ 勇二』
 日頃書くこともないだろう文字を、苦労しながら書いているジイの姿が瞼に浮かび、ほのぼのとした温もりを勇二は覚えたのだった。
 しかし、亜希子のことはもういいと思った。今からは本腰入れて害虫との闘いに参戦するつもりだ、女は要らない。
 そう覚悟を決めた翌日、一枚の葉書が届いた。
 忘れたのか名前が書いて無かったが、すぐにジイのものだと解った。
『忘れ草の話よ ぬうにするのを忘れちょった こんな話じゃ いとしい女をなくした男がおった と
 毎日ハカに行って泣いちょった ち そしたら女が出てきて言うた ち。
 泣いてくれるのはうれしかが それじゃワンがいつまでも浮かばれん 
 来年ここに花をさかすから そのはっ葉をきざんでのめ ちな。
 次ん年 そうした男は女をわすれるこつができたちう話よ。それが忘れ草 たばこよ
 勇二。たばこも良かど。わんのすすめはしんせいじゃ。
 新生とはやりなおしよ チボー(註。希望)ちゅういみじゃ。ちばりよー ゆうじ 』 
 (言われんでも、俺は最初からしんせいを吸っとるわい、ジィと同じものをナ)。
 そう思いながらしんせいに火をつけてくわえ、読み直すうちに勇二は涙が滲んできたのを覚えた。何だ? と思った途端、激しい嗚咽が突き上げてきたのだった。
 それが何によるものなのか、自分でも解らなかった。
         
           三

 大学院入試の合格発表を一人勇二は見に行く。発表は掲示板に貼られていた。あった。
その夜、家に電話した。
 「おめでとう様、勇二が博士になるのかいね?」。驚きとも賞賛ともつかぬ言葉を洩らした母親に「分からん、未だ先のことじゃが」と告げると「博士になる学費は高いんじゃろ、どうするつもりか?」不安げに小さな声が返ってきた。

 研究に専念する身ともなればアルバイトもそうは出来ないだろうと、母親なりに心配しているのが解った。勇二は説明した。院に行けば奨学金も今迄以上に上がるし、それに新しい奨学金を貰えることになったと。新しい奨学金、即ち、工場の社長の冠名がついた奨学金の話をすると、ホォと母は安堵の声を洩らしたのだった。その奨学金は工場の社長が郷土の有為な青少年育成の為にと、今年になって新たに創設したもので、二名のうちの一人に勇二は内定していたのだった。警備のバイトと二つの奨学金で充分やっていける計算になる。研究生活に入れば当然本腰入れてかからねばなるまい。パチンコからはきっぱり足を洗うつもりだ、その暇もなくなるだろう。
 農学部に編入した時の発表と同じ掲示板だった。あの時はすぐに親に伝えずに、随分経ってから連絡したのだった、遠い昔のような気がするのは回り道をしたせいか、などと感慨に浸っていた勇二に一通の電報が届いたのは数日後。
発信先は宮崎市内の病院で亜希子からだった。
 「シュク ソツギョウ。シュク ゴウカク。ノウニウツッタノハマエカラシッテタヨ。ユウジハヤハリワンノミコンダトオリノオオモノデス。ゴホウビアゲルヨ、コンドアッタトキネ」
 自分がオオモノ? まだまだこれから先どうなるか解らない、海の物とも山の物とも知れない学者への遠い道のりを歩き始めたばかりなのに? 別れ話が出た時、、見損なったにも近い言葉で自分を罵倒したあの亜希子が「ミコンダトオリノオオモノ」だった、と? 
 腹の底から笑いが込み上げてきた。何度も電文を読み返すうちに湧いてきたのは満足感だ。全文を憶えるほど読みなおした後、勇二は電報を押しピンで机の前の壁の正面に留めた。小さな一枚の紙片、コイツがこれからの自分の勉学の大きな支えになるだろうと思えたのだった。
                   勇二編 終     

 

    
      エピローグ
 
 あれから、四十年近くが経とうとしています。
 今日から島は夏祭りです。前夜祭のおみこしパレードから始まり、港では漁船群のパレードに島を二分しての綱引きや、出場チームが百組にも及ぶサバニ漕ぎ競争、島唄のど自慢、水上花火、六調踊り、方言大会、と三日間に亘って盛大に祭りが繰り広げられるのです。夏祭りに合わせて帰島する島人は正月より多く、飛行機便は予約開始と同時に満席になりますし、時にはフェリーの増便も検討されるくらいなのです。
 それでも島人の数は四十年を経た今、昔の半数近くほどになりました。
 今宵、私どもは弟、四郎の家に集まることになっています。私どもというのは猛兄夫婦、譲兄ぃ夫婦、そして私達です。
 その後の皆さんの経歴を簡単にご披露致しましょう。もっとも私、勇二が知る限りのお話ですが。
 

