ヒプノ 鹿児島
邯鄲(かんたん)の夢 <実存ヒプノ10>
橋 てつと
「幸せになれそうかぃ、ブン」と、モモがやってきたのはクリスマスだ。相方を女子会とかに送ってから飲みに来るのが恒例となっている。独りのクリスマスとは哀しいなと揶揄(やゆ)してきた昨年は、それってクリスマスファシズムという資本主義害毒だぜ、と論破してやった。「最近のマルキストは幸せなんて語を安直に使うんだな」と返すと「言い直そう。寝たのか、手フェチ女とは」と、先程とは天地をひっくり返して下卑た問いにしてきやがった。
「沖縄はどうだった、玉城選挙は」、ヤツ持参の泡盛を酌み交わして訊いた。「その前にブン、さっきの答えだ」「しつこいね。進捗(しんちょく)無しだ。男性恐怖症の心を開かせるのは容易じゃない」「体を開かせられたら心は開く、これ唯物論」「アホぬかせ、逆だ。心が先で体が後、これ唯心論。で、沖縄は」「九条の会仲間が旅費くれた分、精一杯やってきた」「心配してたが開票直後の当確には驚いたぜ。大差だったのもな」「沖縄の良識よ」「だったな、俺もカンパを送ったんだが受取団体名がミスってましたと、ご丁寧に領収書が二回送ってきた」「だが、辺野古は今からが正念場だぜ」「やれる限りの支援をやろうぜ」「そうだ。お互い、家の鼠にはなるまいぞ」「何だ」「引き籠ってはチューチューと自己チューを繰り返す」「ハハ。同感だ」「頼むぜ民主主義のセゴどん」「お前もな、キチゾウどん」。
肴はムカゴ、銀杏(ギンナン)に鳥刺しと焼き鳥だ。俺が割引食品を買って差額をカンパに回している事を知っているモモだが、注文を付けないヤツではない。「クリスマスだぜ、解凍鳥(チキン)より七面鳥(ターキー)が良かったな。鍋でも良かったんだぜ、すき焼きか蟹すきでも」「贅沢抜かすな、差額カンパしてるのを知ってるだろ」「ああ、年間割引額はいか程になった」「十八万八千」「そんなにか」「全部をカンパしてる訳じゃない」「毎晩三缶のビールを減らしたら健康にもいいし、カンパも増やせるだろうに」「ビールじゃなく発泡酒だ。減らせとは亡き妻も口にしてた。だが、空き缶は福祉作業所に資源カンパとして運んでいるし、飲酒は命削っての崇高な行為だと言い聞かしていたさ」「ヘ、スウコウね、ずっと割引食品だったのか」「否(ノン)。妻が生存中は生協さ。安全食に気を付けてたな」「それが割引食品とは百八十度の転換か。戦後の〈逆コース〉みたいだな、武力解体から再軍備へ」「旨い例えだな。〈私は貝になりたい〉の映画の話をした事あったよな」「ああ。徴兵された散髪屋が命ぜられた捕虜殺しをやり、戦後の裁判で死刑判決を受ける。その時呟(つぶや)いたのが、生まれ変わったら貝になりたい」「そう。転生を信じない唯物論者のお前でも共感できただろ」「ああ」「全てが後の祭り、と臍(ほぞ)だけは噛みたくは無いな」「おう」「〈郷原(ごうげん)は徳の賊〉って知ってるか、モモ」「何だ」「論語だ。郷原つまり八方美人こそ悪徳と言う意味だ」「迎合はならんという事か」「そう」「自己主張こそ民主主義の基盤だ」「だが、日本人は和が優先で自己主張を嫌う」「昨今の芸能人バッシングって酷いと思わないか。ラッシュの村本や、辺野古反対を言ったローラへ政治的発言するなとかだ。芸能人は黙れ、はおかしい」「米国では逆だそうだ。発言無き著名人は愚か者との烙印を押される」「ローラを傷だらけにしちゃなんねぇ」「乗ってきたね」「で、お前の手フェチ女だが」「又しつこいね。ボチボチだと言ってるだろ」「遅々(ちち)たる歩みじゃ乳は手に入らないぜ」「痩(や)せてんだよ彼女。裸を見せて呉れた訳じゃ無いぞ。食が細いのは男性恐怖症と繋がってるんだな。肉感的(グラマラス)身体(ボディ)を作りたくないと」「なるほど」「で、言ってやったのさ『私は蟹になりたいと思いなさい』と」「蟹か」「そう。蟹の身はビッチリの方が喜ばれる」「望んでるのはお前じゃねえか。だが、月夜の蟹は身が薄い、知ってるか」「あたりきよ。己の影に怯えて餌を漁(あさ)らないから」「知ってたか。じゃ、お前のセイコーを願って歌ってやろう。サクセスのセイコーだぞ、勘違いすんな」
と、いきなり立ち上がったモモだ。
「何だ、十八番(おはこ)の〈野ばら〉か」
「否(ノン)。年末らしく第九交響曲、歓喜の歌だ。聞け
♪ 友(フロイデ)よ こんな(ニヒッ)歌(トオネ)なんか(ジーゼ)じゃない♪
一番を終え「教えてやる。シラーの原詩だ、俺達はこんな歌なんか望んじゃいないと、旧体制への復古拒絶だ」とモモ。
そうして、呂律の廻らない口調でナポレオン以降の西欧史を延々と語ったのだ、この俺に。元社会教師だと何度も伝えてきたのに。「歴史を戻すなかれ、復古主義はナンセンス」と繰り返すヤツの大脳皮質こそ旧くに戻っている。
モモを呼びだしたのは松の内を過ぎてから。畑の大根、人参、蕪(かぶ)に高菜などの野菜を持ったままヤツが言った「あの女はどうなった、心理学に興味ある女よ」。
「は?」気づかぬ振りをした。「晴耕雨読の生活に憧れますとか言った酒井和歌子似の女よ。離婚は済んだんだろ」「みたいだ」「戦争に強い農業やってますと、自慢の有機野菜でも送ってみろ、イチコロだぞ」
ヤツには隠していたがその手は使っていたのだ。野菜を送る度にお礼の電話が届いていた。「礼を言われる程の事じゃ無い。田舎の農夫(ファーマー)ときたらこれが精一杯ですよ。都会の紳士(ジェントルマン)だったら、ディナーの後に『部屋とってますから』と耳元で囁(ささや)くんですがね」と言ったら、「いいですわね」と笑い声の混じった返事が来て、気を良くしたりもしていた。
