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願兼於業

            
 病棟から外出し、車椅子から眺めた桜、その満開を見る事無く、土橋みよ子は俗名のまま霊山へ旅立って逝った。満五十四歳の誕生日を迎えたばかりの春先。
 四ヶ月余りの入院を友人知人に報せる事をせず、モルヒネを打たれる苦痛と幻覚の闘いの最期迄、弱音を吐く事をも一切せずに。凛とした生を貫抜いた妻に応えるべく、自分も告別では一滴の涙も流すまいと決めた。花嫁衣裳を擬した綺麗な旅立ち姿には思い万感となったが涙は零さなかった、愛が冷めていた訳ではない。人の目を盗んでやったのは、小さな彼女を骨噛みした事だ。かつて義兄弟の契りを交わした兄貴をオレがそうしたのを見ていた妻は、自分も同じように噛まれてしまう日を創造した夜が或いはあったやも知れぬ。
 オレが現世を閉じる迄、常に離れず一心同体でいような、そんな覚悟の骨噛みだった。
 高校の教え子が伴侶となったのは彼女二十三の年。以来、三十一年間の伴走だった。
 教え子を理想のピグマリオンに創り上げるのだ、と結婚前後に仲間に吹聴していたのだが、彼女の友人達の間では「十も歳上に嫁ぐなんて、同情婚は考え直したら」との忠告が多かった、と後で新妻から聞かされた。
 三人の子どもが幼かった頃には車で旅行に連れ出してはいたが、家庭的な父親だったとは言えまい。勤務時間外の部活動や自発的補習、加えて組合活動等で家を留守にする事が結構あったからだ。教育労働者の生活環境の向上こそが良い教育を産む、との信念から組合活動も懸命にやったが、賃金には無頓着だった。生徒からドンパチ先生とあだ名をつけられた時期もあったから熱血教師のフリも演(や)っていたのだろう。生涯一教師でいく、と飲むたびに吠えていた姿を妻は理解してくれていたように思う。そんな妻を裏切っていたのは、組合活動の中で生じた手当をヘソクっていた事だ。気づいていたフシもあるのだが小遣いが少なかったので或いは見逃していたのかも。 
 能力はさておきプロとして生徒の為には労は厭わぬ信条でいたつもりだが、それ以上に、専業主婦の妻の方が人の為に尽くす、を信念としていたところがあった。自宅にくる電話の九割近くが妻への相談や依頼だったから。
 十七年前の乳癌発症以来、癌闘病は子宮、直腸、腹膜播種と四年前からは一層厳しくなっていったが、人に尽くす姿勢、それを最期まで妻は貫き通したように思える。「奥様が厳しい闘病にあるとは知らずに相談に乗って貰っていて、今は感謝の言葉も見当たりません」と、別れの場で何人もの人から言葉を震わせた礼を言われた。
 一年前に、余命宣告を独りで受けてから揺らいでいたのは自分だ。もっと妻と向き合えば良かった、労わるべきだった、から、オレなんかの嫁に来なければ病にならなかったのでは、と自責の念に苛まれ自律神経に変調をきたし、安定剤を手放せなくなる程だった。

 が、どうにか、芯を貫く棒のようなものを見つける事ができたのは執筆と読書からだ。
 妻を書き残そうと始めたのは、自分のみが知り得ていた余命の三ヶ月前。思い出を妻と語りながら記していく事は支えとなった。旅立つ一週間前に完成した稿は「全作家短編小説集十三巻」となって夏に刊行の運びである。彼岸の妻や、知人には喜んで貰えるだろう。  
 読書の一つは最新医療法の勉強だった。医者に提言できるくらいになるべく、時間のある限り本やネットで知識を漁った。しかし。セカンドやサードオピニオンを近場で見つける事の難しさを知らされる。

 もう一つの読書は、妻はどこへ行くのか、について。
 

 妻が逝った後、寂しくなったでしょうと、言われる。はて、寂しいのか? 
辛くなったのはある、買い物だ。自分の小遣いは殆どを食材費に費やし、珍味に腕を揮っては妻に振舞っていた。それが大きな楽しみの一つだった事を妻亡き後の独りの食卓で思い知らされる。買い物、そして食事がかくも味気無いものになるとは、と。
 寂しい思いは住人のいない妻の実家を訪ねる時も同じだ。半年前には二人で家の管理をし、野菜作りもしていた畑に草が伸びているのを見て、寂寥、虚脱感で自身が消滅していく感覚に囚われる。彼女が生まれ育った家が想い出を探しに来る人も消え朽ちるにまかせるのを、傍観者としてしか見られない自分だと識らされる。否、傍観者でも無くなるのだ、いずれここから遠ざかっていくのだろうから。
 二人で建て、子どもを育てたマイホームの庭には、花好きだった妻が生前に植えていたチューリップやグラジオラスや名前を知らない花々が次々と芽を出しては咲き、隣に借りた畑では、何百本という幾種類もの人参が収穫時期を迎えた。生ジュースに免疫効果があると知り、昨年秋に二人で種蒔きしたものだ。闘病と看病に追われて草取りも間引きをする暇も無いままに、最初の有機の堆肥のみで成長したヤツラが食してくれるはずの主を見失ったまま抜き差しならぬ密集の中で細い身を寄せ合っている。妻健在なら今頃おいしい煮物ともなって食卓にもあがっていただろうが。
 通院での抗癌剤治療の始まった一年ほど前から食事時は録画したお笑い番組を一緒に観る習慣としていた。笑いが免疫の活性化に繋がると学んだからだ。連続ドラマも二人で見ていたが、妻亡き後の孤独な食卓では録画していたお笑い番組も連続ドラマの続きも独りで見る気はせず放り置いたままになっている。

