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白幻記①  猛編

     序章

 シューッ、ドッドーン、空気を切り裂く衝撃音。緊張に耐えかねて窓ガラスがビリビリと悲鳴をあげ続ける。爺ちゃん、爺ちゃんと小一の孫が指差す外には大輪の花火。恐がって泣いていた孫がいつしか花火を楽しむ年頃になっている。時の経つのは早いものだ。
 ぼくは一人の少年を想い出す。花火に顔を強ばらせた少年、その歪んだ顔。
 ぼくが手にしたのは一葉の葉書だ。郵便番号の無い頃、鉛筆で書かれた葉書は汚れ、滲んだ字は間違いを唾で消した上に書いたもの。
 『オス。今日鹿児島についた』で始まる、猛兄ぃがくれた葉書だ。
 今から五十五年前、ぼくは猛兄ぃと出会った。昭和二十八(一九五三)年の初夏。

 ぼくが目を細めていたのは埃のせいじゃない、身動きできなくなるような威圧感のためだった。学校帰りのぼくの前に通せんぼをするように立ち塞がった二人の中学生、そいつらがニヤニヤ笑いながらぼくの髪と目の色をからかい始めていた。
 ぼくは小学一年生だった。相手は中学生だ、抵抗などできやしない。屈辱感に苛まれながら、からかいに耐えていた。土埃と初夏の逆光に目を細めてはいたが、中学生の背後から近付いてくる人影に気付いた。
 何しとるンナ、 中学生より背丈の低い人影は声変わりのしていない高い声ではっきりとそう言った。中学生に新たな仲間が加わったのかと思ったのだが、振り向き次に顔を見合わせた中学生の背中から威圧感が薄れるのを感じた。
 細めた目に映ったものは白いランニングに坊主の頭。浅黒い顔には太く繋がったような眉。(猛だ)。学校一のやんちゃ坊で、先生や大人達の言うことはきかない、喧嘩で指や耳を咬み切った相手も数知れずとかの噂でみんなが避けていた猛だった。
「俺の村の子じゃ」、猛の引き締まった口が短くそう言った。
 中学生は再び顔を見合わせ、何ごとかをもぞもぞと呟き、それから立ち去って行った。
「譲、お前の構えはなっとらんガ」、猛が始めてぼくにかけた言葉がそれだ。
 名前を知られていることに驚く間もなく、ぼくの後ろに立った猛が言った
「いいか、足は両横にこれくらい開く。肩には力を入れず軽く拳を握る。軽く、だ」
 猛はぼくの両手両足をとって構えさせ、先生のような一方的丁寧さで説明を加えた
「そして相手の目を見る。目を見ながら神経は敵全体に集中するんド。攻撃が来る時、目が動く。その瞬間や、相手の目でも腹でもタマでもいい。短く力いっぱい狙うんや。先に当てる。それが必勝の戦術ド。目を逸らさない、先に当てる。解ったな」
 肯いた時には猛は先に歩きだしている。後を追うぼくに歌う声が届いてきた。
  一でいくさが始まりました 二で逃げました 三でさんざん苦労して 四で死にかけて 五で極楽浄土は目の前で
 突然、振り向いて猛が言った「ジョー、お前、俺ヌ子分になるか?」
 いかにも唐突だったが猛のその言葉を僕は待っていたのかもしれない。勢い良く答えた「うん、猛兄ぃ」。
 その時から、ぼくは今まで一度も使ったことのない言葉を一番使うようになる。猛兄ぃ、猛兄ぃ、猛兄ぃ、と。

 キビ畑を潜り抜けてきた熱風が行く手に陽炎を創り、歪んだ風景に向かって真っすぐに赤土の坂道を駆け上がった所、岡の中腹にぼくらの村はあった。         
 クックルクルー、クックルクルー。赤しょうびんにお帰りと言われるかのように家に入ると、縁側で機を織っていた母が額の汗を拭いながら声をかけてきた。「お帰り。誰かと一緒だったト?」「うん。猛兄ぃ」「猛ね、やんちゃ坊の。あんまり近寄らん方がいいド」
 応えない、その反抗にぼくは満足している。
 ぼくの名は譲と書いてジョーと読む。現在なら洋風の名前として珍しくもないが、当時はアメリカー名だといってからかいの対象だった。目と髪の色は隠しようもない、ぼくは混血だった。終戦の翌年に沖縄で米兵の子供を産んだ母、その母がぼくを連れて帰島したのがここ、奄美群島の一小島だった。同じように猛兄ぃも父親はいなかったが、那覇の米軍施設に働きに行っているという話だった。
 ぼくは五つ上の猛兄ぃの姿を追うようになる。学校ではすれ違っても僅かしか話せない、帰ると毎日のように猛兄ぃの家を訪ねた。家に猛兄ぃがいることは少なかった。猛兄ぃの弟の勇二や妹達と遊びながら帰りを待った。猛兄ぃは腰縄の背に縄で巻いた鎌を差し、いつも青草を一紮げ抱えて戻ってきた。そして生草の束を山羊にやってから遊んでくれるのだった。遊びに加わらない時は豚の世話をしていた。餌にする芋の皮を洗って切る、次に屎尿の処理と豚小屋掃除など。
 猛兄ぃと遊べないままに帰る時、猛兄ぃが、待っとけや、譲、そう言ってから何かを持たせてくれることがあった。一個の卵を貰った時、固唾を飲んで見つめる弟達の中をぼくは両手で大事に包み込むと逃げるように家路を駆け出している。卵は自分の家で食べずに現金と交換する貴重品だった。その晩、小麦粉で溶いて延ばした卵焼きを母と二人で食べながら、猛兄ぃの家ではこの何倍にも延ばして食べているのだろうと思っていた。

 夏休みに入るとすぐ、猛兄ぃが消えていた。兄ぃの母親に訊くと親戚の家に手伝いに行ったのでしばらくは帰って来んという話だった。
 猛兄ぃが姿を見せたのはカンカン照りの昼下がり。
「譲、いるか? 釣りに行くぞ」兄ぃの声にソーメン箱を机にして綴り方をやっていたぼくは二つ返事で飛び出す。「帽子被って行けヤ」母の声に引き返して麦藁帽を掴んだ。前と後が判らないくらい真っ黒になっていた猛兄ぃは麻袋を手にしていた。
「譲、今日は何日や?」「九日じゃろ?」「旧でやゾ」「ちょっチ待っチくり、猛兄ぃ」。
 引き返して母に確かめた後、キビ畑に囲まれた赤土の道をまっすぐに海へと下りて行った。照りつける太陽に素足の痛みが限界になると、道端の草叢の上に避難して足を休めてからまた進む。それを繰り返した。途中猛兄ぃが見えなくなって再び現れた時、袋が膨らんでいるのに気付いたが、猛兄ぃは別のことを話し始めた「俺は種ツケに行っとんたんじゃ」。
 兄ぃがいなかった時の事だったとぼくはすぐに察した。そして昨日の豚騒ぎの事だとも。
「オジん家の牝豚がハツジョウしとらんかったので暇がかかったとよ。しまいにはオジがドラム缶を準備してきた。それを転がすと牝の前足を掴んで腹ばいにさせたんじゃ」。
「俺はドラム缶が動かんように押さえとった。牝は身動きできん。そしたら後ろからのしかかった俺ヌ家の牡のクルクルしたチンポがジュルッと伸びて牝のあそこに命中したンド。牝は両足を伸ばしたまま、グゥエーッち啼いたチバ」。
 鶏の交尾なら僕は知っていた、牡が牝に飛び乗って鶏冠を噛んで押さえ付けてスルのだ。
「豚のするのは見たことないやろ? ジョーにもいつか見せてやるわい」  
 猛兄ぃはそう言うと雑木林の中に一人で入って行き、待っている間ぼくは夕べの騒ぎを思い出していた。猛兄ぃの家の豚が逃げたとの報せで母が探すのを手伝いに行ったのだ。二時間ほどして宵の迫る頃、帰ってきた母が洩らした
「猛もまだ童じゃから」。「豚も帰りとう無かったろうよ」。
 母の話ではこうだった。オジの家から一人で牡豚を猛兄ぃが連れて帰る途中、突然、豚が襲いかかってきて兄ぃはどうにもならずに逃げ帰り、畑に隠れていた豚をみんなで見付けだしたという。母は種付けの話をせず、猛兄ぃは牡豚に襲われた事を話さなかった。ぼくは二人の話を組み合わせる。目を真っ赤にして鼻と口から泡と涎を垂らし、チンチンをおっ起てた真っ黒の牡、猛兄ぃの何倍も大きいそいつが猛兄ぃを追い回す様子が浮かんだ。
 フフフフフ。口に出して笑っていた時、猛兄ぃが戻ってきた。
「譲はさっきの種つけの話をまだ考えているんか? イヤラシかヤッちゃナ。ホイ持て」。
 猛兄ぃは切ってきた二本の竹をぼくに手渡した。
 アダンやアコウ、蘇鉄やヤシの林を抜けて下りた時、海は馬が昼寝をしているみたいにノタリとしていた。馬に蝿がまとわっているみたいに海面近くには鳥たちがいた。焼けた足を海に浸け、波打ち際を歩いて行き、海水が冷たくなった所で猛兄ぃが振り返った「譲、ここは湧き水があるんじゃ、ホラ」。
 見ると一本の蘇鉄を支えた岩の下から水が滴り落ちていた。アンピラ袋から、猛兄ぃが取り出したのはスイカだ「ヘヘヘ、小さいけどこいつは熟れているんや」。
 尻の黄色くなっていたスイカを湧き水に浸けた後、餌にするゴカイと宿カリを探した。
竹竿にテグスを結びつけ、噛みつぶし鉛を錘に付け、針を結んで仕掛けは全部猛兄ぃが作ってくれた。釣ろう、猛兄ぃ。逸るぼくを兄ぃが止めた。「待て! ジョー。慌てる蟹は穴に入れんちゅうが。まず一服や」。
 開いた油紙の包みから取り出したのはマッチ箱だ。
「アゲ! タバコ吸うんか? 猛兄ぃ」。
 子どもがマッチを持っていただけで十分に不良と認められていた時代だ。ましてタバコなんて。目を丸くしたぼくに、太い眉を上げてケロッとした顔で猛兄ぃは言った。「誰が吸うか。一服する間に波の様子を見れチ、昔から言われとるんド。譲、木を集めて来んな」。
 ぼくが枯れ枝を拾い集める間に、猛兄ぃは火を熾していた。
「オキ火になってから魚は焼くんじゃ」
 木を焼べながら、兄ぃは白い砂の上に数字を書き始めた。
「譲、今が一番干潮なんド。上り三ブちゅうてな、後一時間くらいせんと釣れんチバ。
 干潮の時間はこうなるんド。旧に8を掛ける。旧の十二日なら12×8で96となるやろ、すると9時60分、つまり十時が干潮や。十五日を超えたら15を引いて掛ける。18だったら15を引いて3やろ。3×8はいくらや? ジョー」。
 ぼくは答えられない。
「そうか、掛算まだ習っとらんかったんか。24や。2時40分が干潮になるんド。
大ザッパやがな」。
 潮が磯をゆっくり満たすみたいにぼくの中で猛兄ぃへの尊敬の気持ちが起こっていた、大人みたいに兄ぃはなんでも知っている、と。
 でも。計算どおりではなかった。釣れるはずの時間になっても、サンゴの岩礁に立って釣り糸を垂らすぼくらに魚は一匹も食い付いてこなかった。
「陽が強すぎるんじゃ。じゃから釣り糸が魚に見えるんチバ」。胡瓜の先っちょの苦味を噛んでしまったような顔で何度か猛兄ぃはそう繰り返した後、閃いたかのように命じた。「譲、砂を取りに行こ。目つぶしじゃ、魚に目つぶし爆弾を喰らわせるんや」
 しかし。何度も砂浜と岩場を往復して喰らわせた目つぶし爆弾も効かなかった。
「しくじったチバ、赤土持って来るんやった、赤土爆弾でないと効かんのや」
 悔しそうに繰り返していた兄ぃだったが、突然、釣り竿を折った。癇癪をおこしたのかと驚くぼくを尻目に、短くした釣り竿を握ったまま兄ぃは海に飛び込んでいた。一人とり残され、泳げないぼくは期待の持てなさそうな目つぶし爆弾を繰り返しては釣り糸を垂らすしかなかった。しばらくして、砂浜に泳いであがってきた猛兄ぃは大人の掌ほどの、黒色で白いシッポの二匹の魚を手にしていた。
クルビラや、と肥後の守を魚の腹から突き刺して腸を出しながら言った
「魚もみんなツガイでいるんド。だから一匹釣ったら必ずもう一匹釣ってやらんといかんチバ。でないと未亡人になってしまうやろ」。
 ぼくは猛兄ぃの太股の内側に爛れた痕があるのに気付く。
「猛兄ぃ、足は火傷ナ?」「おう」「いつ頃?」「知らん、小さい時や」。
 小刀を水洗いした後、その小さな小刀で猛兄ぃが回すようにして切った冷えたスイカは兄ぃの言ったとおりに熟れていて甘かった。