「こんなに戴きながらお返しするものが無いわ私」と次に言われた時、東映ヤクザ路線風になったのは酒のせいだ。それも健さんじゃなく悪役で。「返すものが無いだと? なら教えてやろう。ハクイ女(スケ)なら返す方法があるんだぜ。カラダだよ、カラダ」と声色でやってしまったのだ、ドスまで効かせて。〈ハクイ女(スケ)〉の意味を酒井和歌子が理解したかは判らない、が、カラダの後に激しく電話の置かれる音がした。以降、電話は不通となった。返送されるのが怖くて野菜も送っていない。
手フェチの女の方は、上手く誘い出した。「前生の防空壕での戦争体験、それが男性恐怖症の深層トラウマになったとしたら私に責任があります。再度やりましょう」と。
「別の過去生です。名前解りますね」。「ーーテンバ」「テンバさん? 場所とか時代とか教えて下さい」「ーー」「何をしてますか」「ーー」。
名前を答えたのだから、過去生に誘導できたのは間違いないが、何故か口を噤(つぐ)んだ風に思えた。「ね、教えて下さい、何をしています」「ウキアブラを戴いたところ」「ウキアブラって」「お酒」「酒ね。何かの儀式でも」「ヨツギ」「ヨツギとは」「結婚式」「え、貴方は」「初(ウブ)女(メ)」「ウブメ? 新婦さんか」「〈頷く〉」「おめでとうございます。嬉しいでしょうね」「コワ イ」「怖い、何が」「ヤマイリ」「ヤマイリって」
答えずに歌い始めている。
♪イザナギてイザナミ契るヒナタカゲ 世継ぎのこりを天地に祈る♪
途中で涙を零(こぼ)したが、手で拭(ぬぐ)う素振りは見せなかった。歌い終えて突っ伏した女を楽な姿勢に戻してから再び訊ねた「時は進みました。安全な所ですよ。何をしていますか」「〈無言〉」「結婚生活はどうでした」「〈無言〉」「ねぇ、何か教えて下さい」
大きく息を吐いたかと思うと呼吸を整え、再び歌い始めている。
♪いかしゆるさず はやひとひ ますらふたひめ すけよつひ ますけむつひの ちぬきはひ まちぬはいまま いやまひて♪
歌い終えると再び突っ伏したのだった。楽な姿勢にしても答えないので、中間生〈注。死後の世界〉へと導いた。
「何をしてます」「何もしておらぬ。決まっとるじゃろが」
怒気を含んだかの声は威厳を纏(まと)ったかのようだ、身構えて訊く「先程の生について教えて貰えますか」「〈無言〉」「教えて下さいよ」「何をじゃ」「結婚式だったのでしょ、最初の歌は」「祝いの歌よ」「怖かったのは何故(なぜ)」「〈無言〉」「ヤマイリとは」「ツルミ」。つるむ事かと解釈し、進めた。
「後の歌の意味は」「〈無言〉」「教えて下さい」「甘いッ、何もかも教えて貰えると思うな、己で考えよ」「解りました。何故教えて貰えないのですか」「仕来たりよ、よそ者には告げてはならぬ」「仕来たりね。ではどんな人生だったかを教えて」「〈無言〉」「一言で」「辛かった」「どうして」「裏切られた」「誰に、ご主人ですか」。
微(かす)かに頷いたかに見えた女に続けた「で、どうなりました」。
大きく息を吐き出してから答えた「夫は殺された、掟でな」「死罪ですか、何故」「他の女とつるんだから」「え、浮気なんでしょ」「夫婦(めおと)の契りを破ったのだから当然じゃ」「たかが浮気で?」「掟では一番の重罪なのじゃよ。首刎(は)ねの刑となって、〈十度(とたび)勘当(わかれ)〉も言い渡された」「それは」「十回の転生の間、仲間との縁は無し」「十回の転生中、貴方とも会えないと」「鉄の掟じゃからの。じゃが掟は間違ってたと判った、前の生で遇(あ)ったからの」「あの東京大空襲の」「そう。じゃが結ばれなかった。遇いはしたが結ばれる前に戦死だったのよ。こっちに来てから戦死は知った」「そうだったんですか。では現生の貴方へのメッセージを貰えますか」「メッセージとは」「学ぶべき課題です」「愛される事じゃ」「前回では、愛する事では無かったかと」「合わせ鏡よ。愛する事は愛される事じゃ」「では、愛してくれる人を見つけよと」「そう」「近い将来で貴方と相思相愛になる人の中に私は入ってますかね」「私とは」「セラピーしてるこの私」「オヌシの仕事は何だった」「元教師です」「たわけめ。ズルをするんじゃないっ」「へっ」「依頼者のヒプノをやりながら自分の未来をこっそり見ようとするのはカンニングだろ。教師たる者が愚劣、卑怯な行いじゃっ」。
叱責されてる生徒、若しくは蛇に睨まれた蛙も同然だ。尤(もっと)も催眠中なので彼女は目を閉じているのだが。「間違いました。反省します、御免なさい」「解ればよろし」。
穏やかさが戻ったらしいのをみて、再度訊いてみた「先程の歌はどんな意味だったのですか」「何か」「イヤマヒテ」「敬っていたせという、夫婦和合を歌ったものじゃ」「おお、内容を教えて貰えませんか」「図に乗るんじゃ無いっ。聞けば何もかも教えられると思うな。それくらい自分で調べいや」「スイマせんでした、アネキ」。悲鳴に近い声になったのも〈極妻(ごくつま)〉の啖呵にも似た迫力に怖気づいたからに他ならない。
一瞬だけだが男性恐怖症から極妻(ゴクツマ)に変身した女、彼女から電話が来たのは半月後。春を待ち焦がれる土中の虫みたいにウズウズしていた。先のヒプノで〈近い将来に相思相愛〉に名乗り出る(プロポーズ)の予告は済ませているし、その言葉は彼女の深層に浸潤しているに違いなかった。