 猛兄ぃさんは三十代半ばで独立し、東京で開業したパチンコ店を軌道に乗せると間もなく、不動産業も起こして、幾つかのビルのオーナーになるまでに成功しました。ですが、例のバブル崩壊のあおりを受けて整理縮小を余儀なくされたのでした。
 裸一貫からのやり直しを始めた時、手助けをしてくれたのが譲兄ぃだったそうです。
 譲兄ぃの援助を受けた猛兄は大阪に移り住んでホテル経営を始めます。本来は、関西にやってくる同郷人の為にリーズナブルな宿泊施設をと考えて始めたものだったそうですが、新空港からの便がいいということでこれが当たり、今は客室数も多い大きなホテルを経営するに至っています。面倒見が良い兄は、もう何年も島の同郷会や関西奄美会の役員を引き受けているのだそうです。
 

 譲兄ぃさんは、島で千美子さんとお菓子屋さんを続けていましたが、母親が亡くなられると北九州に移り、そこで和菓子製造を再開しました。研究熱心だった譲兄ぃはそれからも次々と新しい商品を世に送り出していき、その度に私どもへも贈り物が届けられたものでした。譲兄の大きな成功のきっかけとなったのはイモ菓子でした。芋なんて私どもには珍しくも有り難みもないものの代名詞みたいなものですが、譲兄ぃは農家に委託して作った有機農法芋を原料にムース化したというのでしょうか、ほんわりした膨らみの上品な味、つまり、サラリとした餡味のイモ菓子を開発したのでした。これが、無農薬の安全とヘルシーということから大ヒット商品となったのです。なぜ北九州だったのか、を私は訊いたことがあります。「いずれ朝鮮半島や中国、そしてアジアからのお客さんのお土産にして貰おうと思ったからさ」。それが譲兄ぃの答えでした。
 明日、猛兄と譲兄ぃの二人は顕彰式といいますか、町長さんから感謝状が贈られる予定になっているそうです。何年にも及んで島の図書館に少なくない冊数の本の寄贈をしてきたからなのだそうです。私も最近になって知ったことでした。
「ささやかなものだよ」と二人とも電話口では似たような謙虚な言葉で照れたのですが。

 

 最後に自分の事は短くお話すると致しましょう。
 ウリミバエは北上するヤツを北から根絶していく作戦でした。私の島で不妊虫放飼が始まったのが一九八一年、根絶の確認が八五年、そして翌八十六年にメロンの初出荷が出来たのでした。奄美群島根絶が八九年、九十年沖縄群島、九三年八重山群島と南進してウリミバエを駆逐していったのです。七十二年から二十二年間に及ぶ戦いで、放飼した不妊虫数が六二五億匹、総費用で二百四億円を要した総力戦でした。
 勝利の休息を摂る暇もなく、翌年九四年にはアリモドキゾウムシ不妊虫増殖と放飼の戦いと続きました。
 それらの連続した戦いに私も微力ながら加わり、根絶が確定してしばらくしてから沖縄の大学に移ることにしました。沖縄はウリミバエ研究の発祥の地であったこともあります。それに対策事業の連携の中で頻繁に訪沖したものでしたし、私にとって沖縄は島人がいうニライカナイ、つまり憧れの地にいつしかなっていった訳なんです。
家庭ですか? 結婚しました。
「スロー勇二、女はいつまでも待ちきらんチバ」と相手に急かされたものですから。
 相手ですか? 私に「島を捨てる学問するのか」とつめ寄り、詰ったあの娘です。
 もっとも今では、娘と呼ぶにはほど遠いところにきてしまった亜希子ですが。
 ああ、私たちがヨリを戻し、私の大学院進学の報告を兼ねて二人で島に戻り、ジイを訪ねたときのことです。
「必ずお前達は又、一緒に来るチ思うちょったゾ」と皺も大層深くなった顔を崩したジイと囲炉裏端で三つの茶碗酒を酌み交わしたのでした。
 ジイが囲炉裏の灰の中からその時、消し炭を取り出して
「お前達はこれよ。元なじみと消し炭は火が点くのは早ぇチ、昔から言われとるんじゃ」
 と、少なくなった黄色い歯を見せて言った後、付け加えたのです
「ところで、ヌー達ゃスマセてるんじゃろ?」
 途端、亜希子の両頬は燃えさかる火の色と同じように赤くなったのです。
 しかしヤツも負けてはおりませんでした。
「もう、ジィのスケベッ」と言うなり、ジイの禿げ頭をぶったのです。おかげでジイは茶碗酒に鼻を突っ込んで噎せる羽目になり、それで大笑いとなったのでした。

