top of page

     みんな夢でありましたか ヨシオくん             

 

酒 無き陶酔の季節にボクらは出逢った。志布志湾から潮騒が届く旧い校舎で〈風が吹き抜ける老松のとよもすもとに 瞳をあげて見晴るかす船路の行く手〉と校歌 を歌い、思春期の誰もがそうであるように自由を求めた。木造校舎端っこの狭い文芸部室そこは自由に溢れ、受験生という鎖をいつでも解いてくれるのだった。
だ が。文芸部とはいうもののダベる内容は青春論や青い人生論ばかりで、一九六七年のその年、初めて沖縄から芥川賞を獲った大城立裕の〈カクテルパーティ〉や 大江の〈万延元年〉の文学が話題に上るなどは無かった。図書室の蔵書は旧い日本文学や世界名作の類ばかりで新書を目にする機会が無かったからだ。マンガは 話題になった。
  〈あしたのジョー〉が始まった年末、知っているかと訊いてきたのはヨシオだ。ファイティング原田に似ているといわれボクシングファンだったボクは、勿論と 即答した後に続けている「面白くなりそうだな」。〈我々はあしたのジョーになる〉と、よど号機上から赤軍が宣言するのは三年後で、メンバーの弟で、後に ロッド事件を起こすナンバダイスケと鹿児島べ平連で一緒になるなんてその頃想像もできやしない。ボクは愛国少年だった。〈ジョー〉の作者ちばてつやの〈紫 電改のタカ〉の愛読者でもあったのだが、そこから反戦思想をくみ取る社会性等はすっぽり欠落していた。
  それでも。時代の潮流に社会問題を語る会を作るべしと促され、ボクは黒板に檄文を書く。文芸部からヨシオにシン、級友ではアイなど十人近くが集まると、放 課後の教室で活発な議論、例えばベトナム戦争や文化大革命をテーマに激論が交わされる、筈だった。だが鳥となって社会を俯瞰するは叶わず、雛にすぎなかっ たボクらの話題は文芸部室と代り映えのしない人生論だった。
  文芸部誌<奔流>第二十号に、〈長い長い道程に 今こそ私は踏み入るのだ〉とシンは決意を綴り、〈秋の創造者 それはやっぱり少女自身でし た〉とマリはメランコリーポエムを。〈イワンが月のお姫様をつかまえた わたしの夏の終わり〉はツィッギーに似ていたトミコ。〈くるみ人形〉という詩を書 いたサチコは後年北村太郎と田村隆一の詩人論を上梓する。
 ボクは幼稚な愛国少年風随筆を出している。            
  秋に始まった〈オールナイト日本〉は、深夜密かに都会への憧憬を育んでくれたのだが東京の私大には落ち、地元の国大に滑り込んだボクだ。山岳部に入部した ボクはバイトに懸命で、金が入ると単独山行に出ていた。ヨシオは一浪後、長崎の公立経済大に合格する。梅雨明けを待ってヤツをビヤガーデンに誘った。「お めでとう、カンパーイ」を大ジョッキで繰り返して五杯目、勢いよく当てたジョッキを破壊してしまう。弁償要求されるのを恐れて逃げ出すしかない貧乏学生 だった。鹿児島の会社員を辞め、実家に戻り公務員の受験勉強をしていたシンからは時々便りが届いていた。「二次試験が終った。作文テーマ、まるで俺におあ つらえ向きの〈読書と私〉には笑ってしまった。今は日直バイトをしながら読書三昧だ、フロムにスタンダールに大江に、聖書とかだな」と。
  一九六九年、燎原の火の如く全国に展開していた大学紛争を圧殺すべく権力は大学管理法の制定を策動し、立法化阻止を掲げて多くの大学が無期限ストに突入す る。スト実行委を引き受けたのは、スト中にバイトして山行費を稼ぐ目論見だった。だがそんな個人的目論見など容易に粉砕して、時代の潮流は愛国少年を反戦 青年に仕立ててしまう。多くの学習会に誘われるうちに深入りしたのは文学でなく社会思想で、サルトルとマルクスこそが時代の主流だと確信した。が、友人達 は異なった。公務員となって市内に戻って来たシンは「目覚めよ、神の国は近づいた」と言い、「共産主義はサタンの思想です」とヨシオは口にするようになっ ていた。時代の激しい潮流の中で彼らもまた思想的スタンスを求めていたのだろう。それでも、自分こそが本流で彼らのキリスト教は傍流だと思っていたボク だ。同じ頃、アイがカトリックの信仰を始めたようだと、隣県の短大に進学していたマリから聞く。