「もしもし」と穏やかな、好みの声に弾む気持ちを悟られないよう返す「やあ、お久しぶり」。すると飛び込んで来たのは「アタシ、幸せになりたいんです]。「えっ」発火寸前のダイナマイトになって訊いた「シアワセとは結婚か」「ええ」「結婚とは結構毛だらけ、猫灰だらけ」と言い、〈尻(ケツ)の周りは〉と続けそうになって押し留める。
密(ひそ)やかな笑い声に、〈貴方を幸せの国に運ぶ宝船の船頭役は不肖このアタシめが引き受けましょう〉と即座に言えたならホストナンバーワンならずとも語りを生業(なりわい)とする上等のテキヤくらいにはなれたかもしれない。それが。口を突いたのは自分でも思いもよらない言葉だった、立て板に水の如く。
「だが、結婚で幸せになれると思ったらそれは安易な考えだ、およしなさい。そういう短絡思考こそが不幸な結果を生むのです。いいですか、哲学者カントは言った。『幸福になるのでなく幸福に値する生活を送るべし』と。つまり、何を手に入れたら幸福、どこからが幸福とか、そんなものは決まっちゃいないし決められようも無い。一千万円を手にしたら、否、一億だったら幸福? なんの、世界の富の半分を手にしてる富豪二十六人からしたら、それごときは犬の餌代にも及ばぬハシタ金でしょう。幸せの到達基準がある訳じゃ無い。結論、こうなのです。幸福を目的とするな、それより自己実現に向かって努力している今、後から幸せだったと振り返られるような今を生きなさい、とね」
実存主義者を自認していても、カント倫理は好きなのである。現役時代の学級通信名を彼の墓碑銘から〈星空〉で通したくらいだ。カント論をまくしたて「おわかり?」で閉じていた。
「幸せになる、を目的とするなという事ですか」「そのとおーり。結婚しちゃうより、結婚したがっている今の方が幸せなの」「よく考えてみます、難しかったので」。
電話を終えた直後、激しい後悔に襲われている。教師の悪癖、説教したがりからカント論などをまくし立てるとは。なんとお調子者のアホかと。すぐに電話を掛け直したが出なかった。夜、再びしたが不通だった。
独り酒を傾けていると寅さんのシーンが浮かんできた。思いを寄せていた女リリーから、思いがけずに結婚してもいいわと聞いて問い返す場面。「冗談だろ、お前。からかってんじゃないか」と真顔で聞き直して「冗談よ」とかわされてしまう。失恋を悟った寅さんはカバンを手に放浪の旅に出る結末。カバンも無ければ旅空も無い男の胸中にこだましたのは寅さん得意のセリフ「それを言っちゃあ、オシマイよ」だった。
「バカだね、ブン」。電話で伝えた時のモモジローだ、慰めどころか笑いを届けて来て、次に飲んだ時には「好きなコへのイジワルは反動形成と言って少年期にみられる傾向だが、お前成長してないんじゃないか」とまでヌカしやがった。「何言ってやがる、子ども扱いして。俺様に知ったかぶりなんかするんじゃない。こちとらは天下の心理(サイコロ)学者(ジスト)なんだぞ」「お見逸(みそ)れしやしたね。ホイ狸の金玉(きんぎょく)だ」。金玉は〈また一杯〉の意味で、お代わりを要求するヤツの常套(じょうとう)語だ。一口流し込んでから続けた「四面楚歌だな」「俺の女達か」「フン、似てるがじゃない。日本外交よ。今のままじゃ六カ国協議からも外されるな」「沖縄を見ると日本の主権を疑わざるを得ない、とプーチンにも言われたくらいだからな」「だな。ブン、対韓問題はどう思う」「近くて遠かった国を再び遠ざけちゃならない、対北にも隣国関係は大事だ」「同感だ。強制徴用工問題は」「河野外相の国会発言、つまり個人の賠償請求権は消滅していない、を前提に韓国政府と再交渉する事だ。スタンスは国連委員会の勧告に従う。先ずは〈被害者の立場に寄り添い〉、そして〈個人への賠償金として〉〈名誉回復を伴い〉〈加害責任と謝罪を明確にし〉〈真相究明〉と〈再発防止策を含む〉ものであるべし」「再発防止策とは」「国権の最高機関による不戦決議だ」「よろし。ブンお前、以前に強制徴用者のルポを書いたよな」「ああ。福岡の炭鉱の強制労働から逃走した朝鮮人の実話を書いて週間金曜が採ってくれ、全作家では小説にした」「そうか。話は変わるが、ヒプノで前生が朝鮮人というのはいなかったか」「いたぞ」と、別室から持ってきた旧作を広げる。一九九九年刊行の『前世カウンセリング』だ。渡した本を奪い返したのは、目を細めて活字を読むモモが難渋そうに見えたからだ。
「モモ、お前幾つになった。もう六十九のモウロク爺か。話はこうだ。被験者は女子短大生で題は二つの名を持つ女。日本併合下に平城北の農家で生まれた金という女性が、創氏改名で金村ハナとなり挺身隊に徴用されて日本軍と中国南部を転戦した」「転戦? 軍と? 慰安婦か」「そこまでは聞けなかった。が、おそらくな。終戦を待たずに病死した時、十九だった。覚醒後の話ではサッカーの熱烈ファンで、ワールドカップの日韓合同開催をとても喜んでいた。それを機にハングル語を学びたいと語ったのも印象深かった」「いつ頃だ」「カップが二千二年だから、ヒプノは二十五年くらい前か」「その後の彼女は」「会ってないが韓国人と結婚して向こうで暮らしていると聞いた、十年以上前だ」「そうか。幸せだといいな」「モモ、お前マジで幸せ路線に転換するんか」「気になるじゃないか。国連が毎年発表する幸福度もな。日本は世界何位だと思う」「二十位くらいか」「否、先進国では最下位の六十番めくらいで隣国より下」「驚きだな。