 ディゴの木陰で昼寝をする時、横に寝転がった猛兄ぃが訊いた「譲、大きくなったらお前、何になりたい?」。
 うーん? 考えてみたこともないぼくは答えに詰まる。
「俺は料理人になるんや。那覇に行って修業してレストランやって、外人からいっぱい金儲けするんド」。
 小刀をあんなに上手に使う猛兄ぃのことだ、きっとそうなる気がした。
「ワンとこに来い、ジョー。腹いっぱい何でも喰わしてやるチバ。お前、何食いたい?」
 食いたいものを突然訊かれても、いっぱいありそうなのだが思いつかない。
空に大きな入道雲。タカタローの拳骨が丸々としたジャガイモの塊に見えた。ぼくは一度だけ食べたカレーのことを思い出した。親戚の家で生まれて初めて食べたカレー、入っていたジャガイモのうまかったこと、こんなおいしいものがあるのかと思った記憶。
「カレーライスじゃ、猛兄ぃ」
「カレーか、よし。ジョーのには肉をいっぱい入れてやるからな」
うん。猛兄ぃの言葉に本当にぼくは腹いっぱいになった気がして眠くなった。
 ミーンミーン、ニイニィニィ。蝉に混じって鳥達の声。チンチン。ツイーッ、ツィーツ。キョッキョッ。チャツチャッ。ホォッホォッ。キーキーッ。そこに合唱を壊すかのようなガァーガアー。
「カラスじゃ、猛兄ぃ。魚、大丈夫か?」
「カラス? あらん。ありゃあルリカケスじゃ」、半分眠りかけて猛兄ぃは答えた。
 仰向けに寝たままでぼくが手を引っ張り上げられたのと、爆音を聞いたのは同時だ。
「起きろ! ジョー。空襲じゃ、起きろッ」。
 目を開けると猛兄ぃの真剣な顔、そしてその頭上に低くこちらに向かって海を渡ってくる飛行機が見えた。猛兄ぃは話を大げさに言うことはあっても嘘をつくことはなかった、ましてやぼくを騙したことも。ぼくは猛兄ぃに半身を引きずられ、立ち上がり、腕を引っ張られて走った。何がなんだか訳の解らないまま岩陰に潜り込み、猛兄ぃの顔を見上げると兄ぃは歯を噛み締め先程にも増して真剣な顔つきで飛行機を睨んでいた。
 ぼくは猛兄ぃが戦争ごっこをやろうとしているのかと思った。ぼくらは時々兵隊さんごっこや戦争ごっこをしていた。その頃どこにでも戦争の痕は転がっており、拾い集めた薬莢をぼくは秘かに宝物にしていたくらいだ。 
 頭上を低く飛んで行った飛行機は山の上で旋回をして、再びこちらに向かってくるかのように見えた。
「もっと隠れろ、譲」、猛兄ぃが厳しい口調で言った時、飛行機が落としたものは爆弾ではなく機銃掃射でもない、大量の新聞ビラだった。
 飛行機が港町の方に消えて行ったのを確かめた後、猛兄ぃ、拾ってくる、とぼくは目当てのヤシの木に駆けて行った。
しかし、拾ったビラ、八月八日付のそれには何が書いてあるのか全く読めなかった。猛兄ぃに渡し、二人で見た。
「奄美大島の日本――。米、第三――。――ダレスなんとか長官―――」。大きな見出しで猛兄ぃが読めたのはそれだけで、兄ぃはビラを放り投げた「小さな文字はごちゃごちゃして読めんわい」。潮見の計算が出来る猛兄ぃにも読めない文字があることを知って残念な気はしたが尊敬の気持ちが減ったわけではなかった。
 傾きかけた陽を背に、海からの風に押されるかのようにぼくらは坂道を上って行った。 帰る途中、休憩は一度だけ。その時も猛兄ぃは砂糖黍畑の中に消えると今度はスイカと逆の方向から今度は二個のトマトを持ってきた。トマトを噛りながら猛兄ぃが自分チでないヒトの畑のどこに何があるのか全部知っているようなのにぼくは驚いていた。 
 引っ繰り返したアンピラ袋から落ちたのは、二匹のクルビラと野草。      
「猛兄ぃ、これ何?」「浜牛蒡ちゅうんや、匂い嗅いでみぃ」。
 ぼくが眠っている間に集めたものらしかった。
「持って帰るか? ジョー」「いらん。変な匂いがする」「バカやなぁ。大人になったらこんな匂いが好きになるんド。湯がいて酢味噌付けて食ったらうまいんや。なら、魚、持って帰れ」。
  その晩。煮付けにしたクルビラを母と食べた。ご飯の中の芋を箸で摘んだ母が言った。
「猛ちゃんと一緒だったんか?」「うん」
「一人では危ないからナ。それに次からは草履履いて行け。裸足は足切るからノ」
 ビラのことを訊くと、母は知っていた。
「アメリカのダレスちゅう国務長官が奄美を日本に返すって約束したらしいチバ」「日本に? いつ?」「そりゃまだわからんチ」「日本に戻ったらどうなるん?」「自由に行き来ができるようになるチバ。B円じゃなく日本の金を使えるようになる。そしたらキビも紬も日本で高ぅ売れる。ジョーも日本の学校に行けるようになる。今からは学問ド」

 ぼくはその夜、考えていた。日本に行って学問してどうなるんだろう、猛兄ぃはそれでも沖縄に行くのだろうかと。
 翌日夕方、油ソーメンを食べた母は、寄り合いじゃからと出かけて行った。
間もなくして猛兄ぃがやってきた。
「集会所に行こう、ジョー。今日は夏祭りの話し合いじゃろ、景品の話が出るハズじゃ」
 猛兄ぃが相撲大会の景品を楽しみにしているのがわかった。
 しかし、集会所の窓から覗いたぼくらが見たものは小さくなっていた猛兄ぃの母だ。縮こまらせていたのは凄い剣幕の一人のおやじ、分限者(財産家)で村の有力者だった。そいつが怒鳴る「スイカ泥、猛、シシ坊」。それでぼくらはすべてを察した。
 猛兄ぃの母親の縮んだ姿を見るに耐えかねた時、申し訳なさそうに頭を下げたのがぼくの母だった「私ヌ家の子も一緒やったけぇ」。
 取り成す声が起きた。最初は小さく、そして次第に大きく。「本土じゃこんな諺があるらしいド。『米の飯と子供は手に余った方がいい』チナ」「アゲ、俺は似たような言葉を沖縄で聞いたっさ」。
 笑いが話題を打ち切った。が、帰ろうと言った猛兄ぃは屁ヒリ虫の屁を嗅がされたような歪んだ顔をしていた。
 翌朝早く、ぼくは猛兄ぃにこっそり起こされる。
 猛兄ぃは山羊を捕まえていた。首に縄のついたそいつは猛兄ぃの家のものではなかった。
 猛兄ぃが声を顰めてぼくに命じた「五寸クギあるな? 譲、一本持っチ来ちくり」。 
 アンピラから空き缶を取り出した猛兄ぃは、大きな音を起てぬよう慎重にクギと石で五個の缶の底に穴を開けていく。山羊の腹に太い縄を巻き付け、次に缶の底に一本ずつ細い縄を通して結ぶと、地面に届くのを確かめて端っこを山羊の腹縄に順に結んでいった。 

「缶持て! ジョー」と言うと、ぼくに缶を持たせて山羊の首を引いて歩き始めたのだ。
 着いた所は分限者の家。大きなサンゴの石垣に四方を囲まれた家の戸口で猛兄ぃが言った。戦争ごっこの時の開戦を命じる大将のようにキッパリとした口調で「譲、缶離せ!」。
 ぼくが缶を落としたのと猛兄ぃが山羊の尻を蹴ったのは同時だった。メェーッ、大きな悲鳴をあげて山羊が屋敷内に駆け込んだ途端、腹に括り付けられた五個の缶が地面に叩きつけられて騒音をあげた、カランカラン、カンカン。驚いた山羊の悲鳴は一層大きくなる、メェーメェッ。カランカラン、メエッ。経験したこともなかった恐怖に駆られた山羊は一層激しく逃げ惑い、騒音は大きくなるばかり。早朝から屋敷を襲った恐怖に他の悲鳴が加わった。ブイッブイッ。ブヒヒヒヒーン。ココッコオッコッ。そしてメエーッ、メエッ。
 予想以上の出来の大演奏にぼくらは腹を抱えて笑いこけた。走って逃げながらも笑い続けたのだった。
腹を減らし、逃げこんだ山から下りたのは昼過ぎ。母はいない。ぼくは煮芋を頬張ると寝転がり、すぐに寝入っていた。だが、起こしたのも猛兄ぃだ。山羊の家に謝りに行くと言う。ついて来いと言われた訳じゃないが兄ぃの後ろからついて行った。
 門から入ると甘い匂いがした。二人並んだ戸口に出てきたのはあのオヤジだった。ごめんなさい、二人で口を揃えるように言った。
 オヤジが口を開こうとした時、中から奥さんが出てきた。   
「アゲ、謝りにきたト? 感心ネ」と言うと「あんたは中」と、オヤジを奥に押しやるようにして「盗ドする子は可愛いチ言うが。あんたも若い頃はしたろ」。
 そう言って、忙しかとバ、と再びオヤジの肩を押しやった。
(オヤジより強いのか、このオバサン)。ビックリしているぼくらにおばさんは立て続けに言った「猛ちゃんはスイカの小さなのを持っていったトよね。解っとるバ。大きなのを喰い残しちゃつまらんもんね。トッていいとヨ、捨てんほどにナ」。
 忙しかったのかそれとも元々早口なのか、おばさんは一気にそう言ったのだが、意味の通じたぼくらは同時に肯いている。
待ッとき、と引っ込んだ奥さんが出て来た時、二個の餅を持っていた。
「ハイ、本土復帰おめでとう。今からはあんた達の時代よ、頼むド。つきたてや、そのまま食ビ」と、紅く柔らかい餅を一個ずつ呉れた。  
 噛りながら帰る途中、猛兄ぃが訊いてきた「譲、お前、一番の子分やるんか?」
 続けるんか? と聞こえたぼくは最初の時と同じようにためらいなく答えた、うん。それから訊いた「猛兄ぃ、二番目は?」。
「要らん」と、ぶっきらぼうな答え。それでもぼくは満足する。
 猛兄ぃが歌いだした。
♪今日もこうして喰えるのは ダレスさんのおかげです 
オクニのために戦ったダレスさんよ ありがとう
 ぼくも声を合わせた〈ダレスさんよ、ありがとう〉。ダレスさんが誰で何をする人か知らなかったが、昨日から大人達がダレスさんという名を口にするたび顔を綻ばすので、今日のこともダレスさんのおかげのような気がした。猛兄ぃが歌い始めた『ダレスさんよありがとう』は、その後みんなの間に広まっていった。

 ミーンミーンミーン。途切れることのない山彦のようにセミの鳴声が松林に響いていた。小鳥の声は時たま混じるだけ、ピイピイピイ、チッチッ。あまりの暑さに鳥達もくたばっているのかも知れない。木々もおっくうそうでそよとも動かなかった。
 猛兄ぃの家を訪ねたが誰もいない。皆で浜に下りたのだろうかと諦めて帰りかけようとした時、オーイ、声がした。遠くから呼び掛けるような声を探して見つけたのは裏庭にある掘りかけの井戸。猛兄ぃの父親が何年も掘っているという井戸の底に一人、猛兄ぃはいた。「おい、ジョー。降りてこい、ここは涼しいぞ」。
 一本の縄が、水を求めて井戸を覗く蛇のように近くの蜜柑の木から吊り下げられていた。
「縄にぶら下がって来。ホラ、横に足をかけるところがあるやろ」
 縄をつかみ、慎重にぼくは降りて行った。随分深く背丈の十倍以上降りたような気がする。だが十メートルくらいだったのだろう。底はヒンヤリとしていた。兄ぃが白い歯を見せて言った
「横を触ってみぃ、湿っとるやろ。あと少しや、あと少し掘ったら水が出てくるんド」
 ぼくは猛兄ぃの言葉を上の空で聞いている。天井の穴を見上げながら、(今、井戸が崩れ落ちたらどうしよう。水が噴き出してきたらーー。誰かが縄を解いてしまったらーー。気づかずに上で蓋をしたらーー)。次から次に怖い思いが襲ってきた。(そしたらこのま
ま暗い穴底で死んでしまう)。ぼくが恐怖で立ち竦んでいるのを察したのか、「上がろう、譲」猛兄ぃが言った。
 猛兄ぃが先に上り、一人残されたのも恐かったが、兄ぃが引っ張ってくれた縄に引きずられるように上がった。背中を丸めて肩で息をしているぼくに猛兄ぃは言った
「どうだ、怖かったか、譲。冷えたろ? 今度は肝ダメシに連れていってやるからな」。
 その肝ダメシの夜、逆に恐怖に怯えた猛兄ぃの顔をぼくが見ることになるのは半年後のことだ。
 夏祭りの夜、相撲大会の主役は間違いなく猛兄ぃだった。小学生の部で五人抜きの優勝をして中学生にも勝ったのだ。ガツンととぶち当ったあと上手投げの掛け比べがあり、土俵際、猛兄ぃがうっちゃりで中学生を見事に投げ落とすと大歓声が沸き起こった。兄ぃの母は立ち上がって大げさに団扇を叩き、その格好がおかしくてみんなは笑った。分限者の奥さんも大きな拍手を続け、隣ではあのオヤジがコップ酒を片手に笑みを見せていた。
 相撲大会も終わり間際、猛兄ぃが紙袋を持ってやってきた。
「ジョー、お前、鉛筆だけやろ。明日ワンの賞品、分けてやるチバ。今日はご先祖様にあげなきゃならんから」。
 翌日、猛兄ぃは真新しいパンツを穿いてきた。
「昨日の賞品ド」、一回戦負けのぼくに気を使ったのか少しだけ自慢気に言った後、お前の分、とノートを呉れた。自分の弟や妹の分は? と訊こうとして言葉を引っ込める。「一の子分だけや」、兄貴がキッパリとそう言ったからだ。
 薄い一冊のノート、そいつをぼくは手垢で黒くなるまで使う。
 大きな台風が島を襲った秋、台風に包まれた夜の僅かな時間、ぼくは星空を見て思わず歓声をあげる。台風の目に入ったのだ、と起きてきた母が教えてくれた。
 翌日、再びぼくは歓喜することになる。猛兄ぃが喚びにきた「海に行こう、袋持って来い、譲」。
「高波に気をつけろよ」との母の声を背に下りて、見たものは怒涛逆巻く海。いつもは紺碧の海が激しいうねりで、大量の塩を掻き混ぜたように真っ白になっていた。
 歓声をあげたのは、ぼくらの立つ砂浜から沖に伸びた岩礁の先端、そこがうねりの攻撃を受けるたびに大きな飛沫をあげていたからだ。バシャーン。小学校の校舎の倍くらいもするような高い飛沫がバシャーン。オオーッとぼくは歓声をあげた