  ボクは変わらずバイト漬けの日で、帰省したヨシオとボウリング場や建設現場仕事を一緒にやったりもした。バイト後のパチンコでともに大勝して、マカロニウ エスタンのレコードを買った時、付き添っていた彼がファンだっただろと小柳ルミ子をプレゼントしてくれた。ホントは藤圭子だったのだが勘違いの好意を無碍 にできずに受け取っている。
  だが。バイトは山行からデモの遠征費の為と変わり、戦場を熊本福岡東京へと転戦した。ヘルメットも登攀用からデモ用とへと塗り替える。逮捕歴のある仲間と のバイトに公安の尾行が付く時もあったし、統一公判中の同志支援の為に街頭カンパもするようになっていた。ウーマンリブの活動家達とも交流学習をした、女 も知った。ヒッピー娘を連れていった講義で、娘がいびきをかいて眠りだして教官を呆れさせた事もある。
  そんな頃だ、ヨシオが入院したのは。大学病院に見舞うと青白い顔のヤツが言った「足に大きな腫瘍ができていたらしい。切断になるかも知れないが、その時は その時さ」。幸い切断する事なく退院したヨシオは、その後一層〈原理〉に深入りして行く。昭和四十七年一月二十二日付の手紙には「現在、長崎の路傍におい て、私の信じます教えを教会の先輩達と共に訴え続けています。色々な試練に遭いますけれども挫けずに訴え続けていくつもりです。いつの日か貴君も神への信 仰にめざめて復帰されん事を」とあった。革命歌〈インターナショナル〉が骨の髄とまでは言わないが血流には馴染んだと自己認識していたボクだ、一読して放 り投げたどころかヤツを試している。街に誘い、飲んだ後で囁いた「オンナのいるところに行こうか」。「いや,要らない」答えた彼の目に躊躇いは無かった。 サタンへの蔑視も無かったように思えたのはボクが酔っていたせいか。
  オンナでは一度だけヨシオに負けている。長崎にヤツを訪ねた時だ。ボクは目的もない五回生で、財政学を得意としていたヨシオは順調に最終学年を迎えてい た。彼は大学の友人を誘い、元軍港佐世保の背後に立つ弓張岳からの眺望を楽しんだ。「戦前は機密保持の為に中腹までしか登れなかったそうですよ」と説明し てくれた友人の実家に招かれるとオンナがいた。友人の実姉とそのムスメ。酒席となった時だ、ムスメが初対面のヨシオに抱き着き、顔中にキスの雨を降らせる と膝の上に座り込んで離れない。そのコを抱え込み、マイッタナアと相好を崩しきったヨシオの眼差しに勝ち誇った輝きがあったのにボクは気づく。三歳くらい のムスメは真に無邪気で可愛かった。この時ばかりはオンナで負けたと思ったね、初めてヤツに。
  ヨシオは鹿児島では有名な大手産業に内定していたが、辞退して宮崎に就職して行った。同じ三月にもう一人、去った女がいる。ボクの初恋の娘、えりこだ。中 学で転校して以来、一年遅れで入学していたのは気づいていたが、もとよりコッチは大学解体を叫んで講義に出ない身の上、一度きりの僅かな会話を残して彼女 は音楽教師として旅立っていった。旅立つ事もできぬまま六年目の泥に足を絡めとられていたボクだ。安保粉砕や沖縄返還闘争の中で逮捕された仲間は皆大学を 去っていた、水俣に三里塚に或は地下に。立つ位置の異なるヨシオまでも、退職して統一教会に献身する為に長崎に発ったと知る。寄こした手紙には「君はやは り教師が向いていると思うよ」の文字があった。短い同棲の後に去ったヒッピーの娘からも「先生を目指してね。応援してるよ、フレーフレー」のエール文が届 く。それらに押されるようにして教職単位をかき集め始める。