昔、俺が韓国に本を送った話を知ってるか、モモ」「ニュースで見て驚いたんだった。二十年くらい前だろ」「もっと前だ。小学での初恋の女も俺を見てビックリしたと」「初恋女だと」「そう、今独身。交流あり」「お安くないねエロ爺、女誑(たら)し」「誑しちゃいない。それより送本話だ」「本題だろ。何冊送った」「一万冊」「どこに」「翰林(ハンリン)大学というとこ。金大中(キンデジュン)知ってるよな」「日本亡命中に拘束され、帰国後に大統領になり日本文化の解禁をもやった」「そう。彼の文化政策顧問になったのが池(チ)明(ミョン)観(カン)と言う人物だ。日本に亡命中はTK名で〈世界〉に投稿していた。彼が日本学図書館を造る際、友好の証に日本からの寄贈本で創設したいと発表した。賛同した市民運動のリーダーがマスコミを通じて全国に呼び掛けて、集まったのを仲間で送本した。俺は荷造りの手伝いに行ってた時のが放映された」「初恋女の感想は」「太宰か芥川みたいな作家とは似つかぬ普通のオジサンだったと」「真っ当な評価じゃねえか喜べ。他の女はどうなった? 教え子の秋吉久美子似は」「誕生日に手編みのニット帽を」「貰ったのか」「送りますとメールが来た、だけだ」「ハハ。未だ細い糸に縋(すが)り付いてるという訳か」
笑いが突然、声量のある歌になった。
♪何度も泣いた泣かされた それでも縋った縋ってた バカだなバカだな♪
「やめろ、縋ってる訳じゃない」に、俺の十八番曲〈新宿の女〉を惜し気にやめたモモだ。
「四十過ぎの恋と遅れての台風は怖いというから一途になるなとの警告だ。惚れっぽいところはまるで寅さんじゃないか、ブンお前、美女恐怖症とか言ったよな」「まあな」「何らかのコンプレックスを人は持つものだ。でもお前の場合はそれを曝(さら)け出す事で楽になっている。逆がアベだ。ヤツは学歴コンプレックスを隠す為に攻撃的になっている」「待て、俺に言わせろ。天下の心理(サイコロ)学徒(ジスト)に」「言え」「彼は〈自己愛性人格障害〉だ。コンプレックスの塊は周りを取り巻きで囲めて攻撃者には激しく反撃し、怖れるあまりに批判を聞く余裕がない。自己内省もできぬままこの道しかないと突き進むのは脅えの証(あかし)だ、トランプも同様。憂うべきは、社会の指導者にこれら人格障害者が多く見えるというところだ」「だな」「物事を多面的に考えられない人間は鬱(うつ)の手前だ」「お前みたいに失恋を重ねても開き直れるヤツからは鬱も逃げ出す」「それを言っちゃあ、オシマイよ」
鯨二頭が大口を開けて飲み、笑う。
ヒプノに来たのは自称アラサー。太めの眉にまっ赤なタラコ唇、胸(バスト)も豊かなセクシー女性だった。依頼の目的は一緒に暮らしている彼との結婚問題。低賃金の仕事に甘んじている彼に不満がある。どうすべきかというもの。
「現在の課題と最も関係深い過去生です。年齢、名前とか判りますね、教えて下さい」「歳は二十。名前はどっちを言うの」「幾つもあるのかな」「二つ」「作家みたいだ。よく呼ばれてる方を」「ツルマツ」「日本ですね。何をしてます」「家(ヤー)に戻るところ」「ヤーとは」「実家」「住んでいるところが解りますか」「道の島」。
話はこうだった。時は一八八〇〈明治十三〉年。場所は奄美群島。去年、鹿児島県大隅に編入された戸籍には美代名で届けた。ツルマツは幼(ワラビ)名で、島の多くが神から貰ったとする幼名を生涯の通称としているそうだ。
ここ迄に三十分要している。言葉が島方言の上、明治初期の奄美群島の社会制度に自分が不案内だった事もある。歴史には知識はある方だと思っているが、方言となると全く駄目である。現代語で喋って貰うように頼んだ。被験者の過去が外国人の場合にやるやり方で、必ずしも叶う訳でもないが彼女は協力的だった。以下は解りやすい対話に改めたものだ。
「実家帰りとは」「夫(トジ)と別れてきた」「離縁ですか。お辛い時に恐縮ですが状況をお聞かせ願えませんか」「夫(トジ)に失望したの。〈夏の蛤〉だった」「夏の蛤って」「不味くて見掛け倒し。金持ちの家のどっしりした人かと思ってたら、まるで怠け者だった」「うん」「オジ達の忠告に耳を貸すべきだったわ。金持ちの家だからと両親が乗り気になったの、時代も変わったしと」「忠告とは」「島唄にあるのよ。〈アダネ葉やあても島の家や立ちゅる 他村太(ウフ)家(ヤ)倉(クラ) 好(クヌ)の何(ヌ)すり〉」「意味は」「アダン葉の貧しい家でも他村の金持ちの家よりマシというもの」「昔は全国どこでも村内婚が一般的だったらしいね。花嫁に村の若衆が水を掛けて追い出す水掛け婚はその名残(なごり)だったとか」「そうなの? 私も掛けられた」「水掛けには村の衆の怨念があるとも聞いた」「怨念って」「村の若者を見捨てるのかと」「私は海水も掛けられて衣装の塩を落すのが大変だった」「難儀したね。いっぱい掛けられた女性は実はモテていたんだとか。ところで現生との関わりなんだけど何かありますか」「〈無言で首を捻(ひね)る)」「別れた夫が現生の彼だとか」「違う」「では時を進めます。現生との課題により関係深い場面です。何をしています」「広い座敷にいる」「一人ですか」「ううん、大勢」「宴会か何か」「そう」「お楽しみですかね」「楽しみ? コワイ」「なんで」「ウキユ唄遊びだから」