「凄いね! 猛兄ぃ」 「あらん、まだまだ。ワンはもっと高いのを見たことあるチバ」。
 バッシャーン。オーッとぼくは歓声をあげる。マダマダ、と猛兄ぃが打ち消す。
「オーッ」「マダマダ」。それが繰り返されるたびにぼくは悲しくなっていった。飛沫が打ち消される事が、猛兄ぃからぼく自身が認められていないような気になっていったのだ。ぼくの声は小さくなる。飛沫も次第に小さくなっていくように思えたその時、大きなうねりが岩を捕えた、ドッドーン。ヨシッ、猛兄ぃが言った。ヤッタァ、ぼくは両手をあげて叫んだ。
 大波の波頭に追われるみたいに砂浜を駆け上がった後、二人で打ち上げられた海藻を集めた。黒、緑、赤、見たことのない海藻を、みんな食えるんやが固いのはダメや、そう言いながら猛兄ぃが選り分けてくれた。それから海藻の袋を肩に担いだ猛兄ぃが言った「昼からは山に行こうな、ジョー」。
 そして約束通り、昼過ぎに猛兄ぃは袋を手に喚びにきた。山の中で、ぼくらは台風の置き土産の椎の実を拾い集める。先に来た人がいたかのような足跡があったがそれでもたくさん拾った。  
♪山鳥鳴いて 秋を知る
 歌い始めた猛兄ぃの声は変だった。ところどころで妙にかすれるのだ。
「猛兄ぃどうしたん? 風邪な?」「あらん、なんか変なんじゃ」
 潰れかかったような声で猛兄いはかまわず歌い続けた。それが兄ぃの高い声を聞いた最後だ。声代わりの時だったのかと今思う。
 帰り間際、猛兄ぃは袋を比べ、自分の袋から実を掴んでぼくの袋に入れて同じくらいにした。一升舛に二つ近くあった椎の実をその夜、猛兄ぃの言ったとおりに焼いて食べる。  
 囲炉裏端で母が焼いてくれた椎の実は香ばしくカリカリしていて、焼き芋の何倍もおいしかった。夢中になって食べているぼくに自分も食べながら母が言った。
「あんまり食べるなヤ。味を憶えると親の死に目に会えんちゅうからナ」「どういうこと? 母さん」
「食べることに夢中になって、親の死も気付かんちゅう意味じゃ」
 ふーん。それでもぼくの口は止まらない、食べながら別のことを考えていた。(もっと大きな台風がこないかな、もっともっと高い飛沫をあげて猛兄ぃをビックリさせるヤツ。そしてもっともっと椎の実を落とすヤツ)。
 本当にその時、台風に感謝していたのだ。猛兄ぃと一日中一緒にいられたのだから。
 翌日、ぼくは猛兄ぃを再び山に誘った「椎の実まだあったド。行かん? 猛兄ぃ」
 ならん。兄ぃは素気なく拒絶した「残りは山童の分じゃ」。

 猛兄ぃが声を顰めて喚びにきたのは冬休みになってから。
 山から下りてくる北風が雨戸を揺らしていた宵、ぼくは眠ろうとしていた。
「ジョー、寝たか?」、兄ぃの声に飛び起きて、暗い外に出ると昼間の雨は止んでいた。
 ランプを持った猛兄ぃが言った「約束の肝だめしに行くチバ、カンテラあるか? 草履も履いて来」。
 灯油ランプを持ち、ぼくは兄ぃの後に続いた。肝だめしと聞きはしたが恐い気持ちより、猛兄ぃと一緒にいられる嬉しさの方が勝っていた。後に続きながら訊いた「どこ行くん? 猛兄ぃ」。「ハドゥンガマ」振り返らずに猛兄ぃが言った。
 そのガマはぼくも知っていた。港町の近くにあるその洞窟には恐い噂があって、ガマの前を通る時には子供達は走って通り抜けるということだった。ガマの中に入りはしないだろうとぼくは思った。暗く深いその穴に入ったら大人でも生きて帰れない、なぜならそこには凄いオンリョウ達がいっぱいいて、取り憑いて殺してしまうのだと聞いていた。
 一時間近くの山道を歩いた。ザッザッと落葉を踏みしめる音に警戒したか、鳥か獣なのか騒めきも聞こえた、シャッシャッ、ホオホオ、グェーグェ。ウッウー。オーイオイ。ケッケッケー。
 猛兄ぃが声変わりした低い声で歌った。
   ♪鳴くな夜明けのォ  旅の鳥ィ
 ケンムンの森に入った。ケンムンは恐ろしい妖怪だ。猿みたいで体はぬるぬるして赤い毛むくじゃら。手足は長く猫の顔をしていて、頭に皿を乗せている。そいつにとり憑かれたら最期、たちまち生き肝をとられてしまうと大人達でさえ恐れているのだ。
「キョロキョロするなよ、譲。ケンムンの灯を見たらシマイだからな」
 低く押し殺したような猛兄ぃの声が逆に頼もしく思えた。キョロキョロするなと言った猛兄ぃが、森を抜けると今度は上を見るなと言った。そこはヘチの岩の近くだった。昔、女たちが子供を堕ろす時、そこの岩から翔んだのらしい。
「ここは赤子のたたりがあるんじゃと。黒い大きな煙の輪が自分の上に来た時に見上げると吸い込まれて、赤子の霊に喰われるんじゃ」
 息を押し殺し下向いてヘチを駆け抜けると川の流れがした。水を飲んで休憩して、再び坂を登った先に小さな神社があった。猛兄ぃが神妙な顔つきをして言った
「ここはナ、交尾の神様なんじゃ。この前を通る時は交尾のマネをせんといけんチバ」
 言うなり猛兄ぃは腰に両手をあて、何度か前後に突き出した。終ると「ジョー、お前も!」と促した。
 ぼくが兄ぃの見真似で腰を振り出すと猛兄ぃは数えた「一、二、三、四――」。
 体操をやっているみたいでおかしかったが真剣な猛兄ぃの顔を見ると笑う訳にはいかず、おかしさを噛み殺した。人間の交尾ってこうやるのかと初めて知った気になった。
「八、よし、終わり」。猛兄ぃの合図で再びランプを持って歩きだした時、訊いてみた
「さっきみたいな事しないで、あそこを通ったらどうなるん? 兄ぃ」
 猛兄ぃは真剣な顔を崩さずに答えたのだ「一生、交尾ができんチバ」。
 歩き始めて間もなく、思い出したように兄ぃが言った
「ジョー、交尾の話をしてやろうか」
 振り向いた兄貴の顔から先程の真剣さは消えていた、どちらかと言うと笑顔に近かったような。うん、と勢い込んで答えた。
初めての話にワクワクするぼくに、勿体ぶるように猛兄ぃはゆっくりと話し始めた。
「生き物たちが交尾を知らんかった頃の昔の話チバ。オスとメスがおったんじゃがナ、することもなくヒマでしょうがなかったチバ。そこで神様に相談に行ったら神様が言うた。せっかくオスとメスを作ったんじゃから夫婦になって交尾などして楽しめや、チ。じゃが、交尾チ言われてもみんなやりかたを知らんかったチ。で、訊くことにしたンド。小さい順でナ、魚や鳥からじゃったチバ。
 一緒にたくさん来たんで、面倒臭いチ思ったか神様はそいつらに春夏秋冬のどこかで一ぺんだけしろチュウた。しろチュウのは交尾をよ。どこかで一ぺんチ言われたがノ、そいつらは寝起きの春にするのが多いチバ、待ちきれんとヨ。
 猫と犬にはこう言うた。ヌー達ゃ春と秋の年に二へんじゃ。次に兎に言った、年に三べんして三十日で子を産めチ。次の狸と狐は秋じゃ、六十日で子を産めチ。そン次の鹿は、秋にして二百と二十で子を産め。
 牛も同じじゃ、秋にして二百と六十で子を産め、チ。
 次は馬の番じゃったが、遅れてきた鼠が前に出てしもうたんじゃ。そしたら神様は鼠には気前が良かったチバ。お前は大黒天サンの使いじゃから大変じゃナ、よし、年に八ぺんしろ、そして二十日ごとに子を産め、チ言うたんじゃ」
 猛兄ぃが一つ一つよく知っているのにぼくは驚きながら聞き入っていた。
「神様と鼠の話を聞きながら馬は楽しみに待っとったのヨ。鼠で八ぺんならみんなが羨むこのモチモノの俺さまは、チな。そしたら神様は馬には愛想無しじゃったチ。馬、お前は夏、年に一ぺんしろ、そして三百三十五日で産め、チ。途中まで聞いて馬は怒ったンド。鼠だけ贔屓じゃ、ワンを馬鹿にすんな、チ、馬は神様を思い切り蹴って逃げたチバ」。
「蹴られた尻が痛くてナ、神様がこすっていなさる時に後ろから訊いたものがおったチ。  あのう、ワン達はどうすれば? チナ。