  学費の為にアルバイトも続けた。ナップザックに着替えを詰めて港湾労働に通ったが、先の見通しなんて降灰の最中に桜島を眺められないのと同じくらいにま るっきり無かった。団塊世代が競った高校社会科教職の倍率は四十倍に近かった。灼熱の下の土方仕事で焼けた皮膚を何枚も剥いで落とし、時に電車を途中下車 してシンのアパートに立ち寄ったりもした。同居していた妹がコップ一杯の焼酎を出してくれた。兄が不在中でも笑顔で迎えてくれた気立てのいい娘のコップ酒 に救われ、それが唯一の活力になっている。
  シンが独身に終止符を打ったのは昭和四十九〈一九七四〉年三月九日。披露宴でボクが歌ったのは好きな網走番外地だ。「どうせ二人の行く先はその名も極楽ハ ムネーン」とやったらシンに笑われた「ハネムーンも知らないのか」と。シアワセなんてモノから最も遠い場所にいたボクだ、知る由もない。宮崎の会社員と なっていたヨシオも宴に参列していた。帰るヨシオを本駅まで列車で送りながら話す。原理を辞めた理由は「交替した指導者についていけないと思ったからだ」 と短く語った。「伴侶を求めるのはどんな時だと思うか」と問うとヤツは答えた「自分を認めてくれる人を必要とした時じゃないか」。認められる何もない自分 に気づかされる。そりゃそうだ、〈自己否定〉と格闘していた最中にいたのだから。だが酔いが矛盾を放言させる「ヨシオ、結婚式には友人挨拶やってくれ」。 ヤツは答えた「なら俺の時はお前が司会だ」「酒飲みに司会は無理だぜ、歌にしてくれ」と断わっている。
  その後数年、ヨシオとは年賀のみのつきあいとなる。〈旅立ちの歌〉が流れる〈乾いた空〉の下を定職に就けもせず、土にまみれて彷徨うボクだった。そんな 中、友人達は手に手を取ってゴールインして行く。小学校教師をしていたアイは同じ学校教師と、中学教師をしていたマリは県職員と。やっと教職に就いた時、 先輩教師からは囁かれた「えりこってご存知でしょう。息子の嫁なんですよ」。
  免許を取り中古車を得て、ヨシオとの交流は復活した。車で一時間の距離を泊りがけで往来しあうようになった。迎えた方が接待費持ちの習いになっていたが、 コッチの飲み屋は○○小路という長屋にスナックと小料理屋が寄せ集まった一軒だけ。遠い昔に娘だったろう女の待ち受けるそこを右から左へとハシゴして一丁 あがり。懐の痛まぬオゴリだったが、県都宮崎市でのヨシオの出費はボクの倍以上だったただろう。ヨシオは安い店を選んで案内している風でも無かった。二人 で好きなパチンコに行く事もあった。大勝した時がある。ボクは早打ちが得意でチューリップの上に玉を重ねる〈ぶどう〉造り、つまり開きっぱなしを造るのが 特技だった。その日、ピースを銜えながら数軒の店で十台近くを定量打ち上げにし、最後に寄ったゲームセンターでも大当たりを出して店内に大音量のベルを鳴 り響かせた。その夜、布団の周りに戦利品を並べて眠る。カートン煙草に高級と名入りのライター数個、皮ベルト、腕時計にトラベルウオッチ、普及し始めたば かりの電卓等。布団を敷いてくれるヤツも笑顔だった。美酒と勝利に酔いしれた夜の夢は、記憶にない。
  シンに遅れる事九年の一九八三年、十歳下の教え子みよ子が嫁に来てくれた時、三十四になっていた。約束通りヨシオが友人祝辞を述べてくれて一月後、転任と なる。鹿児島から四百キロ下った喜界島にシンとヨシオがそれぞれ来島した時、子育て中の妻が覚えたての島料理、ヤギ刺しや鶏飯でもてなしている。独身のヨ シオに黒糖酒を注ぎながら「イイヒトはいないのか」と訊くと、「幼稚園の時に好きだった子いてナ」と、ヤツは初恋とも言えない淡い思い出を延々と語ったの だ。間もなく届いた礼状〈貴兄の家から帰りの列車の中で奇跡的出逢いをした、例の幼稚園のコと遭ったんだぞ。母親らしき人と一緒で話はできなかったんだ が、これって運命と思わないか〉を見た妻が言い放った「相手が独身か解らないし、連絡先も交換しなかったんでしょ。これじゃいつまでも夢見るオジサンにな るわ、どうかしてあげなきゃ、アナタ」。妻にけしかけられるように動く。