半ベソをみせたので休憩とする。一時間近くが経っており、自分の集中力の限界だったからだ。言葉をキィとする催眠(ヒプノ)は非常に神経を使う。不用意な語で失敗した例が過去にあり、集中力回復の為に休憩とした。休憩中は半覚醒である。完全に覚醒させれば最初から催眠誘導をせねばならない。半覚醒法は「眼を開けて私と会話しますが、次の合図で目を閉じると今以上に深い催眠に入ります」と暗示しておくやり方で後(ポスト)催眠技法である。体調を訊いたり首肩を弛緩したりで、五分の休憩である。催眠状態で放置して自分だけ休憩とはいかない。被験者が睡眠に陥ってしまうと催眠には戻れなくなるのだ。半覚醒法が催眠を深化もできる効果的な技法なのである。
催眠再開。「過去生へと遡(さかのぼ)っていきます。ウキユ歌遊びです。怖くはありませんよ」と恐怖感を取り除いてから、歌遊びから説明して貰った。
出戻りして二年の二十三になる自分に、再婚を願うオジ夫婦が自宅で催してくれたのがウキユ歌遊びという集団見合いだ。男女が離れて広間に対面式に座る。夫婦の心尽くしの魚料理を戴きながら、三線を伴奏に島歌の掛け合いが始まる。歌順は決まってない、思いを寄せる異性に気持ちを伝える歌詞も自由。島歌とは〈歌掛け遊び〉で、恋心を伝えるのが本来だったときく。ウキユ遊びはより真剣な告白となる。歌の途中で男が意中の女の前に進み、口に含んだ酒を口移しで飲ませようとする慣わしだからだ。女が飲んだら求婚を承諾したものとみなされる。勿論、拒否してもいい。
彼女が心惹かれている幼馴染(おさななじみ)のユウもその場にいる。現生で一緒の彼のようだ。ユウに心惹かれているが躊躇(ためら)うのは怠け者だからだという。(オヤこっちでも怠け者か)と愕(おどろ)く私との対話は続いた。ユウは幼い頃は〈漏(ふ)きユン童〉と呼ばれていた。手の俣から漏(ふ)き出る悪童(ヤンチャボウ)だったのが、少年期には〈泥棒(ハギ)〉のあだ名となり、今は〈シシ〉とも呼ばれている。畑で悪さをする猪にも似て手に負えない悪戯(いたずら)者の意味だそうだ。婚礼の時に海水を掛けたのも彼だ。一方、島には〈磯者(イソシャ)怠け者(シニフリ)〉の語がある。漁師という者は、やれ海が荒れていると言っては寝て過ごすか仲間と酒呑んでいるかだからである。彼女もユウに忠告した事があるそうな「突きん棒漁に出られん時は磯潜りをしたら」と。「磯潜りは怪我する」との答えが不満だった。その時だったか「泥棒(ハギ)は仲間の為や」とも言った。農作物泥棒は仲間に配る為で自分の為にしてる訳じゃないし、必要以上には盗ってないとの弁明にも納得していないと語った。だから、ユウが口移しに来たらどうしよう、と顔を曇らせていた彼女だったが、来たと小さく叫ぶなり歌い始めた。
♪酒ぬ一番(ハナ)酒(ダレ)や人(チュ)狂わすもの 私(ワン)や人(チュ)狂わす目鼻持たぬ♪
島歌は知るよしもないが、意味は漠然と理解できた。美人で無い私でいいのかとの謙遜。濃いアイラインの閉じた瞼から一筋の涙が零れたのを見て中断し、感情を鎮(しず)めるべく昼食にする。賄(まかな)いのギョーザは自慢で、一緒の食事が信頼度(ラポール)を高めて、後の催眠に良い効果となるのは経験済みだ。食事中に前生の先を訊く事はない。ウキユ酒を飲んだのですか、と訊いても解らずに答えられないだろう。こうした事からも催眠中の想起が想像で無い事は説明できる。食事後、前生催眠開始である。
「ウキュ酒の場面です。彼は口移しに来たのですね」「ええ、私の顔を引き寄せて」「で」「飲みました」「そうですか。では結婚したんですね。良かったじゃないですか。酒も恋も最初のが一番と西欧の諺にもあるそうですよ。間違い、恋とスープでした、失礼。時を進めます。幸せだった時です、何してます」「新しい(ミー)人(チュ)に恵まれました」「ミーチュ」「赤ちゃんです。女の子でした。とってもかわいいの。寝顔を見ていると私幸せだなぁって。でも」「何」「お祝いに来る人が口を揃えて言うの。『不器量(ハゴ)な子が生まれたな』って。『男(インガ)だ』っていう人も。解っているのだけど切なかった」「どういう事」「赤子(ミーチュ)を奪いに来る悪霊(ケンムン)を惑わす為なんだって」「ほう」「蟹を赤ちゃんの頭の傍に置く人もいるのよ」「何で」「蟹みたいに素早く歩けるようにって」「ふむ」「挟(はさ)まれはしないかと心配で」「尤(もっと)もだ。では時を先に進めて人生を振り返って貰いましょう。どんな人生でしたか」「今、息を引き取りました」「えっ」、慌てた。〈その生を終えています。中間生です〉と安らかな立場に導いてから人生を振り返らすべきだったのだ。被験者の多くが望まない臨終場面に誘うとは。失態である。が、狼狽に気づく様子も無く彼女は続けた「魂(マブリ)が身体から離れました。苦しみから逃れられます」「夫が必死の形相で屋根に駆け上って、『戻れ、戻れぃ』と私の魂を呼び戻そうとしてくれました。嬉しかった。愛されていたんだなと」「何歳でした」「四十と五」「病気ですか」「鍬(くわ)で足を切ったの。良からぬ毒が入ったみたいで、苦しんで三日後に絶命でした」「そうでしたか。災難でしたね」「災難? 違うわ。天命でしょ」「あ」。またも失敗したのだ。彼女の言う通りで、輪廻(リ)転生(ボン)論に〈災難〉の語はない。全ては自らが用意した課題として受容するのだ。それらを理解してない人、どうしてこんな目にと嘆く人に、決まっていた事ですと託宣するのは容易ではない。つい相手の土俵に上って話を合わせる癖が出てしまったという訳だ。