 尻が痛いもんでやる気を無くしチョッタ神様は、振り返りもせんで言うたチバ。好きにせぃ、チ。それが人間じゃったんド」
 そこで猛兄ぃは振り向き、念を押すように言った
「それから人間は勝手に交尾をするようになり年中赤子を産み落とすようになったンド」
 ぼくは猛兄ぃの話をすべて信じた、憶え込もうとしたほどだ。猛兄ぃは嘘を言ったことは無かった。神社前での交尾の姿勢を思い出しながら今日はいいことを学んだ、心底そう思った。
 猛兄ぃの声の調子が変わった時、港町、そしてガマが近付いていた。
「あそこには敵兵の怨念があるチバ」。 米兵と兄ぃが言わなかったのは、アメリカ人を父に持つぼくを気遣ってくれたのだと思った。その話はぼくも知っていた。戦争中、高射砲で打ち落とされた敵の飛行機から落下傘で兵隊が落ちてきた。傷ついた敵を人々が棒や石や竹槍で半殺しにして、ガマ穴に投げ込んだという。そこを一人通るとヘルプミーという声がして、聞いたものは穴に引きずり込まれるという話だった。   
 まだあるんド、猛兄ぃはぼくを恐がらせようとおどろおどろしげな声まで作って続けた
「日本の兵隊もあそこで死んだんじゃ、と。不時着に失敗した飛行機乗りがいた。その兵隊さんは自分の大ケガを恥じた。隠れるようにガマに行って自分のピストルで頭を射った。脳天に穴の開いた頭蓋骨があるちゅう話や」
 猛兄ぃの期待に応えようと恐がる素振りをしてぼくは神妙に聞く。
「まだあるチバ。戦争に負けたことを知った兵隊達がガマに篭もった。捕虜になることを恥じた何人もの兵隊さん達はそこで自分で手榴弾を投げて死んだんじゃと」。
「バラバラになった骨たちが今も呼びあっているそうじゃ。『いいか?』『おう』ちゅう騒めきを聞いた者も引きずり込まれて、道連れにされるちゅう話ド」
 ガマに近付いた時、確かに聞こえてきたのだ、微かな人の騒めき、オウオウと呼び掛けあうような声。ぼくらは足を竦め一歩も身動きできなくなり、黙って顔を見合わせるしかなかった。オウオウ、とガマの方から聞こえてくる声は止む気配はなく、逆に次第に大きくなっていくような気がしていた。引き返せばその途端、後ろから何かが伸びてきて引きずり込まれそうな恐怖にぼくらが戦いていた時、突然ドーンと大音響が上がり、立っていた地面や辺りの木々を空気を震わした。一発、二発、三発、ドーン。続いてウーウー、サイレンらしい音が大きく響いてきた。
 その時、明るく照らしだされた猛兄ぃは今まで見たこともないような引きつった顔をしていた。兄ぃの捻れた口が叫んだ「焼夷弾や、空襲じゃ」
 言うなり、ぼくの手を掴んで今来た道を駆け始めた。間もなく手は離れはしたが、ぼくは懸命に猛兄ぃを追う。トートガナシ、トートガナシと祈り言葉を叫びながら走る猛兄ぃを、待ってと呼び止めることはなかった。猛兄ぃは最初あまりにも全力を使い果たしたのか、それともぼくのことを気遣ったのか、付かず離れず走り続けた。
 交尾の神社の前で、猛兄ぃは走りながら二回腰を振ったように見えた。二回でいいのか、真似てぼくも走りながら二回腰を振った。猛兄ぃの腰振りの様子を思い出して笑いが出そうになった。だが笑う訳にはいかない、口を閉じたまま笑った、ウッウウ。声が嗚咽に聞こえたのか悲鳴に聞こえたのか、猛兄ぃが何度か振り向いて訊いた「大丈夫か、譲」、そこはもう半分の道のりを越えていた。一度も休むことなく駆け続けて村に戻り着く。水瓶から酌んだ水を杓で一気に飲み干した。
 起きていた母が、どうしたん?と訊いてきた時、ぼくは猛兄ぃの緊張の口調が移ったように言った「空襲や。焼夷弾と、サイレンがなった」
「焼夷弾? サイレン?」。首を傾げた母がすぐに笑顔になった。
「焼夷弾じゃなくて花火やったろ。お祝いのサイレンや。今晩の十二時に本土復帰したんよ。町でお祝いの式があったろ。行ったんか」
「あらん。猛兄ぃが恐がった」「何を?」。「花火チ思う」、ぼくは言った。
「猛ちゃんが? おかしいねぇ、あの子が」
 母はいかにもおかしそうに笑った後言った「猛ちゃん、幾つ上だった?」「五つじゃ」
「すると十六年生まれやね。敗戦の年は四歳か。空襲のことを憶えているか知らんが、恐い思いをしたことは確かやろ。敗戦の年、三月からは島も殆ど毎日空襲に遭って、半分が焼け出されたチ聞いたバ。猛ちゃん、足を火傷しとるやろ。そん時のものちゅう話や」
 初めて知る兄ぃの火傷の話を黙ってぼくは聞く。
「ワンはその時、沖縄におった。沖縄はこの島以上じゃった。『鉄の暴風』チ云われるくらい酷い爆撃の連続やったト。けど、飛行場のあったこの島も同じように狙われたトバ」。 
 明日はお祝いの式があるからと言って、床に入った母の寝息を聞きながらぼくは寝付けずにいた。目蓋を閉じると花火の明かりの下で引きつった猛兄ぃの顔が浮かんでは消えた。
 翌朝、母に言い付けられて戸口に日の丸の旗を立てながら、ぼくはチンポが痛くなっていた。小便も出ない。交尾の神様が怒ったのかも知れない、帰り道に駆け抜けたのだから。
 母には言えなかった。交尾が一生できない? 言いようのない不安に付き纏われそうな気になっていた時、昨晩の恐怖など忘れたかのような元気な顔で猛兄ぃが現われた。
「猛兄ぃ、ワンはチンポが痛ぇ、小便もでないんド、交尾もできなくなるんやろか?」
「ワンはどうもアランど」、答えた猛兄ぃはぼくの顔を覗き込んで「バァに聞いてみるチバ。心配すな」 そう言うと走って帰って行った。今は寝たきりの猛兄ぃのバアちゃんは昔、ユタ神様と呼ばれた生き神様だと聞いていた。昔の神様は今も強いんじゃろうか? 不安は夕方まで続いた、猛兄ぃが戻ってきたその時まで。
 兄ぃは両手に茸を持っていた「アダンに生えているこいつが効くんじゃチ。煎じて飲め、ジョー。クリスマスプレゼントじゃ」。
茸湯を飲んだ翌日、嘘のように大量の小便が出た。痛みもない。交尾の神様より昔の神様の方が強かったのか、それともキリスト様の方が強かったのか、それはもうどうでも良くなっていた。ぼくは他人が見たらつられて笑うだろうくらいに笑い続けたのだった。
「交尾じゃ、交尾。へへへへ」。

 年が明けて、翌、昭和二十九年。
 猛兄ぃの父親が那覇から引き上げて島に戻ってきた。金を稼いで来たとも逆に失業したとも噂が立った。だが沖縄に暮らしたことのある母は詳しかった。
「公職追放の巻き添えをくったらしいド。沖縄にいた奄美ン衆は『非琉球人』として仕事を取り上げられたらしかバ。四万くらいの人が島に戻って来たちゅうことじゃ」
 憤慨して猛兄ぃの父に同情した。よくは解らないままぼくも母の言葉に同感していた。
「アメリカーは勝手じゃ」。
 最後に母がそう付け加えた時、赤子のぼくと母を置いて本国へ帰って行った父への恨みが込められていたかどうかは解らず、その言葉をぼくは複雑な思いで聞いていた。

 「父と馬を飼うんド」と、やってきた兄ぃは自慢気だった、嬉しそうだった。
 体格のいい堂々とした牡の、鼻筋に白い線の入った栗毛の馬が猛兄ぃの家に来たのはウグイスやヒバリが騒ぎ始めた三月。猛兄ぃが小学校を卒業する頃だ。

 本土に倣って奄美も六三三制の学校に移り、兄ぃもできたばかりの中学校に進学したはずだ。でもぼくが猛兄ぃの姿を見る時はいつも働いていた。父親と馬と一緒だった。荷車でキビやキビ滓や芋や堆肥の運搬をしていた。一人で鋤を曳いて畑を起こしているのも見た。会う時猛兄ぃはいつも片手を挙げてオスと言うのだった。家にいる時は馬小屋の掃除や堆肥作りをしていたり、餌となる芋蔓や藁を切っていたりで、遊ぼうと言えなくなっていた。
「夏休みになったら遊ぼうな、譲。海に行こう」申し訳なさそうに猛兄ぃは言った。
 猛兄ぃの家の井戸に被せられていた覆いが取り払われたのは梅雨が明けてから。間もなく水が湧き井戸が出来た頃、屋根がかけられて釣瓶もついていた。冷たく甘い水だった。
 譲、食ってみろと、猛兄ぃがザルに入れた豆腐を持ってきたのは井戸が完成して数日後。 できたてド、今すぐ喰え、と急き立てられて醤油を垂らして食べた豆腐のうまかったこと。温かいそいつは今まで食べた中で砂糖菓子と同じくらいおいしいと思った。
「ホントにおいしいわ、猛ちゃん」と言う母に上機嫌な笑顔を見せ、「今度、豆腐屋をやるんや」そう言って兄ぃはスキップしながら帰って行った。それから朝、リヤカーで配達して廻る猛兄ぃの姿を見るようになる。豆腐屋は評判になった。評判になったのがもう一つ。 猛兄ぃは小学校の時のシシ坊から働き者、孝行息子、そう呼ばれるようになっていた。
「ワンも豆腐屋やる」、何の気なしにそう言った時、母が厳しい顔を見せて言ったのだ。
「ならん、今からは学問ド、勉強せ、ジョー」。そしてその夜、母はぼくに頼み込むように言った「譲。島にはヤンキチシキ飯ちゅう言葉がある。ヤンキチシキ飯とはな、屋根の梁が椀に映るような薄い粥を親は啜っても子に学問させよチゥ意味じゃ。今からは学問の世の中や。本土に行って勉強せ。母ちゃんも気張るから」。

 ぼくはその夏、毎朝早起きして空を見る。海に行こうという猛兄ぃの誘いを待っていた。嘘をついたり約束を破る猛兄ぃじゃなかった。しかし入道雲は日増しに空気が抜けて萎むみたいに小さくなっていき、夏休みも終りが近づいていた。
 ある朝、元気を取り戻したような入道雲が薄暗い山際にくっきり姿を現わした。風はほとんどない。今日だ今日、猛兄ぃが来る、そんな予感がした。着替えをすませ縁側に腰を下ろして戸口を見続けて、石垣の向こうに馬の背中を見付けた時、ぼくは飛び出している。
馬には木の大きな盥が、反対側には縛った網が括り付けられていた。
「借りてきたんド」と、満面の笑みをみせて兄いが言った。
 鉛を溶かしたみたいに穏やかな海に着くと、猛兄ぃが浜で荷を下ろしながら言った「油凪ぎじゃ、火を起こしてから追込みするぞ」。
 ぼくは何すればいい? 泳げない、そう言おうとした時、猛兄ぃが先に言った 「ジョーは、石を投げるんじゃ」。
 浮かべた盥の中から兄ぃは胸の高さほどの水面に弧を画くように網を静かに下ろしていき、長さ二十米ほどの追込みの仕掛けができると二人で魚を追った。ぼくは海の石を拾って投げた、初めは網に遠い位置からだんだん近くへ。そして兄ぃは泳ぎ、海面を叩いて魚を網へ追った。
 小魚ばかり、それでも三十匹ほどの色とりどりの魚が網に掛っていた。外しながら猛兄ぃが教えた。ベラ、ヒゲじいさん、クルビィラ(雀鯛)、ボラ、シチ(メジナ)、ヤチャ坊(カワハギ)。
 場所を変えて四回追い込み、百匹を超えた獲物のうち大きいのを選んで猛兄ぃが捌き、オキ火で焼いた魚は微かな塩味がした。上手に焼けた芋が昼飯で、腹は十分になった。  それから昼寝をして西の柔らかい風が海を渡ってくる頃、ぼくらは岐路につく。
 ♪エンヤーサリホノヨー、ヨイヤー ヤーラーエンヨーホー。
 掛け声なのか歌なのか解らんのを猛兄ぃが歌ったのは帰り道。
 手綱を引きながら兄ぃは「父が島唄を教えてるんヤ」、照れたように言った。
 猛兄ぃが半分分けしてくれた魚は母が油で揚げてくれた。海辺で焼いたのより一層おいしく、ぼくは粟ご飯を何杯もお代わりする。
 
 ぼくには優しかった猛兄ぃだったが、中学では反抗的と見られていたらしい。
 噂を聞いた。『私は犬です』という方言札を首に掛けられようとした仲間に代わって、激しく先生に抗議したらしい。殴ったという話や罰札は猛兄ぃ本人のことだとの話もあった。先生に謝らずにそれから学校に行っていない、とも。
 どれがホントかは解らなかった。ぼくらの小学校でも標準語を使いなさいと先生達がしつこいくらいに注意し始めていた頃だ。
「猛兄ぃ、島唄を習っとるチ」。そう言ったぼくに、しばらくして母が教えた。
「そうか、唄半学チ、言うからナ」「どういうことかい? 母さん」
「昔はナ、島唄の文句で躾とか生き方とか教えられたト。歌が勉強、じゃっから唄半学。猛ちゃんのお父さんも考えるところがあるんやろ」。母はそう答えたのだった。

 