  探したのは幻のような女じゃない、家庭科教師の百合子先生が一人目。三十前の彼女は華の中に芯を持つ女性で、親しみからオニ百合と呼ぶ同僚もいたが、優し く控えめな女性である事を見抜いていたボクは要請した。「親友とお見合いしてくれる気はないかな。ヨシオと言って名前が表す通り良い男なんだ」。彼女は答 えた「アタシみたいな女じゃ先生に恥をかかせる事にならないかしら」。即座に手を振って否定したが、問題は隣県にある。結婚となると彼女は離職せざるを得 ないだろう。教職を天職みたいにして、生徒と向き合っている彼女にその選択ができるだろうかと逡巡している間に話を立ち消えとしてしまった。オニ百合の話 をヨシオにしたかどうか記憶はない。彼女は生涯一教師を貫き、独身のまま定年を迎えている。もう一人は妹だ。「前に会った事あるだろ、ヨシオ。どうだ」 「エ、ちょっとオジサン過ぎよ」と即答が戻ってきた。八歳下の妹がヨシオの女性ホルモンを拒絶した頭皮を指している事を理解するや、男は頭じゃないぞと言 えずに沈黙してしまった、同じく容姿端麗とは言えないボクだった。アホな妹の事は当然ながらヨシオに伝えてはいない。
  島で七年を暮らし、三人の子供を連れて本土上陸した一九九一年、待ちかねたように、四十を過ぎていたヨシオから連絡がきた、結婚披露宴だ。六月二十三日、 沖縄慰霊のその日、妻に志布志駅迄送らせて日南線に乗り込む。十七年前の約束〈歌うぞ〉を果たすべく、喜界島で覚えた蛇皮線を手に披露したのは二曲。〈ヨ シオとルミ子は羽織の紐よ 固く結んでヤレホニほどかれぬ〉の「安里屋ユンタ」と、「十九の春」を祝い歌にしたもの。いい出来だったと思う。が、親しい知 人には毒づかれた事がある「人前で下手な歌を披露する気によくもなれるな、そういうのをヌケヌケと、というんだ」と。酒が入ると怖いもの知らずになる自分 だとは認めよう。だが、〈ヌケヌケ〉は披露宴でのヨシオに返上したい。新郎新婦挨拶でヤツは皆に言ったのだ「歳をとる度に理想の女性像は高くなりまして」 と。否、「歳をとる」でなく「失恋する度に」だったかも知れない、聞き分けるにはボクは酔い過ぎていた。傍らで頬を染める新婦を見て〈二人は深い精神性で 理解しあっているのだろう、お似合いだな〉と思っていた。〈原理を抜けて良かったぜ。教祖様に伴侶を押しつけられての合同結婚式なんてまっぴらだろ。見知 らぬ売国奴アベからの祝電など喜べるか〉とも。後日テレホンカードが届く。今でなら、若いカップルが〈結婚しました〉とポストカードで送るもの。テレカは 挨拶している二人の画像だが、中心は笑顔の新婦だ。〈綺麗な嫁さんを自慢したいんだな、ヨシオのヤツ、ヌケヌケと〉。そう思ったが、聖なる新婚さんを公衆 電話で無為に汚す訳にはいくまいと机にしまい込む。
  仕事を続けた嫁さんに支えられながら、ヨシオは難関の不動産鑑定士の資格を取ると、郊外に新築した家で開業した。新居を訪ねた時、玄関の上り口の上に特製 の本棚が設えてあり、そこに送呈した拙著「単独行」や「全作家短編小説集」が整然と陳列されていたのに感激した。連れていかれたフグ専門店で初めてのコー ス料理にも感激して舌鼓を打った。西施乳と嫁さんを前に、確かめるべきヤツの挨拶「歳をとる度に、か、失恋する度に」だったかはどっちでもよくなってい る。 
 二人が山行を楽しむようになっていた事は彼のブログで知る。山で見つけた四季折々の草花写真には自作の詩が添えられていて、見る度に心が和んだものだ。                 
  夫婦で訪ねてきてくれたのは、霧島近くに借家していた時。霧島山行の後だったのだろうか。二家族四人で食事に行き、最も高級な会席膳をご馳走したのだが、 フグ料理には足元にも及ばなかっただろう、味も値段も。                                           
  ボクは退職前年の二〇〇九年、縁があって南海日日新聞という地方紙に小説を書かせて貰った。奄美復帰から沖縄復帰に至る頃を書いた百五十三回に及ぶ連載 「白幻記」が終了した秋、〈無理やり読者〉を招いて感謝祭を設けた。拙作を今まで勝手に送りつけてきた被害者達だ。十人程の客人へのお土産として妻は干し 柿を準備してくれ、ヨシオにシンにアイにマリなどの旧友、それに教え子達が来てくれた。