「ですね。災難は間違いだった。では心残りは無かった、と」「娘は気がかりだった、少しね」「どういう事」「十五で入れ墨はしてあげたわ」「入れ墨」「針突(ハヅキ)と言って成人女性は手の甲に入れるの。後生(グシュ)、來生への手形ね。だから針突をしてない女性(ウナグ)には葬儀の際に入れて弔うのよ」「ほう」「それをやってあげたのはいいんだけど、年頃になって鶉(ウズィラ)とミフとかの噂が立った」「ミフ? 鶉(うずら)って」「知らない? 鳥とか動物は雄が雌を争い取るものでしょ。鶉は雌が雄を求めて争うのよ」「へえ、羨ましい」「でも、抱卵からは雄に任せて、他の雄を捜して番(つが)いになるの」「ほお」「男好きって言うのかな。娘も子供達を二人の男に渡して今は三人目の男と暮らしている」「逞(たくま)しいというか。子供さんが心配なのですね」「でもないのよ。父親のはっきりしない子でも〈皆(ヒン)の(ニャン)子(カー)〉として面倒みてくれる村(シマ)だから」「そうですか」「あ、私の棺桶が〈道切り〉をされた」「道切りって」「墓地で御棺を廻して村(シマ)がどっちの方か解らなくして霊が還れないようにするの。現生との縁切りね。オバが言った『清(チュ)らさんシマ求めて行け。戻ってくるなよ』って。でも、夫は二人が暮らした村の方に私の顔を向けて葬ってくれたわ」「そうですか。では中間生です。前生の夫と今の彼は重なるとあなたは言いました。今生の課題を教えて貰いますか」
「邯鄲(かんたん)の歩み、でしょうか」「邯鄲の歩みって」
「怠惰と思えた夫に私は愚痴をぶつけていました。外海が荒れて突きん棒に出られない時は、磯で潜って突き漁をすればと。夫は頑(かたく)なに耳を貸しませんでした。やり方が異なるのを真似て怪我でもしたらつまらんと。で、突きん棒一本やりの漁師としての腕は上達して村(シマ)一番となりました。結果それで良かったのかと」「邯鄲の歩みとは」「昔、邯鄲の国に出かけた人がそこで上品な歩きを見てマネしたらしいの。帰国したら自国の歩みともに忘れてしまってたって。本分を捨ててマネしたら両方とも身につかない。虻蜂取らずと同じでしょうか」「で、現在の貴方にとっては」「低収にも無欲の彼ですが、心を広くして見守るべきかなと」「解りました。実存ヒプノです。未来へ行きましょう。邯鄲の歩みを課題として受け入れた三年後です。何をしています」「散歩しています二人で。彼は仕事を楽しんでるようだし安いお給料ですが、私がお産で働けなくなったら、その時は残業を増やして苦労はさせないからと言うのを信じようかと。逆に仕事人間になって家庭を省みなくなったら、それはそれで困るのですが」という彼女に課題を引き受けなかった方の未来をしなかったのは、笑顔に少しの曇りも見え無かったからだ。
帰ろうとする彼女を自宅の菜園に招き、大根を数本引き抜いて渡しながら言った「時期終りの大根です。〈穏座(おんざ)の初物〉と言って、時期終りの野菜や果物は初物と同じく珍重だとの意味なんですよ。人間は神童とか早期成長組がもてはやされる傾向にありますが、大器晩成の語は晩年になって成し遂げる、妙味を出す人もいるという事ですよ。彼はそのタイプかもしれませんね」。
目覚めるなり慌てた。通院予定日だったのに携帯のアラームが鳴らなかったのだ。大事な日に充電不足かと悔やんでも仕方ない。ゴミ収集日でもあった事に気づいてドアを開けると登校する児童の姿が見えた。八時前だと安堵してゴミを出し、着替えながらテレビで時間を知ろうとした。が、点かない。リモコンも電池寿命だったらしい。諦めて車に乗った。だが。何度やってもスターターが作動しない。ウンともスンとも謂わないとはこんな状態を指すのだろうが、エンジン関係には全くの素人だからどうしようもない。厄日だったかと思いながら病院迄歩く事とした。逆にこの歩行が血糖値と血圧にいい検査結果を出してくれるかもと思う事にする。災いを転じで福と為せ、は精神(スピリ)世界(チュアル)では〈マーフィの法則〉又は〈引き寄せ〉論だ。じゃれながら登校している児童数人を追い抜くと、おはようございますとの彼らの声。振り向いて挨拶を返す。都会では子供に見知らぬ人へ声をかけるなと教えると聞くが田舎は純朴でいいと思いつつ、自転車の鈴の音で避(よ)ける。ヘルメット帽の二人の女子中(J)学生(C)がおはようございますと、鈴より軽やかな声を掛けて追い抜いていった。爽(さわ)やかな笑顔に〈イイ娘さんになるんだよ、嬢ちゃん達〉と寅さんが投げかけそうな語を浮かべて、いや、彼はこんなヤラシイ言葉はしないかと打ち消し、ともあれ、笑顔は貰ったしマーフィさんは上手く転んでいるぞと頬を弛めているうちに病院に着いている。
玄関前には数人の患者らしきがいた。囲まれるように看護師が扉を背にしている。ガムテープを持った手は背後の紙を貼ったところとみえた。紙には〈急な停電の為、休診させて貰います、申し訳ありませんがご了承下さい〉の手書き文字。「薬だけでも出して貰いたいんだ」「先生は聴診器を当てるだけだから処方箋(せん)は同じのを出せるだろ」「車が故障でわざわざ自転車で遠くから来たんだ、何とかして下さいよ」に、おや、同じく車の故障者がいるもんだと思いながら口を挿(はさ)んだ「自家発電があるでしょ。それ使えば処方箋くらい取り出せるんじゃ無いの」。
看護師は答えた「自家発電が起こせないんです。ポンプが動かないし業者さんに頼むにも電話は通じなくて。午後からの透析や手術迄に電気が戻ればいいのですが。情報は無いし、どうなってるか知りたいのはこっちですよ」。