 馬に乗せて貰ったことがある。学校帰りに出会った猛兄ぃは裸馬に乗っていた。
「ジョー、乗るか?」そう言うと畑の土手を指差した「あそこへ行け」。      
 馬の背ほどもある土手から猛兄ぃの乗る馬の前方に跨がり、鬣を掴むと馬はゆっくりと歩き始めた。大人の背丈以上の高さ、そこから見えるいつもと違った風景。ぼくは大人びた気持ちになった。帰るなり母に言った「ワンも馬が欲しい」。父のいない、小学二年の自分の家で馬が飼えないことは解ってはいたが。
 ならん、一言で拒絶した母はその夜、ぼくに諭すように言った
「『赤しょうびんになるな』チ、聞いたことはないか? 譲。クックレは鳴き声もいい。見た目にも綺麗じゃ。自分が一番じゃチ自惚れたらそれでシマイじゃちゅうことド。猛ちゃんのことを言っとるんじゃ無いド。お前には猛ちゃんは何でもできる人に見えるかも知れん。じゃが、大人から見ればまだまだ童じゃ。大人にも何でもできる人はおらんとヨ。じゃから自分が一番と思うなチゥ戒めヨ。
 お前が髪や目や肌の色で人と違う、自分は人より劣っちょると思うたら大間違いや。第一、何が一番かわからんじゃろうが。考えてもみろ、クックレが一番の鳥で、餌取りも一番で逃げるのも一番じゃったら、世間はクックレばかりになっているはずド」
 翌日の夕方、母はどこからか子山羊を引いてきた。そして言った
「譲、お前の山羊じゃ。乳離れしたばかりだからナ、餌やりを忘れるな。お前の責任ド」
うん、喜び勇んでぼくは答えたのだった。
 しかし、不安だった。鎌を持って草刈りに行ける訳じゃない、毎日散歩に連れていって草を食わせるのだ、忘れた日にはどうしよう? その時、名案が浮かんだ。名瀬の立派な人、泉ホーローという人が去年、奄美の日本フッキをキガンしてダンジキしたという話がぼくら子供達にも伝わっていた。五日も飯を喰わずに平気だったらしい。その人の名を山羊につければ一日くらい餌を喰わんでも平気だろうと考えた。
 ホーローと名付けた子山羊は元気だった。ぼくが遊びほうけて餌の散歩を怠けても死ぬことは無かった。でもそんな日は夜中に激しく鳴いた。寂しげな鳴き声に、小学校にあがる前の自分、「母さん、何か呉れ」いつもそう言って食い物をねだっていたぼくを思い出して胸が痛んだ。
 ホーローは一年もたたないうちに再び母に引かれて行った。仕方がないと思った、山羊は売られるか喰われるかの運命だものと。
 ホーローが去った日、母はたくさんの小麦粉と白砂糖と卵と油を仕入れてきた。それらを捏ねて杓子で油の中に落とすと卵ほどの丸い砂糖菓子が浮かんできた。アンダーギーという初めて食った甘いドーナツをたくさん作ってとぼくはせがむ。ホーローを育てた自分にその権利はあると思った。猛兄ぃの家に持って行くと、勇二や弟妹たちが砂糖に群がる蟻みたいに集まってきたが、兄ぃの分をちゃんと残して喰う子蟻達にぼくは感心し満足していた。
 その頃にはもう猛兄ぃの父親は島にはおらず、また那覇に稼ぎに行ったという話だった。
 忘れていた旧い約束を兄ぃが忘れていなかったことを知らされたのは土曜の昼下がり。
 一匹の牡山羊を連れて猛兄ぃは誘いにきた。
「どこ行くの? 猛兄ぃ」、訊くと兄ぃはニコリともせずに言った「交尾」。
 初めて見ることになる山羊の交尾への期待で、ぼくの動悸は高鳴った。  
 昼寝で静まる家々を忍ぶように廻り、ある家で止まると「いた、あれじゃ行けッ!」。兄ぃは勢いよく山羊をけしかけた。牡が牝山羊の発情している赤い尻を嗅ぎ始めた時、ぼくは自分が初めての交尾に挑むかのように息が詰まった。メェ、突然一鳴きすると牡が牝に馬乗りになった。途端、白く長い棒が牝の尻に突き刺さるのを見る。
 その翌日。「手伝ってくれ、譲」と猛兄ぃがやって来た。昨日の牡山羊を連れて袋を手にしている。また交尾か、と思ったが海に行くと言う。
 途中で刈り取った草を袋に詰め、海に着くと兄ぃは草と一緒に縄を取り出した。
「何するンか? 猛兄ぃ」訊くと
「こいつを潰すんヤ。大丈夫チバ、父と何度もやったから」
と、平然と言う。自分に何ができる? 血みどろになったこいつが角を振りかざして向かってきたら、とぼくは怯んだ。与えた草を無心に食い始めた山羊の両足に猛兄ぃは軽く縄を巻きながら、ぼくの怯えなど無視し優し気な声で山羊に語りかけた
「交尾をしたら臭くなるからさせるなチ聞いとったんじゃが。昨日させてやったから満足したろ? 良かったか? 憶えたんやから、あの世じゃ何度も交尾しろナ」
 続いて厳しい顔で振り向き様、言った「後ろ足を掴め。倒せッ、ジョー」。     
同時に猛兄ぃは右手で山羊の首を掴むと首投げを打つみたいにして山羊を横倒しにした。アッという間の早業だった。そしてすぐさま左に隠し持っていたハンマーを右に持ち替えると山羊の頭を力いっぱい殴っていた。アーメンで二回叩いた。南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経で四回叩いた時、山羊の口から大量の涎が流れ、痙攣が始まり、開いたままの目蓋がピクピク動いた。それから首に包丁で傷をつけると、ぼくに足を持ち上げてくれと頼んだ。持つと傷口から勢い良く血が吹き零れた。白い砂に赤い血がいっぱい吸い込まれた後、火にかけると腹がパンパンに膨れていった。毛を棒でかき落とすと皮は黒く焼け、山羊は綺麗な丸焼きになろうとしていた。その頃にはぼくの恐怖感はすっかり消えていた。
 しかし、水溜まりの近くで猛兄ぃが腹を切り裂いた時、再び悍ましさにぼくは襲われる。
 内臓を切り捌き、洗いながら兄ぃが説明した「これはフク(肺)、これが血豆(心臓)。これが空豆(腎臓)で大きなこいつが屎袋(胃)じゃ」。
 そこから草が出て来た時、ぼくは吐き気を押さえきれずに海に駆け出している。
 鉈で頭を落とし、アンピラ袋に納まる大きさに骨付き肉を切り分け、洗った内臓を袋に入れた後、砂を掘って二人で頭を埋めた。猛兄ぃが大きな石を乗せてアーメンと言ったところで全てが終った。 
兄ぃが持っていけ、と勧めた山羊の肉をぼくは大げさなくらいに手を振って断る。痙攣した足、ピクピク動いた目蓋、そして腸の臭気を思い出すととても喰えそうになかった。
 匂いは翌日まで鼻の先から消えずにいた。鼻をクンクンさせながらぼくは思っていた、猛兄ぃは大人だと。遠い人になった気がした猛兄ぃは、中三のはずだった。

 年が明け、猛兄ぃの卒業が近付いていた。
 サッパリした格好で、家にやってきた兄貴が唐突に言った
「どうや、ジョー。なんか匂わないか?」。
 近寄った兄貴の匂いを嗅ぐ、いつもの猛兄ぃの匂いだ、汗の混じった体臭。ウーン、と否定すると、もっと良く嗅いでみろ、臭くないか? と訊く。背中から首に鼻を近付けると、首筋に白い粉がついていた。微かな匂いはテンカフンだった。剃り後を見て猛兄ぃが散髪したことが解った。臭くないよ、そう言うと、そうか、安心したようなガッカリしたような顔をした。その顔に一瞬、猛兄ぃは交尾したんかなと思ったが言わなかった。
「猛兄ぃ、もうすぐ卒業やね、どうするン?」「ワンは内地に行く、修業や」。
 兄ぃの目が輝いて見えたその時、ぼくは猛兄ぃに最後のお願いをすることに決める。
「猛兄ぃ、島唄習ってたんやろ。三線も弾けるんやろ? 聴かせチ呉りんか?」
 渋った兄貴だったが、よしと言って立ち去り、間もなく黒い袋を持って戻ってきた。
取り出した三線の胴は蛇皮でなく油紙が張られていた。
「音が弱いんバ、一曲だけや」。そう言って兄ぃは弾き始め、やがて歌いだした
 ♪ 西ぬ管なんど雨ぐるみかかて かかて  ヨーヤレィ かかてい
雨ぐるみ ありよんにゃ 私ヌ愛人しぬ 目涙ド ヨーヤレィ 目涙ド
(西の管の方に雨雲がかかっているみたいですね。いや、違います。あれは私の愛しい人の流す涙なのです)
 初めて聴く裏声が澄んできれいなこと、そしてこんな物悲しい歌を猛兄ぃが好んでいたことに驚いているぼくに、「雨ぐるみちゅう歌や」と照れ臭そうに言うと素早く三線をしまい、早々に兄貴は帰っていったのだった。
 一番大切だったはずの猛兄ぃの旅立ち日のことを、なぜかぼくは憶えていない。
 何十人もの人の港での見送りを記憶しているのに猛兄ぃだけが消えているのだ。
 前日のことは良く憶えている。ぼくは猛兄ぃにセンベツとやらをやりたかった。だが、何も見当らなかった。朝から悶々としていたのを気付いた母に打ち明けると、しばらくして出ていった母が戻るなり言った「オジがバナナ呉れるチバ。自分で貰いに行って来。センベツ代わりやチ。猛ちゃんにやれば良か」。
 ぼくは七つの房の付いた島バナナの幹をオジの家で貰い、猛兄ぃの家に提げて行った。
「おお、重かったやろ、譲」
兄貴は言いながら受け取り、片手を差し出してきた。ぼくは小五にして初めて握手というもののやり方を、その時知る。

 『オス。今日鹿児島についた』で始まる葉書が届いたのは数日後。
『バナナ、サンキュウ。四本のバナナが七千円で売れた。それで大きなトンカツの入ったカレーを食った。二さら食った。オジの家でも夜はカレーをごちそうしてくれるらしい。明日の空もワンのウンコも黄色のことじゃろ。ジョーも元気でナ、それからアンマにもよろしくナ』
 ぼくは母に訊いてみた、七千円チバどのくらいかい? 考えた母が言った。
「鹿児島じゃ日当は四百円ちゅうところやろ。だから、大人の二十日分くらいや」
 母も笑顔だった。
ヤッター、ヤッター。ぼくは何度も飛び跳ねた。そしてぼくは思い出していた。高くあがった飛沫を見て同じように叫んで飛び跳ねた台風の日のこと。
 続いて、重い四本のバナナの幹を唸りながら担ぐ猛兄ぃの姿が浮かんできた。
紅く両頬を膨らませ太い眉根を引き寄せたその顔は、花火に強張った少年のものじゃない。沖縄の守り神シーサーにも似た、力を渾身に漲らせた逞しい顔のようだった。

      
  
      
猛編

 早春の水を張った田の水は冷たい。
 朝から始めた代掻きで、猛は七枚目の田にとりかかっていた。が、牛のスピードは落ち、何度か足を停めた牛を見ると目に涙が浮かんでいる。休ませることにして牛を田圃の近くの小藪に連れて行き、繋ぐと傍に寝転がった。
 ピーヒョロロと空にトンビが二羽、高く低く円を描いていた。島を出て鹿児島の北薩にあるオバの家に身を寄せてひと月が過ぎようとしている。農作業の人出が足りないと聞かされて、しばらく手伝いをするつもりになっていた。若草を咬み始めている牛の取り扱いにも慣れてきたと思う、自信もある。自分と同じように高校に進まなかった鹿児島の若者達が自嘲気味に言う『ヒダコウコウに行く』が、牛を田畑に牽いていくことであり、牛に命じる時に鹿児島弁で左手側がヒダで右手側がコウコウと言うのも身についた。   
 島では農耕には馬だったのがここではベブと呼んでいる牛である。ベブと言うのはデブだからだろうか。島にいた頃は自分もまだ小さかったが馬も痩せていた。鋤を牽いても深く耕起できない、そこで工夫して鋤に大きな石を結わえて錘とした。ある時の事、農耕中に馬が停まってしまった。鼻先に好物の小芋を持っていったが反応が無い。鼻先を軽く叩いてみた。途端、馬は芋に食らい付いた。何が起こったのか馬も同様自分も解らなかった。今なら解る、馬が疲労の余り立ったままで眠りに入っていたのだということが。
 島では耳にしなかった言葉がここでは聞かれる。『エギレ(餌切れ)』という言葉だ。馬や牛ではない人間の、それも子供達に食が足りて無いという意味だ。弁当を持たない多くの子供達が『山学校』と称して野山をうろつくのを見る。昭和三十二年四月。猛、十五歳。
「農業の一通りは教えてやるから、せめて一年は一緒に暮らせ」と言ったのは芋焼酎を始めて飲ませてくれたオジだ。
 「早く呑まんとハンス、うんにゃ、芋が腐るっが」と返杯を強要されて、いやいや飲んだ芋焼酎の臭みも気にならなくなった頃には、代掻きで均した田の高低差も五寸以下のほぼ均等にできるようになり、オジが褒めるようになっていた。飲んだオジは繰り返した。
「田畑に一番効くコヤシはなんじゃチ思うか? 猛。それはナ足跡ちゅうコヤシじゃぞ。しょっちゅう見回ること、そして草でも虫でも早めに手を打つことよ。害虫にせよ、春の一匹が秋には万匹になるんじゃからな」
「猛も早ぉ、一人前にならんとな。島の女は紬を月にどれだけ織って一人前チ言われたな?二反ほどか? ここの男の一人前言うたらな、日に一反の田植えか草取り。担ぎ物なら四斗俵、十六貫じゃ。それで『ヒトハカ』チ言うんじゃ」。
「担ぎはこなせそうじゃがな、猛は。田植えはどうかのぉ?」。
 湯がいたノビルを酢味噌につけたものをアテに、オジと焼酎を飲む猛に自信はあった。島では村一番の働き者と言われた自分じゃもの、一人前と認められることなど訳はない。
 しかし。初めてやった田植えで勝手が違うことを思い知らされる。手植えの作業は皆が一列になり、植え幅が印されている紐に沿って植えながら一列ごとに後に下がっていく方法だった。除草の時に手押し車が入るためには苗間は等しくなければならず、その為には目印紐にそって一斉に植えていく方法が一番効率的ということらしい。 
 だが、初めての泥田に足をとられたうえに、後に下がっていくやり方も猛には頼りないものだった。一人の遅れがみんなの遅れになる。時々声がとんできた「遅れるな」「兄ょ、早ょせーよ」。 
 腰の痛みが薄れ、人に遅れもとらなくなった頃、加勢を頼みあった者同士で『サノボイ』という田植え終わりの慰労会が催された。祝いでは豚をしめる奄美と違い、鶏を潰して煮付けや刺身にしたものが出されて芋焼酎が振る舞われ、唄が出た。 
 ♪腰の痛さよ せまちの長さ   四月五月の 日の長さ    と男が唄えば、女が返した     
 ♪酒と身なりはほどほどしやれ 無い袖振るよじゃ 世はたたぬ 流れ逆巻く○○川ももとはタラタラ一しずく
 威勢のいい声もきかれた。        
「今年は梅のなりが良かで、稲も豊作じゃが」「おう、そうじゃろ」「楽しみよ」。
「ばってん、畑がのう」「モグラじゃろ? 心配よのう」。     
 猛の傍にやってきたオジが小声で言った「猛、考えてみんか?」
「ん、何かい?」「モグラの対策よ。みんな困っちょる」。
 おう、と答えはしたものの農業を始めたばかりの猛に案はなかった。
 米農家ではあったが、どこの農家でも『米は売って財を買うものであり、食うものではない』と考えられていた。粟や麦と米を混ぜた粟飯や麦飯、他にも芋を混ぜ込んで炊いたカライモ飯が常食で、カボチャが混ぜてある場合もあった。カテモンと呼ばれたオカズは漬物の大根やラッキョウ、高菜など。時に山のものの茸類、筍、蕨や薇、椎茸などの炒めものが添えられることもあった。
 島と違い、海から離れたここで魚を食べる事は滅多になかったが、時たま干物のイワシを行商に来る人がいて薪一把がイワシ五匹との交換だった。砂糖と塩も貴重品だった。     
「砂糖が無ぇ時は『琉球が遠え』チ嘆いたもんじゃ」とオジは語った。
「今は行商さんが薪と交換に塩を持って来てくれるから、醤油も味噌も自分で作れるがノ。無え時は大変じゃった。前の戦争の時は小便を煮詰めて塩を作ったりもしたのよ」
「小便チナ?」猛は驚いて訊いた。     
「おお。小便を木屑にかけて乾燥させ燃やした後に水を加えて煮詰めたもんじゃ」   
 猛には初めての話ばかりだった。だが、自分の育ち盛りの体も肉や魚を渇望していたのだろう、しばしばもの喰う夢をみた。    
 誰もいない。夜。島の浜だ。
猫の目が開ききっているのを確かめて家を出たから満潮は近いはず。シユッと音のする方に、そっと近付き上陸した海亀を見つける。赤亀じゃない、旨い青亀だ。卵を産み終わる夜中迄には時間がかかる。譲を喚びに行き、二人で亀を担いで帰る道、譲に教えてやった
「亀の交尾はナ、しつこいんぞ、ジョー。メスに一月くらいオスが乗りっぱなしの時があるんやチ。それに交尾の争いでメスの背中にオスが二、三匹一緒に乗ってることもあるんや。そんくらい精力があるから亀は万年生きるチ言われとるんやな。これ喰ったら元気が出るぞ。卵は明日二人で分けような、ジョー」。 
 うんと答えた譲の目は猫の目みたいに光っていた。ひっくり反した亀を包丁で捌く時、頭に布を被せた。亀の涙を譲に見せる気にはならなかった。臭みが出るので青亀は水を入れずに鍋で煮る。体水が出たところで野菜を入れて味噌で味付けした。譲は「旨い、旨い」と口走りながら亀肉を口一杯に頬張っていた。
 夏の浜辺だった。海水は温かく、陽の沈みかかった浜に竹篭を背負ったたくさんの村人が出ていた。満潮が近付き、山手からザザザアッと地鳴りのような音が聞こえたかと思うと砂浜一帯に黒い影が覆ってきた。産卵に降りてきた赤蟹の大群だった。足の甲を乗り越えて行こうとする蟹の群れの、背に爪を突き立てては篭に投げ込んだ。気付いた時、譲が傍に来ていた。譲を誘って庭の鍋で蟹汁を作って喰った。譲は「うんめ、うんめ」と喚きながら食っていた。