  会うなりシンが眼光鋭く言った「この中にフラれた女がいるだろ」。旧友は怖いと思わされる。いたのだよ、二人。だが断じてボクはしつこい男ではない。逆に 二人のおかげで妻と出会えたと感謝しているくらいだ。その事実を明らかにはしなかったが、知ったとしても「あら、どの人」と笑ってすます、そんな妻だっ た。
  座席を指定してしまうと兵庫から駆けつけてくれた若い娘が孤立してしまう事を配慮して自由着席とした。その為、高校の友人達は久闊を叙せなかったかも知れ ない。申し訳ないと思っている事がもう一つある。その後、マリから〈昔の仲間で文芸誌を作りませんか。オンドを取ってよ〉と頼まれた時、ボクは動かなかっ た。否、動けなかったのだ。妻がガンを再発していた。
 理由を旧友に伝える事を潔しとせず、黙しておればいずれ本気になった誰かが進めてくれるだろうと考えていた。                    
  新刊「白幻記」を退職記念として友人達に送り届けた後、妻には初めての沖縄に誘った。摩文仁帰りの足で沖縄タイムス社を訪ね新刊の紹介を依頼すると、大城 立裕氏が書評を書いてくれた新聞が後日送られてきた。氏は現在、辺野古基地建設反対の先頭に立つ。〈九条の会おおすみ〉の平和講演に来てくれた後に飲んだ 目取真俊氏も同戦列に加わっている。さても二人に教えられる事は多い。
  退職記念に妻が買ってくれた軽キャンピングカーで一緒に旅をした。紀伊半島や娘が山小屋バイトをしていた富士山へ。登山に用いた杖をお土産としてヨシオに 届けた。その後、妻の闘病は一進一退のように思えたが、絶対助けてやると決意していた。それが今まで自分に好き勝手な人生を歩ませてくれた伴侶に報いる事 だと。しかし。妻は二〇一四年春、桜の満開を見ずして静かに旅立つ。さる信仰に深く帰依していた妻は五十四歳の最期まで凛とした姿勢を保ったままに逝っ た。
  妻の友人達には告別を報せ、自分の友人達には喪中欠礼とした。シン、マリ、アイから篤い弔文が寄せられたがヨシオからは無かった。間もなく、奥さんから予 想だにしない訃報が届く。〈去る二月、二人で山行して下山直後に突然旅立ちました〉というもの。あろう事か、ヨシオは妻より二か月前に発っていたのだ、同 じ霊山という山に。
  それからボクは両翼を捥がれた鳥だ。飛ぶ事はおろか歌えもしないカナリヤだ。酒は増えた、ビールにワイン、清酒から焼酎に泡盛と、陶酔無き酒を巡る孤独な 宴の日々だ。翌朝、食卓に食べ残しの山男料理を見ずとも一杯やりたくなる。アル中になるのを食い止めてくれているのはコーヒーだ。自分の順では三位となる 〈キリマンジャロ〉より旨いと思っているコーヒーの〈ジニス〉と〈ハックルベリフィン〉はアイとえりこが送ってくれたもの。
  歌えぬカナリヤがボクなら森田童子は吐血しながら歌うホトトギスだ。童子の掠れた歌を聴きながら五木寛之の「下山の思想」を読んでいたら、「善き者は早く 逝く」という文がコーヒーと一緒に胃の腑に優しくストンと落ちて行った。童子は歌う〈ぼくはもう語らないだろう ぼくたちは歌わないだろう みんな夢であ りました〉。歌の背後に流れている映像は、東大安田講堂闘争だ。果敢に「自己否定」を叫んだ同志達は、半世紀に近い年月をどう歩んだのだろう。
 童子は歌う〈みんな夢でありました もう一度生きなおすなら どんな生き方があるだろうか〉と。ヨシオよ、キミに同じく問うたら何と答えるか。
「同じ生き方をするよ、同じ伴侶を得て、な。お前だって同じだろ、ワハハ」
と、独特の高笑いできっと応えるに違いない。
「そうだ、同じ人生に決まってるさ」とボクは答えて、ヤツの肩を叩く。
「そしたら来世でも友人だ。今度四人で山に登ろうぜ」。   

                            完

 

bottom of page