 だが。替わりに報道番組を見る時間は増えてきた。「教え子を再び戦場に送るな」をスローガンに掲げて戦後発足した我が日教組を「癌だ」と放言する作家らがでしゃばっているのを見ると「オマエが真っ先に前線に行けよ」とテレビに向かって吠えるようになったからには、自分が退職時に誓ったアンガージュマン(社会参加)の信念は息を吹き返しつつあるのだろう。市民運動が待っている、と。
 復活はせねばなるまいと思うものの、現実では元社会科教師が社会の実際的義務通知を前に、面目も無く狼狽えている状態だ。結婚当初、妻に「口出しせぬから、最初から勉強のつもりで家計や事務手続き一切をやるように」と任せたツケが、今にして何も出来ない、塵出しにすら戸惑う自分を作っている。月毎の収支は不明、事務的な手続きには追われる日々だが、「寂しくなりましたね」の慰めには「単独行を信条としたオレだぜ。独りの自由を楽しめそうでワクワクしてんのヨ」と応え、それでも憐憫を隠さない知人には「婚活楽しいぜ。今から饗宴の第二の人生さ。終活には早いだろ」と返す態勢を次第に整えつつある。
寂しくなんかは無い、いつでも仏前の笑顔と語り合える、と応えられる自分が今はいる。
「早く逝ってゴメンなさい、なんて思ってないよな。病の宿命を引き受け、今世での使命を果たし終えたから早くに逝ったお前だ、前向きで人を思いやった人生は鏡のようにこれからは静かにみんなを照らしていくだろうよ。願兼於業と言うんだよな」と読書から得た知識で笑顔の妻に語る。「プラトンの『饗宴』から言えばツインソウル(一対)だった俺達が、現世で伴侶として選びあったのは当然の約束だったんだな。来世でも必ず会おうぜ」とも。
 

 現役時に学校ではカウンセラーとして立ち、十五年ほど前には催眠法による『前世カウンセリング』を上梓した自分の、現在のスタンスはこうだ。
 輪廻転生(リインカーネーション)を信じる。
 人は皆幾つもの過去世を繰り返し現世に至っている。それは、來世も必ずある、に繋がる。 
永遠に輪廻する魂は、誕生する時に親や自らの肉体、環境を選んで生まれてくる。子が親を選ぶ、その証拠は幼児に聞いてみるがいい、どうしてここに生まれて来たのかを。産婦人科医師の証言著書もある。
 近年のスピリチュアル(霊的世界)研究は著しく、キリスト教世界でも輪廻の例証(霊障ではない)が多くあげられるようになり、吾はどこから来てどこへ行くのか、に強く関心が集まるようになったと聞く。
 さて、現世に転生する時、人は自らに課題を用意して誕生してくる。課題は選んだ環境の中、キルケゴール風に言えば『人生行路の諸段階』で、障壁として顕れるがそれは自分で課したレッスンなのである。苦労多しと、ヨソから思われる難題はデキる人だからこそ自ら選んでいるのだし、課題が準備される為に、袖触れ合う他生の縁人達まで総て、周りの人が協力してくれるのである。身近な肉親から友人ライバル,時には敵対する者として。植物にしても雨季乾季があって育つように艱難があってこその人間の成長なのだろう。己の魂の成長のアシスト役として深い関係となる人々は過去世においても幾度となく繋がってきたのだ。それら魂の友達をソウルメイトと呼ぼう。ではレッスンすべき課題、「魂の成長」とは何か? ここで明らかにするには及ぶまい、教師職は既に退いているのだし。
 「何を学ぶべき課題として私は生まれたの?」と言う問いは、現世に最も繋がりある過去世の人物に退行催眠で問うてみたらいい。
 ヒプノセラピー(催眠療法)で、自分はサポートしている。二例をあげよう。「自分に正直に生きる事だよ」とアドバイスをくれた過去世の人物は男性詐欺師だった。心の病を背負った来談者には、開拓時代のアメリカ西部の鉄道、その近くの野原に寝そべっていた男が「休んでゆっくり行けよ」とメッセージを送ってくれたそうだ。
 宿泊催眠を行っている我がヒーリングハウス「北緯三十一度」は、宇宙と繋がるロケット基地のある本土最南端、大隅半島は辺境の佐多岬近くに開設している。セラピー益金は平和や環境の内外NPO団体に今後も寄付させて貰おう、年金で十分だ。
 本日も快晴なり。妻と二人三脚でやる予定だったヒーリングハウスに、「開店中」の幟を立てるとするか。 完

 

 

 

 

 

 

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