 暇を見付けては、猛は川魚を狙うようになる。島は海に囲まれていたが鹿児島の内陸では川しかない。島では餌となるゴカイや貝がどこでもいたようにここではゴカイと似た餌、ミミズがいた。川の体験は初めてだったが釣りと泳ぎには自信があった。餌として鮒にはミミズが、ハヤ(ヤマベ)には蜂の子が、よく釣れた。鯉は芋を蒸かしたもので釣った。
 潜ることもあった。冬の日中、水中メガネに一本モリを持ち、サルマタ一つで川に入った。鯉は集団でいるので住処を見つけて用心深くやりさえすれば何匹も突いたり、又はエラから手を突っ込んで素手で捕まえられるのだ。鯉は精力がつくとオジオバが喜んでくれた。味噌煮にして食いきれない川魚は竹串しにして、囲炉裏で干乾しにして保存した。干乾しにする時、海魚とは逆に川魚は頭を上にするということも学んだ。
 精がつくと喜んで貰えたものがもう一つ、鰻だ。島で経験したことのない川魚は勿論、鰻も初めてで素潜りでのつかみ取りには難儀したし、色んなやり方も試した。竹に餌を付けて一晩浸けおいて鰻を誘うツケ針では餌を色々と代えてみた、ミミズに泥鰌、蛙やツボ虫(蝉の幼虫)など。鰻壷と地元でいう竹筒を使った仕掛けも試した。刳り貫いた竹筒の中に生きた泥鰌やミミズをシュロの皮に包んで一晩置いた翌日、寝床に入った鰻を捕まえたりもした。
 川から田圃の溝に上がった鰻を狙うこともあり、その時は島でもやっていた『毒流し』をやった。島で使った木とは異なりここでは山椒だった。山椒の実と皮と葉を擦り潰し、灰と泥を混ぜて団子にしたものを溝に流すと鰻が腹を引っくり返して浮いてきた。串に刺して囲炉裏で焼きあげて喰った時、肉でも魚でもない初めての旨味に声がなかった。だが、オジが「都会ではノ、これに山椒の実を粉にしたものをふりかけるらしい」と言ったのには変な気がした。鰻からしてみれば山椒との相性は全く合わないはず、なのになんで振りかけてまで喰われねばならないのだろう、と。
 相性と言っていいか判らないが、好きになれない男が集落にいた。
オジより少し年上の色黒の男だった。ある宴会がオジの家であった時、そいつはブツブツ独り言を言いながら猛の作ったゴーヤチャンプルを口にしていた。そのゴーヤチャンプルは父から教えて貰ったやり方で猛が作ったものだった。男の声が猛に届いた。
「苦瓜(ゴーヤ)は湯通しして、あっさりと酢醤油で食えば良かとにヨ。何でこんなに、くどかのを奄美ン衆は食うとかい」
 男は猛を向いて言った「お前も島ン出(島出身)か?」。
 猛が肯くと、「島ン衆は何でこげな油ぎったもんばっかい喰うとかい!」と、再び吐き捨てるように言い、焼酎を呷っていた。
 最初の時はオジの体面もあるだろうと黙っていたが二度目の時は猛も黙っていなかった。
 みんながオジの蛇皮線で唄っていた。鹿児島の民謡でなんとか節とかいう歌だった。島では唄者と言われるくらいに唄上手のオジが、鹿児島民謡をここまで弾きこなすには相当の修練をした事だろうと感心しながら聴いていると、傍らで又も男が猛に聞かすように言った
「島ン衆は何かと三線ヌ弾きたがるがヨ、男があげな物、弾くもんじゃ無か。鹿児島じゃ三線ヌ弾っとは女子かゴゼよ」。
 ゴゼとは何か、猛が考えている間に男は続けた。
「それに、ここン家は床の間に三線を立ててあるのが気にくわん。鹿児島では床の間には兜を飾るチ決まっとるんじゃ」
「なぜですか?」。予想はついていた、が、猛は静かに訊いた。
「元気で強い男が育つからじゃ」
「強い男チ言うたな? おじさん。俺ヌ島の家では床の間には三線を立ててあったチバ。そしてワンはシシ坊、つまり暴れん坊チ言われておった。ここら辺の若い衆と相撲を取っても滅多なことでは負けはせんじゃろ。じゃが、見てくれ、おじさん」
 ズボンを膝までめくり、足を剥き出して大きなヤケドの痕を色黒の男に曝け出した。
 「沖縄のイクサん時に出来た傷じゃ。小さい頃じゃから覚えちゃおらん話じゃが、大和魂とかを持ってやって来た強い兵隊達は何をしてくれた? 自分達が生き延びる為にワン達を村からガマから追い出そうとしたんド。おかげでワン達ゃ、爆弾の雨嵐の下を逃げ惑う羽目にも遭わされたんじゃ」。
 男は睨むような目で猛を見ている。
「三線を飾っていて、歌をみんなで楽しんで何が悪い。それがいやならーーーー」
 一息ついた。そして言った「こん家に来んでも良か」。
 男も立ち上がるなり猛に吐き捨てたのだった「お前も、俺の家に来るな」。
 
 それから間もなくのことだ、家の前に板張りの三線を抱えて歌う女がやってきたのは。
 唄った女に米一合をオバが持たせると、目の見えない女は隣の家に行き同じように歌い始めた。オバが教えてくれた「ゴゼさんじゃ」と。
「板張りの三線、あれは?」と猛が問うと、ゴッタンちゅうんじゃ、と答えたのだった。
 自分と同じ、戦争の傷跡を持っている人達を猛が見たのも同じ頃だ。その人達は傷跡を最初から曝け出していた。

 オジの用事で一人初めて汽車に乗った時のこと。客車に二人の男が乗り組んできた。男達は病室から抜け出してきたような白衣姿で、一人は片足が無く松葉杖をついていた。もう一人の男が何かを客に向けて大声で言い、肩から下げていたアコーディオンを弾き始めると松葉杖が歌い始めた。軍歌らしかった。男の声は力強かったが何故か哀しげな歌だった。歌が終わると松葉杖が標準語で訴えた。
―自分達は傷痍軍人であります。先の大戦で勇敢に戦った結果このような姿になり、生活資金もおぼつかなくなった。どうかご支援をお願いしたい。
 そんな内容だった。松葉杖は募金箱を片手に車内を廻り猛が十円玉を入れると丁寧に頭を下げて隣の客車に移って行った。
 帰ってその話をするとオジが言った「遇ったのか?そうか。あの人達はあれが仕事じゃ」。
 「十円入れた」と言った猛にオジはニコッと笑ってみせたのだった。
 二度目の稲刈りと脱穀が終わった祭りの夜、猛はかねてからの考えをオジオバに申し出た、都会に上ってみたいと。

 オジは笑みを作って大きく肯いた。「決めたんならすぐが良かぞ、猛。でないと梟の夜だくみになってしまうからな」
「梟の夜だくみ?」       
「おうよ。梟は夜、蚊をほそぼそと喰いながら計画たてるのよ。明日こそは朝から飛ぶぞ。そして朝飯は鶴にしよう、雉のヤツをおやつにして夕飯は豪勢に雁といくか。でも今日は腹が減りすぎているから明日からだナ、と毎日、日延ばしをしてるゲナ。それで計画ばかりで一向に実行しないのを『梟の夜だくみ』チ言うのよ。そうならんようにナ、若い時の旅立ちは早か方が良か」。     
「いつでも良かよ、猛ちゃん。旅費は準備しとくネ」とオバも笑って言った。
 梟か、と呟いた途端、閃くものがあった。
 翌朝早く山に入り、三米ほどの枝付きの木を数本切って戻った猛にオジが訊いた。
「何するんナ?」「畑の土手に立ててみる。止まり木じゃ」
「止まり木?」「おう。タカやトンビやヒヨとかが止まれば」 
 しばらく考えたオジが口走った「モグラか!」       
 初めてのことで自信はなかったが、「うん」猛が答えると    
「面白い。いけるかもしれん。猛やってみろ」、勇んだように口早でオジが言ったのだった。      
 昭和三十三年秋、猛十六歳。その年運転開始したばかりのブルートレイン『はやぶさ』に乗り込む。できたての新米農林十七号に梅干しを詰め漬物を添えて三個ずつ竹皮で包んだ弁当を五つ、オバが持たしてくれた。西鹿児島駅から東京迄二十三時間かかる特急の三段ベッドの最上段に身を横たえると、一年半のオジオバの家での暮しが夢幻のように浮かんできた。
 同じ島出身だったオジオバが喋る鹿児島方言がとても奇異で、二人が最初異国語を喋るかのように思えたこと。「寒いも寒いねぇか」「温いも温いねぇか」「こえぇ(きつい)もこえぇねえか」と言われて、さて寒いのか温いのか、きついのか一体どっちなのか判らなかったこと。風呂の湯加減にいたっては「痛ぇも痛ねぇか」と言われて判らぬままに薪を加えたところ、熱さの余り悲鳴をあげられたこともあった。
 頼まれて耕しに出た他人の畑から鶏の首が突然出てきてギョッとした。戻ってオジに話すと「それは土地争いに負けたヤツが呪いをかけたものじゃ、病気などの祟りを喚ぶと言われちょる」と、すぐにお祓いをしてくれたこと。
 オジが黄金蜘というクモを集めて土間や牛小屋に巣を張らせて何匹も飼っていたのにも驚いた。何をするンか? と訊くと「蜘合戦用や。加治木が有名なのやがここらでも年一度、合戦やってるんじゃ」と教えてくれた。棒の上で二匹のクモを戦わせて勝負を決める。落ちたり糸で巻かれたりした方が負けなんじゃ、と。宮崎方面の海沿いで育ったのが素質があって強い、とも。「子供の遊びか?」と訊くと「いや、昔から伝わる大人の遊びじゃ」とオジは答え「いつかクモ捕りに連れて行こうか」と誘われたが気乗りがせずに行かなかったのだった。島に居た頃なら生き物も色々捕まえて喰った。だが遊びで捕まえて戦わせるのはなんか残酷な気がしたのだった。そんな考えになる自分が昔と比べると変わったような気もしておかしくもあった。
 島には高い竹が無かったので、初めて鹿児島の五月の空で高いモウソウ竹に翻る鯉幟の群れを見て感激もした。そしたら近くの爺さんが言った「昔の薩摩じゃ鯉幟は揚げちゃならんがったト。そうしてナ、幕府に男の子の数を隠そうチしたゲナ」。
 そしたら別の爺さんが言った「先のイクサ以来、うちの所じゃ今も正月の門松を作らん慣わしじゃ」。訳を訊いたら「先のイクサで爺さんが西郷サァに従軍しやった。正月前にバタバタと出て行きやったから正月準備が出来やれんがったチ言う話じゃ。そいで村じゃ今でも門松を作らんのや」と教えてくれたこと。
 正月気分も抜けた大寒の頃だった。臼と杵が出されて猛も餅つきを手伝わされた。小さめの餅が幾つも拵えられていくのを見て「なんで今頃、餅を?」と訊くと「モグラウチや」とオバが答えた。その晩集落の子供が集団になって家にやってきた。二米ほどの竹の先に藁を捲いたものを手にして一斉に声をあげ、持っていた棒で庭を打ち始めた「モグラ打ちにゃ、罪無し。モグラの頭をウッ叩け」。終って餅を貰った子供達が次の家に向かった時、「モグラの害を無くして五穀豊穣を願う祈願祭よ」とオジが教えてくれ、モグラの被害が深刻なのを改めて知らされた夜となった。
 鹿児島では春のモウソウ竹から始まって冬のシカッ竹まで、食用竹には年中不自由はしなかったこと。刺身にムシ焼きに煮付けにと筍が重宝されていたことも思い出す。
 異常なほど男女の区別を徹底していたこと。風呂は男が先で女が入るのは必ず男全員が入った後となっていた。洗濯でも男盥と女盥は使い分けており、干し竿にいたっても男竿と女竿は区別されていた。
 川亀を見付けて捕まえた事があった。甲羅を掴んだ時背中まで伸びて来た首が手を噛もうとしたのでその長さでスッポンと解った。明日捌こうやと言ったオジが猛に注意をつけ加えた「スッポンはノ、自分の小便が降り掛ったら死んでしまうから気を付けてしまえよ」と。変なヤツやなぁと笑っていたら、亀は亀でも亀虫という緑色の小虫は自分の強烈な屁の匂いで死んでしまうという話にも笑った。そいつをビンに入れて試したことは無かったが、実際ヤツの屁を嗅がされて鼻がひん曲がりそうになるくらい臭かったこと。
 屁で思い出すのは自分がいつも芋を喰っては屁を放りっぱなしだったということだ。鹿児島弁で芋はカライモと言われ、八月踊りでもカライモの歌が歌われていた。確かこうだった
「八つとせ やかまし事(めんどうな争い)が出来た時ゃ カライモ焼酎で訳を言う」。
 焼酎に仲をとりもたせるという意味だったのだろう。
 腹を減らした子供たちが畑を掘って生芋を噛っているのも何度も見た。
 病気になったら迷惑をかけると思い、健康には気をつけたつもりだった。だが、歯痛に悩まされたことがあった。その時、オジが採ってきた足長蜂の巣を煎じて飲まして貰って痛みがひいたこと。「大病になったらな、こいつを煎じるのじゃ」と猛にオジが見せてくれた特効薬、そいつは大事にとってあった家族の臍の緒だった。
 いろんな薬草があることも教えて貰ったが、一番印象に残っているのは便所のウジ殺しとして、刻んで投げ込んだサトイモみたいなヤツ。汁で手が被れるのでテハレグサという名前だと知った。
 鶏の卵はこちらでも貴重だった。卵を産まなくなった元気のない鶏がいた。餌抜きしろ、というオジの言い付けに従って鶏を二週間囲って水だけで絶食させたところ、鶏冠が勢いを増して再び卵を産むようになったこと。花木も同じことだと知る、夏に渇水させれば花をつけようと努力する。生命は飢えを味わうことで逆に、子孫を絶やすまいと強い命の力が生まれるという事実。ものは逆の方からも考えて見ろということか。
 反対の事と言えば、自分の送別会の夜に誰かが言った言葉だ。鹿児島のこんな諺だった。
「歌はオシに訊っきゃい。道はメクラに訊っきゃい。理屈はツンボに訊っきゃい。丈夫なヤツは良か事ばっかい言う」というもの。
 目の見えない人こそホントのものが見える? 聞こえない人こそ聞ける? ものは心で見たり聴いたりせよということなのか、それは強いものを信じるなということか? 
 今から旅に出る自分にどんなつもりでそんなハナムケの言葉を贈ってくれたのか? 
 猛、十六歳の頭には難しい諺だと思えた。