悲壮感を漂わす表情に診察は諦めて隣の薬局に向かった。馴染みの薬剤師に「臨時休診なんで薬を出して貰えませんかね。後で処方箋は持参するんで。何年も同じ薬だし、これで貰えませんか」と、お薬手帳を出すと「そうして差し上げたいのですが、業者管理なので開けられないんですよ」と先程の看護師にも似た困惑の表情で答えた。
仕方なく帰宅の途についていると、又もチリンと鈴の音。
傾きかけた運を取り戻すべく笑顔を作って振り返ると、JCとは真逆のむくつけき顔。モモジローだった。「何だブン、その顔は。にやけてる場合じゃないぞ。お前の所に行く途中だった。停電だろ」。
返事を待たずにモモは続けた「金持ってるか」「二万。借金か」「そんな事態じゃない。近くのホームセンターは何時に開く」「十時だが園芸専門の入り口からは七時には入れる」「好都合(ラッキー)だ。行くぞ」と二人乗りで向かった。信号機は点滅してない。「交通整理の警官がいないぞ、モモ。事故が起こるんじゃないか」「走ってる車がいないだろ、どうだ」「路肩駐車はいるが走行車はいない。どうした事だ」「後で説明する。ライフラインの買い出しから先だ」。
鹿児島で不測災害と言えば、南海トラフ地震か桜島大爆発が想定されるのだが、モモは防災セットを常備している用心派なのだ。自宅で兵士用の簡易浄水器を見せてくれ、非常食も一週間分はあると語ってたヤツが口走った「サバイバル」の語がピンとこないまま、ホームセンターに向かい、着くなり彼が言った。
「時間との勝負だ。金出せ。非常事態だ。サバイバル突入だ。車が動いてなかったろ。給水車も食糧救援車も来ない事態が続くと思え。水と食糧の確保からだ。お前ン家(チ)が子供入れて三世帯、俺と合わせて四世帯の生活備品を買うぞ。俺は十万ある。お前は家にいくらある」「七万あったと思う」「俺が買う間に、自転車で戻って全額持って来い。帰りは一輪車で来るんだ。一台しか無いか」「畑に地主のもある」「二台で来れるか」「忘れたか、俺がバイト時代に猫車のブンと言われてたのを」「だったな。急ごう、早い者勝ちになる」。
重ねた一輪車二台を押して戻ったのは十分後。がら空きのセンター駐車場の隅にモモはブルーシートを広げていた。「ここに集めてシートを被せる、いいな」。
小山の如く大量に買い集めた物は。大型紙函入りの飲料水、カセットコンロ、ガスボンベ、米、乾麺にパスタやラーメンに缶詰めなどの食糧類、ローソクにマッチ。大ポリバケツ四個など。
「常備薬はあるか」と訊かれて「据え置き薬箱がある」と答えると「グッジョブ。それよりかお前の持病薬だ。病院で貰えなかったろ」「溜(た)め置きが数か月分はある」「飲み忘れたヤツだな。上出来だ。後は外傷だ」と言い残し、エアーサロンパスに傷テープまでヤツは仕入れてきた。
簡単に購入できた訳では無い。停電の為にレジスターが機能してなかった。ヤツは算盤(そろばん)を買い、店員の前で計算して支払いしたらしい、俺は複写用紙を買い、そこに購入額を書き移して店員に確認させて支払いした。消費税が内税だったのは幸いし、カンパ用に溜めていた小銭、洗面器一杯程あったそいつで釣銭無しの支払いをすませ、パンとドリンクを口にすると昼をとっくに過ぎていた。
午後からは荷物運びだった。「シートは被せてるし、運ぶ車も無い。盗られはしない」とのモモに同意した。が、一輪車にもシートを被せて秘かに運搬するというヤツの周到さには舌を巻いた。徒歩で往復十分のところを十五分かけ、十回近く往復した。「何を運んでるんですか」と訊いてくる人達には正直に答えた「水ボトルです」。「断水ですものね。大丈夫、間もなく停電は復旧しますよ」とか「断水が続くようだったら給水車がきますよ」が反応だった。ゴミ収集車が来ていない事に気づいていない彼らには「だといいですね」と答えるしかなかった。
黙々と運んだ訳ではない、モモが立て続けに訊いてきた「風呂水は溜めてるか」「いつもな」「上出来だ。トイレ流しに必須だからな」「バーベキュー道具も持ってたな」「おう」「着火剤と炭は」「少しある」「買おう。塩はあるか」「判らん」「買おう」「縫物道具は」「無い」「買う」「懐中電灯は」「ある」「だが恐らく役立たずだ、愚問だった。石油ランプが必要だが、ガソリンスタンドが営業できない筈だ。念の為にカーバイトも買っとくか」
夕方近くになると往来者が増えていた。自転車や徒歩で買い物に行くらしい人達に昼前と異なる緊迫感が見えたのは、車の異常に異変を感づいた為と思われた。
思い出したように彼は質問を続けた「畑はどうなってる」「玉ネギにニンニク、ソラマメが間もなく収穫。後の夏野菜の種は注文で届いている」「必要になるのは澱粉質だ、芋類はどうなんだ」「薩摩芋は種芋を保存している」「じゃが芋は」「無い。が、あの店に出ていたヤツは種芋として使える」「買おう。でんぷん粉、小麦粉も忘れてた。追加だ」。
「ガスバーナーはあるか」と訊いてきたのは飲みながらだ。「着火用の小型ならある。何に使う」「雨水浄化用の活性炭を作る為だ。煮沸(しゃふつ)が出来なくなった時の予備だ」。
