ヒプノ 鹿児島
竜宮城から戻ってきた――実存ヒプノ十一
橋 てつと
どんぐりさん達が樹上で騒いでいた秋の或る日に突然の来客。玄関に居たのは山猫さんでは無く金色の亀さんでした。彼が言うには「かの節はお世話になりました。お礼に、代表して先生をお誘いにきました」「竜宮城チな」「勿論」、にニンマリしましたね.乙姫の招待なら独身の私には天にも昇る話です。亀さんが口を緩めたのは(このスケベジジイ)と察したからかもしれません。
「潜水具は無いんだけど」と訊いたのは既に亀さんの背に跨(またが)ってから。「大丈夫(ケンチャナヨ)。すぐにインナーズハイになっちゃいますからね。それより催眠(ヒプノ)の話でもしませんか」「おう」「実存ヒプノの方はいかがです」「まあまあだね」「過去生に戻るんでしょ。実は今、同じく過去にタイムスリップ中なんですよ」「ホントけ。タイムフリーとの謳(うた)い文句ながら、ラジオなんかは一週間ぽっちの過去だぜ」「否(ノン)。亀は万年と聞くでしょ、お楽しみに。それより」「何だい」「実存ヒプノ以外に新しい催眠(ヒプノ)とか始めてないんですか」「やってるさ。本邦初の〈タラレバ療法(セラピー)〉なる技法を開発したよ」「それは」「人生には幾つもの分岐点がある。過去のある場面で別な選択をしていたら、の〈たら、れば〉を催眠(ヒプノ)で再現するのよ」「歴史に〈タラレバ〉は無いと聞きますが」「個人では有るのさ。過去で選ばなかった他の異次元(パラレル)世界(ワールド)が。それを見せてあげるんだ。実存ヒプノの別生場面(バージョン)だと思って貰えばいい」
さて、竜宮城に乙姫の姿は見えず、気落ちしました。が、来賓席に着くとすぐに歓待の宴が始まり、多くの鯛(たい)や鮃(ひらめ)さん達が舞い踊るで無く、お酌に来てくれたのでした。彼らは、私の初任高校の二年生の顔で、自分は二十六歳の新採教師に戻っていたのです。
「先生、ご存じでしたか私達の交際を。後に結婚したのですよ」と真っ先に告げに来た鮃さん、控えめだった彼女が指さしたのは優等生委員長の鯛くんでした。
「修学旅行中に面会に来た姉さんに一目ぼれしてさ、キミの卒業を待って頼むつもりだったんだが、急な転勤で」と鯛くんに言ったら、「姉貴を狙っていたとはな。でも姉貴は早世したんだよ」と彼は呟(つぶや)いたのでした。
「平和運動されてるの」とお酌にきた鮃さん。「微力ながらね」「偉いな。亀さんが泳いでる世は〈麟(りん)鳳(ぽう)竜(りゅう)亀(き))とかで、平和な時代らしいですわ。でも」「何」「亀さんの背に毛が生える時は戦争間近だとか。兎角(とかく)亀(き)毛(もう)というんですって。さっきの亀さんはどうでした、毛」「気づかなかった」「注意を怠ったらいけませんね。なし崩しの改憲とかされて、気づいたら開戦では後の祭りですから」。
と、教え子に諭(さと)されます。
「十歳違いだったが、先生は年の離れた兄貴だった。先生が教えて呉れた歌を披露します」
マイクを手に鯛くんが歌ったのは【戦争は知らない】でした。
「先生の夢は何ですか」とは鮃さん。
「夢かい」「校長先生とかにはならないの」「ああ。生徒と触れ合える〈生涯一教師〉の方がやり甲斐があると考えている。だから、今日は招いて貰えたんだろうし。それに」「何」「学生運動の頃、多くの友人が逮捕されて大学を去ったんだ。体制側に就く管理職、それの拒否は、夢を手放さざるを得なかった彼らへの義理でもある」「義理ですか。へえ。意外と旧いんですね」と。
「いつでも相談にのるよ、と言われて嬉しかったです」とは隣のクラスだった鮃さん。「私にだけじゃなかったんでしょ」との問いには「ウン。教育相談と人権同和教育の係は生涯続けようと思ってたからね」と返しました。
「先生ン家(チ)は生徒や卒業生の溜まり場だったよな。だからか転勤の引っ越しにも多くの手伝いで、先生は何もしなかったろ」と言ってきた鯛くんは饒舌(じょうぜつ)だったのですが、「一向に嫁ごうとしない娘が心配だ」と零(こぼ)したので「なら、オレにくれよ」と言った途端、口を噤(つぐ)んでしまいました。
酒が進んで舌の回転が良くなり、亡き妻が好きだったチューリップを毎年育てていると洩らしたら、愛妻家だと広まり。種子の入手先を通販だと口を滑らしたのです。それを隣で聞いていた鮃さんは種苗店経営でした。で、彼女に鮃謝り、否(うんにゃ)、平謝りして今後は地元店を大切にすると誓った次第です。
退行催眠や輪廻転生論をもっと知りたいと近づいてきた鯛くんは、「独身を貫いて天涯孤独の身となった今、生きる意味を深く知りたいと思う」と語って来たので「同じく独り住いだから、いつでも来いよ」と答えました。いつまでも教師生徒の関係では無いのですが。
「教師冥利」を存分に味わった宵に、見上げた満月の美しかった事。そして思ったのは、「若輩時のオレって、教師力量なら新月に近いんだよな」でした。
お土産に、玉手箱を貰い、現生に帰宅してなら開くと中には高級焼酎が。喉から手を出して開栓し
戻り着くと、玉手箱を開けるまでも無く、そこに居たのは竜宮の宵から四十三年を経て古稀を迎えんとする、哀しくも白髪の生えた自分でした。 終り