 横須賀に猛は降り立つ。
 島の先輩から、担ぎ屋の仲間に入らないか、日銭も高いし住まいもあるぞと誘われていた。仕事は軍用のアメリカ船からの担ぎ屋だった。船のタラップを上り下りして重さ二十キロから三十キロの箱の荷を、多い時で五百個ほど皆で倉庫まで運ぶ、日当六百円の仕事だった。
 荷の中身は解らなかったが、英文字を読み解いたか仲間の一人がしたり顔で言った   

「あれはメリケン粉とかビスケットなどの菓子とか、肉の缶詰やフルーツなんや」 
「フルーツって何よ?」誰かが訊いた。
「果物じゃ。バナナとかパイナップルのことよ」 
 昼飯のお握りに食らいつきながら、見たことのないパイナップルを想い浮かべて皆が同じ様に唾を飲み込んだ。荷から微かに匂いたつ甘そうなヤツ、パイナップルとかいうそいつに噛り付いてみたいと揃って思ったような同じ顔があった。
 昼飯時、今日の荷は何だろという話題になることが多くなった頃、一人の娘が皆の目にとまった。土日に限って自転車で管理事務所にやってくる白人っぽい娘で、長い髪を後に結んでいた。食後のタバコを吸っている猛らの前を自転車で駆け抜けていく娘の白い足は細く、さっそうとした様子に思えた。ハーイとかヘイガール、と仲間が冷やかしの言葉を投げても一瞥するのみで自転車を止める気配は無かった。噂が出た。
―キャプテンの娘だとよ。―所長の娘で土日だけ弁当を届けるらしい。
 そんな話が荷の中身の予想の合間に出るようになる。荷の一つくらいチョロマカセないかと話をしていた時の事。背後から突然姿を現した娘が男どもを前にキリッと立ち、毅然とした風で言った「なんの話? 抜け荷? 穏やかじゃない話ネ」。 
 皆のタバコの手が止まった。日本語が通じないとばかり思っていた白人の娘に話を聴かれていたという訳だ。先輩が猛に顎をしゃくった、オマエが答えて何とかごまかせという様子だ。一歩前に出て対峙して、猛は女が誰かと似ていると思った。真上からの陽を浴びた女の髪は赤く見える。そして碧色がかった目。譲だ、譲に似ている。するとこの女も譲と同じく母親は日本人か? 猛はいっぺんに少女に親近感を感じた。ゆっくりと語りかけた
「チョロマカシは解るんか?」
少女の細い顎が軽く上下したのを見て続けた。
「でも抜け荷とは違う。抜け荷と言うのは密貿易の事じゃ」
「蜜貿易?」「禁止されている秘密の貿易」      
 少女の片頬に笑窪が浮かんだ。     
「日本語解るのか?」「ええ。母は日本人」「ならハーフか。ジョーと同じだ」
「ジョー?」「おう。子分、いや友達」。         
 笑窪を深くして今度は少女が横に小さく顎をしゃくった。ピーピーと口笛のとぶ中、少女の後を猛はついて行った。
譲のことと自分のことを猛は話し、少女は自分の事を短く話した。名前はエリー。キャプテンの娘で土日だけ弁当を届けているという話は本当だった。それからの昼飯時間、幾度か猛はエリーに呼び出され、短い時間だが話すのを楽しみに待つようになる。

 「仕事が終わった後、残っていて」とエリーに言われた夕方のこと。

 今日は英語を教えてあげるわ、と連れて行かれたのは倉庫だった。驚く猛を尻目にエリーはポケットから取り出した鍵で中に入っていった。猛達が積んだ荷の英語を読んでみせ、中の物を説明した後で最後に言った「明日の夕方、自転車を準備できる?」。   
 肯いた猛にエリーは軽くウインクして言った「パパはアバウトなの」「アバウト?」
「おおまか」と言うと、再びウインクしてみせた。
 エリーの協力で初めて獲た戦利品を荷台の大きな自転車から下ろした時、外は暗くなっていた。裸電球の下に集まった仲間の目はその頃どこにでもいた餓えた野犬のようにぎらついていた。五十個ほどの缶詰、味付きの牛肉を一本の缶切を奪うようにしてガツガツ音をたて貪り喰う。青いバナナや粉末ミルクの時もあった。初めてのパイナップルは酸っぱくて、熟れていないのか元々そんな味なのか解らなかった。
 二人が警備員に捕まったのは、エリーの言う「抜け荷」が月に一つか二つで十箱を超えた頃だ。警備員に囲まれてしばらくして一台のジープがやってきた。
 二人が連れて行かれた場所そこで、ヘルメットのMPとは異なる軍服にやたら階級章の多さが目立つ赤ら顔の男に向かい、エリーは涙ぐんで弁明し始めたのだった。英語の解らない猛だったが彼女の幾つかの単語は聞き取れた。パパ、マイプラン、プレゼント。 

 男の口から大きなため息が漏れた時、猛は小声でエリーに訊いた「ごめん、は何て言う?」「アイムソーリ」。 
 その言葉を大きな言葉で赤男に伝えた時、男が猛に言った、オーケー。そして出口を指差した。罪をエリーが引き受けたのだと思った。エリーに謝った「悪かった。もう二度としない」。
「大きな問題にはならない、って」と、パパという語を伏せて涙ぐんだ目で言うエリーと別れたその夜。責任をとらねばならないと猛は考えた。持ち金全部を袋に入れて仲間のところに持って行き、エリーに渡してくれと頼んだ。仲間に理由は言わなかったが「抜け荷」の弁償金のつもりだった。サンキュー、グッバイと伝えてくれとも頼んだ。受け取らなかった時は皆で使ってくれとも。そしてそのまま深夜の東京行きの列車に乗り込んだのだった。

「鹿児島の人間がヨ、一人を頼んでゾロゾロつるみ合うことをよ、『薩摩のイモヅル』チ、都会じゃケナしておるが、さて奄美の人間には何チュウのだろうなぁ」         

 笑顔を見せて猛を迎え入れたのは島での親戚筋になるオジだった。
 オジの紹介でパチンコ店に勤め始める。開店前から閉店後まで清掃が主の雑役だった。パチンコ台や椅子を拭く、灰皿掃除に床拭き、トイレの掃除に玉洗いの手伝い。開店したら、出玉の詰まりなどのトラブル処理や開放台の掲示とか早朝から深夜まで働きづくめだった。
 後から出勤してくる先輩達が自分にはオハヨ、オハヨォと声かけてくれるのに、同僚同士ではたまに、自分が鹿児島にいた頃に田植えの遅れを指摘された言葉「兄ょ、早よせぃよ」を投げ掛け合うのが不思議な気がした。           
 仕事内容を指導してくれたのは『リュウさん』とみんなから呼ばれていた三十くらいの痩せた背の高い男で、顔色は蒼白く店長の次の次くらいの地位という話だった。いつも同じ上着を着けていた彼がひと月くらい経った頃に猛に言った。
「前から店長には言っていたんだが、忙しそうで話が進まん。で、勝手にやることにした。明日来てくれ。みんなに紹介する。呑もう」翌晩、猛が連れていかれた所は十畳二間がぶっ通しになって広いだけで炊事場以外は何もない家、というより集会所ともいうような場所。そこに同僚達と家族らしい人々が芋の子を洗うように犇めき合っていた。そこで繰り返される言葉「兄ょ、早よせぃよ」に驚く猛の横にリュウさんが来て座り込んで言った
「なんだ、猛、知らなかったのか。アンニョンハセヨは朝鮮の言葉で今日は、だ」。 
 呑み始めて、自分の歓迎会に集まったという人々のうち誰が日本人なのか猛にはまるっきり判らなかったし、どうでもいいことのように思えた。初めて呑んだ焼酎が朝鮮焼酎なのかどうかも判らなかったが、白菜と大根のキムチは判った。煮込みの肉は島でも喰った豚肉と解った。味噌をつけて焼いた歯応えのある旨い肉は豚のしっぽだと誰かが教えてくれた。ホルモンと呼ぶ内臓や焼酎や煙草に、朝鮮人や内地人や島人の匂いや汗や体臭が混じり、全てがごちゃ混ぜみたいな空気になった頃に歌が始まり、猛はオジが持たせた蛇皮線で島唄を歌った。唄は祝い歌の朝花節だ。
   ハレーイ 拝まん人も拝でしりゅり 神ぬ引き合わせに 拝まん人も拝でしりゅり。
「今まで知らなかった人とも、神の引き合わせでこうして拝みあうような友人になれるのです」との猛の説明にみんなが沸いた。