 私にとって学問を続けていく拠り所、それは島の為に自分が出来ることは何か? というものでした。 
 害虫制御を専門とした研究の傍ら、黒糖酒の醸造法の近代化にも微力ながらお手伝いをしたりもしてきました。最近では、島の若手グループで海外に輸出する目的の観葉植物の栽培が進められており、私にもアドバイスが求められていますのでそちらも手伝いたいと考えているところです。自分のことはこの辺でおしまいとしましょう。
 明日は皆でお墓参りに行く予定なのですが、実は私、譲兄ぃに密かにプレゼントを用意したのです。それは、譲兄ぃの、父親との体面なのです。どうです、サプライズでしょう?
 幼児だった兄ぃが戦後間もなく沖縄で生き別れたという父親を私は捜し出したのです。
 兄は父親の名前を知りませんでした。海兵隊にいたというだけの手がかりで、生死すら解らなかった人を捜しあてたのですから、私の努力も並み大抵のものではなかったことはご理解願えるでしょうか。
 学会で米国出張の機会を得ては、私は国防総省に出向きました。その一方、当時の戦友会をインターネットで捜しては虱潰しに当たっていきました。それは膨大な数の病害虫との戦いに比べれば、それほど根気の要る作業とは言えませんでした。アメリカ在住の猛兄の長女、リーナという利発な娘さんですが彼女の手伝いもあり、とうとう譲兄ぃの父親に辿り着いたのでした。
 八十も半ばに近い父親はカリフォルニアの地に独りで暮らしていたのです。
 私が父親の許に電話を初めて入れた時のことです。譲兄ぃと母親の二人の名前を言い、憶えているか? と訊ねると、彼ははっきりとこう答えたのでした。「私の一人息子だ」。

 私は訊きました「息子が父親に会いたがっている、会いたいか?」
 勿論、と答えた後、彼は私に言いました「あんたは何者だ、神か?」。
 それで私は、「弟分」と答えてやったのですが、弟と違って、米国の慣習にはないだろう『弟分』という説明には随分難儀しました。どうにか説明を終えた後、私は訊きました「どうして二人と別れたのか」、と。
 答はこうでした「次の戦争に駆り出された、運命が家族を引き離したのだ」。
 次の戦争とは朝鮮戦争のことです。沖縄戦にひき続き、朝鮮戦争にまで従軍させられた譲兄ぃの父親は、除隊後故郷の地に戻り、独身のまま現在に至ったというわけでした。
 日本に一人で来られる体力はあるというので、私はこの日に合わせて内緒でコッソリ招く計画を立てたのです。問題は譲兄ぃが父親と会いたいか否かでした。   
 私は千美子姉に経緯を全部話して、それとなく譲兄ぃの意志を訊いて貰ったのです。
 もしも生きているとしたら会ってみたい、それが兄ぃの返答だったそうです。
計画では、譲兄ぃの母親のお墓の前で親子の再会を演出しようと思っている私なのですが、ちょっとイタズラ心を起こしたのです。それは夕刻の鹿児島からの飛行機の座席のことです。譲兄ぃの近くに父親の座席を取ったという訳なんです。
 父親は譲兄ぃが同乗していることは知りません。兄ぃは父親が生きていることすら知りません。小さな旅客機です、二人は気付くのでしょうか? 
 その場面を想像するだけで私は胸が高鳴るのを押さえきれないほどでした。
 島人三家族の中に譲兄ぃのアメリカ人の父君が加わっての賑やかな交流が楽しみです。
 譲兄ぃさんと同じような人がもう一人います、猛兄の奥さんも譲兄ぃと同様ダブルなのですよ。(注。かつてハーフと呼ばれていた混血の人を現在ではダブルと呼ぶ)
 猛兄の奥さんですか? エリーさんといいます。
 初めて彼女に私が紹介して貰ったのはまだ若い時ですから、もう随分昔のことです。
 どうしてこんな綺麗な人と知り合ったのだと兄に訊いても教えてくれなかったのですが、エリーさんの一言には私は驚かされたものです。
 彼女が言いました「私達二人で一緒に、抜け荷をしていたの」と。
 抜け荷? 密貿易だって? 面食らった私を見て彼女は笑いこけていましたよ。
 さて今宵。日本語否、関西弁や九州弁、それに沖縄口に島口や英語の飛び交う集いが楽しみです。
 いやはや、こんな小さな島が国際的になったものだとは考えられないでしょうか? 

 すっかり薄くなった白髪を潮風に嬲らせながら、私は大空にくっきりと立つ入道雲を眺めていました。ご存じでしょうか? 入道雲の別の呼び名を。奄美群島では、入道雲を元気な少年に例えて『高太郎』と呼ぶ島民の皆さん達がいることも。
 そして私は、入道雲の季節になる夏が大好きなのです。
 ムクッムクッとでもいうように発達していく生き生きとしたタカタローを見るたびに私は、猛兄や、譲兄ぃや、そして自分達の少年時代、生命力に満ち溢れていたかのごときあの頃が思い出されるのです。

 青空にひと際白さもクッキリしてドーンと太いタカタローです。
 右側、拳骨にも似た形はイガグリ頭の猛兄のように見えます。
 真ん中の高いてっぺんはノッポの譲少年でしょうか。撫で肩から次第に怒り肩に成長した姿は沖縄から戻ってきた時の譲兄ぃみたいです。
 左側には生まれたばかりのようでいて肩肘をはったような小さな塊。それをジャガイモに見立ててカレーが食いたいと猛兄に答えたのは遥かな昔のようです。
 塊が、あの時の幼かった自分の姿みたいに思えてきた私は、いつしか笑みを湛えていたのでした。                                  白幻記 完

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