飲酒とは不真面目のようだが、二人とも好き者だからしょうがない。この日、大胆と繊細さの両方を見せたモモは、二杯目になって本題を切りだした「この全電力電波停止(ブラックアウト)をどう思う」。「さっぱり解らん、全く情報が入らんのだからな。車や電子機器に電池も動かないのはただの停電で無い事だけは解る」「携帯やパソコンで確かめようも無いから推測だが」「聞かせてみろ、モモ」「電磁波異常だ、〈空からの津波〉と言われる襲撃を受けた」「空からの津波だと。何だそれは」「電磁パルス。原因は二つ考えられる。一つは太陽フレアの大爆発」「太陽フレアだと」「小爆発を毎日起こしている太陽が何らかの理由で大爆発を起こした」「もう一つは」「電磁バルス攻撃だ。EMPと呼ばれる核攻撃を受けた」「Jアラートはならなかったぞ」「ミサイルは不要だ。気球を使って上空三十キロで核一個を爆破させれば西日本全域の電力網破壊だ、二個で日本全壊。高度百キロなら一発で済む」「そんな大型核が」「ノン。広島長崎型の三分の二の小型核で充分なんだ。気球での爆破なら少数のテロ集団(グループ)でも可能だ。爆発の熱線や衝撃波は地上に届かないし誰も気づかないうちに沈黙の攻撃で終了(アウト)だ」「SFだろう、聞いた事も無い」「軍事研究家の間では知られていた、自衛隊化学学校元校長も警告していたさ。五十年前の一九六二年、米国は高度四百の爆発で千三百キロ離れたハワイの停電を起こした。中露もEMPの配備と対策は完了していると考えられている。北は一昨年保有宣言してた」「イージスとかの追撃ミサイルは機能せずか」「何十発も来たら無力さ、一発でジエンドだからな。電子機器の破壊で空母もステルスもオスプレイもオモチャになった。今頃は大量の飛行機墜落事故で大騒動のはずだ」「先制攻撃しか無しか」「無駄。アルミなどの特殊な格納倉庫で核を保管出来たら、後で持ち出しての報復は可能だ」「対策は無かったと」「俺達の主張、核なき世界を一刻も速く作るべきだったのさ」「電磁バルスによるものだとしたらどれくらいだ、復旧迄」「復旧とは」「電力」「日本全土が被害に遭ってたら数年」「数年での被害は」「一年内に九割が死亡」「嘘だろ」「米国試算だ。火災、食糧不足、疫病蔓延(まんえん)等による。それより電源喪失による川内原発のメルトダウン、放射能漏れが起きたら風向き次第ではここも危ないぞ。情報はないからそれこそ運は風任せとなる。最終的には、だ」「何だ」「本土以外で被害に遭ってないと推測される沖縄、そこからの支援次第だな、復旧は。沖縄も判らんが」
酔えなかった。モモも酔う事無く淡々と自説を述べていた。ヤツは繰り返した「大騒ぎは無駄だ。パニックを招いての無法化こそが怖い」。
翌日、スコップと鍬を持ってモモはやってきた。そして午前はポリタンクの追加四個に食糧と飲料水、チリ紙、消臭除菌剤などの買出しに往復した。客は購入制限の貼られた物品前に列をなしていた。午後からは庭に別個に穴を掘る。深さ一米を超す穴は排泄用と生ごみ用。排泄用はシートで囲い、生ごみは堆肥用に。
「自分ところの対策はしないのか」と途中でモモに訊いた。「食糧が切れたら夫婦でここに来る、十日程先かな.防犯対策には大家族がいい。部屋はあるだろ」「四家族の部屋はある」、と無表情で答えたのは聞いたモモが無表情だったから。続けて訊いてきた「冷蔵庫も冷凍庫も満タンだと言ったな」「一人なら半月は暮らせる」「電気無しで二日経ったからそろそろヤバイぞ。明日燻製にしよう」。
翌日。来るなり訊いた「子供家族からの連絡は」「無し」「逞(たくま)しいな。有り金は探したか」「三千円程だった」「合わせて六千だな。相談せずに悪かったが掘り出し物を見つけて買ってきた。立て網だ。深さ二米で幅五十だ。食糧が尽きたら皆で漁港傍のお前の別宅に移動だ。ヒーリングハウスではこの立て網が命綱になると思ったのさ」。
三日目の買出しに出ると、水や食糧は何一つ無かった。干し籠網十個とチリ紙にパンク修理キット、これは別宅でのゴムボート補修にも必要だと十組買い、全額を使い果たして帰宅後、炭に着火する。火力を上げたのは活性炭用、普通に熾(おこ)した炭では燻製を。火が熾(お)きるまでに冷蔵冷凍庫の中身を仕分けした。火を通さずに干し籠網に入れる食品は、風が通るように詰め込み過ぎない配慮もした。肉の加工にもモモは慎重さを見せた。全部を燻製で無く、塩漬けも作って保険をかけようとの提案に同意する。
コンロの真向かいで肉を綿棒で叩いて伸ばした後、大量の塩を擦(す)り込みながらヤツが振り向いて訊いた「火は熾(お)きたか」「ああ。だが火力が強いと肉を焦がしちまう。熾火になってからだ」「さすが元山男だな。ブンお前、危険な昆虫とかの本を持ってたよな」「おう、食べられる山野草の類(たぐい)もな」「よろし。今からは知力が生存に必要な道具(アイテム)となるかもな。〈知は力なり〉はベーコンだったかね」「そう。偉大な経験論哲学の祖は、鶏の保存を雪中でやった実験の為に病死した」。
微(かす)かな笑い声だったのは、煙を避けるべくヤツが後向きになったからだ。後姿に再び声を掛ける「こんな過酷事態をよ、一発逆転する術(すべ)は無いものかね。台風一過の碧空みたいな」「あるさ。簡単だわ」「何だ」「現実で無くこれは悪夢だと思うのよ。唯心論の得意技だろ」「三日目だぞ。そんなに続く夢なんてあるものか」「あるさ。一炊の夢、若(も)しくは邯鄲の夢だ。一生の栄枯盛衰の出来事、それは一炊が出来上がる迄の僅(わず)かな時間の夢だったという話だ」「故事かよ。夢だったらいいのにな」と返して、モモの煙に揺れる背中を見つめる。背中に木蓮の花びらが音もなく落ち続けている。
-----終-----