 みんなで歌ったのは
  ♪アリラン アリラン アラリーヨ。
 歌は繰り返し歌われ、憶えた猛もいつしか一緒にその歌を蛇皮線で弾いて合わせていた。
 その後、リュウさんは何度か猛を一杯飲み屋に誘った。猛は彼の身の上話を訊いてみた「クニには帰らないんですか?」
「クニか? 一度帰ってみたいんやが」と彼は焼酎を傾けながら漏らした。
―十年前の戦争で家族親戚はチリヂリになってしまったうえに、南北の境界線までが出来て行き来が不可能になっている。自由に南と北の往来ができて、みんなで平和に合える時まで待とうと思う。と、遠くを見る眼をして蒼白い顔で彼は答えたのだった。
 猛の身の上話で、鹿児島のオバの所にいたと言ったらリュウさんが目を細めて笑った。
「鹿児島のイモのところか」           
 ムッと来た猛に彼はすぐに白い歯をみせて「許せ、冗談だ。オバのことをウチらの国ではイモというんだ」
 猛の肩を叩いて彼は言った。そして加えた
「猛、お前の国から伝わって来た芋ナ。ウリナラ、ああ、ウチらの国では孝行芋と言うのやが、飢饉の時同じようにたくさんの人を救ってくれたんや。祖国を代表して感謝」。そういって何度も肩を叩いたのだった。
 初めて自分の住まいにリュウさんが招んでくれた時のこと。
「何しろチョンガーなんで散らかっているうえに狭い部屋なんじゃが、ゆっくりは呑めるかな」
 そう言って誘ってくれたリュウさんに猛は訊いた「チョンガーって何ですか?」
「朝鮮語で独身男のことや。もとは独身男の髪型だったんやが独身男をさすようになった。
こう書いてたんや」
と指文字で『総角』と書いてみせたのだった。四畳半の部屋の奥には二枚の写真が壁に留められていた。一枚は若いリュウさんと両親そして兄弟らしき人達で家族写真と解った。もう一枚、軍服の男を猛は尋ねた「この人は?」。
 鍋の準備をしながらリュウさんが答えた「金日成、キムイルソン同志や」。
「誰ですか?」「お前の国と戦った抗日戦の英雄よ。今は朝鮮民主主義人民共和国の首席じゃ。知らない?」
 うんと答えて、この人には知らないことは知らないと素直に言えると猛は思った。
 七厘の上から薬缶を下ろすと焼酎を自分の茶碗に注ぎながらリュウさんが言った。
「うちのクニじゃオンドル言うて床暖房で暖かいのじゃが、ここではこれだけじゃ。寒くないか? 猛」「いや、デコンバッチ穿いてるから」「何と言うた? 今」
「デコンバッチ。デコンとは鹿児島で大根の事で脚の形から、ほら、デコンバッチ」
言いながら股引の脚を剥いて見せた。すると「バッチじゃないか。股引をバッチと言うのは朝鮮の言葉なんやで」
 そう言って笑った後、「これ、前に呑んだかな? マックルリや。朝鮮の焼酎や」
と、薬缶から焼酎を茶碗に注いでくれた。甘い味がした。貰いものや、と肴に出してくれたのが白菜キムチにナムルというあえもの。そして、寒いからチゲにするぞと小鍋を取り出して七厘にかけた。豚肉をニンニク醤油で炒めたあと水を注ぎ、先のキムチ白菜や豆腐やネギを入れ、最後に卵を落としてキムチチゲというものを作ってくれた。粉の唐辛子を大量に入れたので辛いかと思ったがそうでもなく、甘い焼酎には合ってるように思えた。
 リュウさんが語ったのは日本と朝鮮の歴史だった。呑みながらの話は難しく、否、呑んでなくとも初めて聞く話ばかりで、食べているチゲみたいにはとても今の自分の頭では消化しきれないだろう、そう猛は考えていた。
秀吉の侵略、朝鮮通信使、閔妃暗殺、安重恨、日韓併合、強制連行、関東大震災の朝鮮人虐殺、従軍慰安婦などなど。
「猛、お前と同じ鹿児島県生まれの東郷茂徳ちゅう人がいる。開戦と敗戦時に外務大臣だったとしてA級戦犯になった人や。この人は朝鮮が祖国の人なんよ。薩摩が朝鮮出兵の時、後に薩摩焼きを始める陶工の沈氏一族らと一緒に連れて来られた子孫じゃ。この東郷氏は慰安婦の渡航に関して『外務省は旅券を発行しない、軍の証明書によるべし』という指示を出した。一九四二年のことよ。それからは陸軍省が慰安婦の渡航管轄をすることになる、従軍慰安婦と言われる所以よ。朝鮮人チウ自分の同族が慰安婦として扱われることが彼にはいたたまれなかったものだと俺は思っている。戦争反対だったんじゃが、責任を取らされたんだ。
 その以前、日本人の中にも朝鮮を蔑視するなと主張した良心的な人はいくらでもおる。日韓併合を『日本の恥辱の恥辱』と言うた柳宗悦や、震災の時に朝鮮人虐殺を非難した徳田秋声や折口信夫などもよ。じゃからして、俺は総ての日本人を嫌いというつもりなど毛頭ない。猛よ、仲良くやろうぜ」
 言い終わると、薬缶から茶碗に注いだ朝鮮焼酎をリュウさんは旨そうに飲んだのだった。
 猛が訊く番だった「日本人はどうすればいいんかな?」。
「そうやな。朝鮮人はみんなパチンコ屋やってると思わんこと、これを偏見という」
 ニタッと笑った後、彼は続けた
「犯罪予備軍扱いみたいな指紋押捺制度をやめる。税金取るのなら参政権を認めるなど平等な扱いをするべきや。こんなのを外国人差別と言うんやで。猛、お前、アパートやなんかで見たことないか『朝鮮人、沖縄人入居お断わり』というのを?」
見たことないと答えた猛に、ならいい、と彼は言った後
「まだそんなつまらん考え方する輩がいるんや。猛、そんな事も勉強してくれ」と続けた。
「俺は鹿児島でシマを馬鹿にされた」、猛は口にした。
「どんなこと?」と訊いたリュウさんに説明した。油ソーメンなど油きったものを喰うとか、男が三線弾くとかを貶された、と。
「自分たちは蜘合戦とか馬鹿げたことをやってるくせに」と付け加えた猛に彼は言った。
「間違っとるョ。その男は、そして猛も。何を喰おうが何を楽しもうがそれは文化よ、伝統よ。それは本来、優劣はないもんやで。なのに見下し馬鹿にすることを差別と言うんよ。同等とみなさない事が差別や戦争を始める切っ掛けになるんじゃ。
 俺はこう思うで。社会での少数派、例えばだ在日朝鮮人はじめ外国人、アイヌや沖縄の人達や、他にも障害を持っている人達なんか、それらの人々が多数人と同等の権利を持ち得ていない、或いは身の置き所を見つけられずに幸福感を感じない、そんなのはホンマモノの社会じゃないとナ」
 猛は鹿児島の諺を思い出した。『歌はオシに、道はメクラに、理屈はツンボに聞け』というもの。どういう意味だと思う? と訊くと
「さあ、良くは解らんが」と、リュウさんは額に皺を寄せて考えた後に言った 
「そう言う人こそホントのことが見えたり、考えられたりするのじゃないか。もっとそんな人々の声に耳を傾けよと言う意味じゃないか。権力者や傲っている人間の尤もらしい言葉は疑ってみよとか、そう言う意味かなぁ。よくは解らん、俺ももっと勉強してみるわ」と言った後、突然話題を変えた「猛、お前は力がありそうやな、俺と腕相撲してみようか」。
 長袖をめくってかまえたリュウさんを、左右どちらも猛はなんなく倒す。
「猛、お前強いなぁ」と笑う顔に悔しさのカケラは微塵も見られない。そんな人間を初めて見たことに驚いている猛にリュウさんは笑顔のままで言った。
「猛、腕力に頼る人間になるなよ。オレらの国の諺にこんなのがある。『ムリ キプルスウロック ソリカ オップスタ』。日本語で言えば水は深いほど音をたてないちゅう意味になるか。解るよな、猛。大きな人間になれよ」
 そう言って、茶椀に薬缶酒を注ぎ足してくれたのだった。
困ったことはなんでも相談せいよ、と言ってくれたリュウさんに、猛が初めて相談することになるのはそれから一年半くらい経ってである。

 

 猛は釘師の仕事を任されるようになっていた。釘の間や向きを調整する仕事は精妙で、釘師の調整次第でパチンコ台の出玉は変わる。毎日の台ごとの出玉表を見て釘師の猛に釘を締めたり緩めたりの指示をするのは店長か店長代理、そして時にリュウさんだった。
 どの台の釘間が甘いとかが外部に洩れることは絶対にあってはならない。営業成績に直接ひびき、店の倒産にも繋がりかねないのだ。釘師を任された猛は信頼を得たと思った。裏切らないようにしようと決意した矢先に引っ掛けられる。    
 常連のパチプロの一人だと思っていたポマードを頭にテカテカに塗った男。今日も遊ばせて貰うで、といつものように声を出して開店と同時に入ってきたそいつが打ちながら、後を通り掛かった猛に振り向いて言った
「兄ちゃん、煙草一本恵んでくれんかな、今いいとこなんやが煙草切らしてしもうたんや」 客と不用意に接することはトラブルの元になると禁じられている。ズボンのポケットをまさぐるマネをしてみせた後、ありませんと断るつもりだった。が、ポケットに入っていた。ズボンを着替えるのを忘れていたのだった。ズボンに目をやったポマード男が「持ってるやんか」と催促した。一本抜き取り、男に渡してやった。常連へのサービスだ、しかし二度としないと猛は自分に言い聞かせた。
 が、休みの日、街を歩いているところを男と遇う。男は猛を見るなり笑みを浮かべて飯に誘った。しつこい誘いを断わり切れず一緒に飯を喰った。割勘にするつもりが男が先に支払いを済ませていて、猛は応分の金を差し出したが男は受け取らなかった。
 翌日から男の態度が変わった。今までは「兄ちゃん出る台はどれだい?」に「ウチは全部出ますよ」とか「相性が悪いんですかね、昨日の人は出してましたがね」と笑顔で反していた猛に、「兄弟、どれが出るんだ?」と訊ねる男の眼が真剣になった。適当にあしらうつもりが男が絡み付くようになり、玉が出ないと大声で叫んで台を叩くなど騒ぎを起こし始めた。
「迷惑行為は退店とさせて戴きます」と言うと、「よぉ、ここは客に冷たい店か、兄弟。やれるものならやってみろ」と開きなおった。
 外での喧嘩なら負ける気はしなかったが、客なら殴れない。猛はリュウさんに相談した。いきさつを話した途端、リュウさんが言った。 
「パチプロじゃないな、そいつは。プロが出る台を訊くか? ヤーさんよ、モリヤマ組の下っ端だな。以前からウチを狙って何人もがトラブル起こして出入禁止としたんだが、どうやら山場かな」
「山場?」猛は訊いた。         
「そのうち要求言ってくるだろ、ミカジメ代よこせとか、見回りしてくる組員に開放台よこせとか」「それで?」「呑む訳ないやろ」。
顔色は一層青褪めて見えたリュウさんだったが、口元をキチッと引き締めて言った  
「心配するな。向こうに組員がいるならこっちにはトポがいる」
 そしてニヤリと笑った。ほどなく、組から連絡が来たらしい。組に出て来いと言うのを代表格のリュウさんが拒否して向こうが来ることになった。
 その日。平日というのに開店前から店頭には多くの客が並んでいた。いつもの何倍もの客の中には騒ぎを起こそうという向こう側の人間もいたかも知れないのに、リュウさんは平然といつも通りにやれと指示した。約束の二時の一時間前、偵察からの情報が入った。組事務所にトラック二台が止まっている、三十人を越すヤツラがたむろしている、車でやってくる気配だと。リュウさんは大きく肯いた。蒼白い顔は変わらぬままだったが、臆したり怯んだりする様子は無かった。
 その後ひっきりなしに電話がかかって来るようになった。朝鮮語で受け答えするリュウさんの言葉は猛には解らない。彼は笑いながら、受話器を握る方の反対の手を横に振り続けていた。
 三十分前、店先を多くの人々が埋め始め、店内に殆ど客は残っていなかった。二階の事務所から外を見下ろした猛は、その数五百人以上かと驚いたが増える一方だった。
 猛にリュウさんが言った
「トポって解るか? 猛。朝鮮語で同胞、仲間のことよ。同胞達が心配して駆け付けて来てくれたんや。要らんよというのに応援に来ようかという電話がまだなりよる」
「ケンカやるんですか?」        
「やる訳無いやろ。同じ国で暮らそうというんや、仲良くやっていきたいじゃないか。こんだけの仲間が集まってくれたんは相手に丁寧に引き下がって貰うためや。ではそろそろ、お出迎えに降りるとするか」
 そう言って階段の上で立ち止まったリュウさんが振り向いた 
「猛、終わった後の仲間へのお礼は、日本人ならどうするのかな?」
 考えている猛に彼は加えた「おっと、オレも日本人になるんやった」
 黒の大型車で乗り付けたモリヤマ組親分とリュウさんの対決と言うか話し合いは短いものだった。何も無かったように別れあった後、リュウさんは笑顔を見せてみんなに言った
「手打ち式は無しやが仲良くやろうで、ということで話がついたんや」と。
 その時、大歓声が起こったのだった。
 
 その夜。猛は夢を見る。祭りの夜だった。自分が三線を弾き、皆が輪になって踊っていた。母がいた。父も元気だった。背の伸びた譲がいた。手ぬぐいを被って踊っていた鹿児島のオジとオバはモグラの死骸を腰に幾つも下げて自慢気だった。リュウさんや多くの同僚達もいた。浴衣姿のエリーはかわいかったし、赤い顔のエリーの父親は不器用に手足を動かしていた。それより下手だったのはポマード男でそいつのテレ笑いに自分も笑いが止まらない夢だった。
 目覚めた朝、心に決めたことがある、それはエリーに近々会いに行こうというものだった。
翌年二十歳になる猛に、昭和三十六年の幕開けは近くまで来ていた。  〈猛編〉 終                      

おことわり。
本編の中で出てきた「オシ」「メクラ」「ツンボ」の用語はそれぞれ「言葉を喋れない人」「目の見えない人」「耳の聞こえない人」を差別的にさす言葉として過去に用いられたもので、現在では公用語としては使われない、また使ってはならない死語となっております。どうぞ意図をお汲み取りください。〕

 

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